覚醒
諸君よ。欣喜雀躍せよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット、ジダンダ、ステップせよ。
交通巡査も安全地帯も蹴飛ばしてきまえ。
古来今に亘る脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱歌を歌え。
吾輩……アンポンタン・ポカンは遂に此の如くにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキ付けて、絶叫する光栄を有するのだ。……曰く……
……脳髄は物を考える処に非ず……
……と……
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
母が息を切らして病院の個室までやってきたのは、ちょうど正午のことだった。
「はぁ……はぁ……叉雨」
私は、名前を呼ばれたので、首を少し捻り、母と目を合わせる。
それだけのことで、母は感極まった。
「良かった! 本当に良かった! 叉雨が意識を取り戻してくれて!」
母は、私が横たわるベッドまで駆けて来て、点滴のチューブに引っ掛からないように気を付けながらも、私の右手を、両手でギュッと握る。
あられもなく大粒の涙を流す母の姿を見て、私は、然もありなん、と思う。
羽中にバタフライナイフで複数回刺された私は、生死の境を彷徨ったのである。
大学病院に緊急搬送され、緊急手術を受けた。
その結果、何とか一命を取り留めた。
もっとも、私が受けた手術は、主治医曰く、「手術が成功したとしても、意識を取り戻すという保証はない」というレベルの大手術だった。
そして、実際に、私は、術後八日間は、全く目を覚まさなかったのである。
目を覚ましたのは、今からつい五時間ほど前だ。
私からすると、起きたらなぜだかカレンダーの日付が一週間以上進んでいるな、くらいの感覚でしかない。
しかし、母からすると、八日間、心配で眠れない夜を過ごしたはずなのだ。
私が動いている姿は、母にとっては念願の光景なのである。
「叉雨、大丈夫? 身体が痛いとかはない?」
「……別に」
「喋りにくかったら、無理に喋らなくても大丈夫だよ」
「……別に、普通に喋れる」
さっきも、主治医と看護師と話したばかりである。
「叉雨、眠い?」
「ううん。全然。八日間も寝てたから」
「本当は眠いでしょ。眠そうな目をしてる」
「生まれつきじゃない?」
「叉雨、本当に無理しなくて大丈夫だから。私のことは気にせずにゆっくり休んでね」
母は、心から私のことを気遣ってくれているのだと思う。
それは、おそらく、私に「いつも」のような元気がないように見えているからだ。
たしかに今の私は、点滴のチューブを外すことができないほどに不健康な状態である。動かせるのは首と腕と手くらいだ。
とはいえ、母から見て、私が「冷めて」見えるのは、私の体調の問題ではない。
これが私の新しい「通常運行」なのだ。
「……叉雨、怖かったでしょう。あんな目に遭って……」
これもきっと、母が私のことを心配して掛けた言葉なのだろう。第三病棟の廊下の突き当たりで私を襲った事件。その事件が、私の心に暗い影を落としてしまったに違いない、と。
あの事件が私をすっかり変えてしまったことは間違いない。しかし――
「まあ、ちょっと躓いて転んじゃったみたいなもんだよ」
決して強がりではない――今の私は、真剣に、そう思っている。
本来、人生とは、ああいう類の危険に満ちたものなのだ。たまたま幸運を味方につけたがゆえ、そのことに気付かないまま伸う伸うと生きている人間があまりにも多いのだが。
「躓いて転んだ? そんなノー天気なこと言わないでよ。死にかけたんだから」
「少しだけ運が悪かったことは認めるよ。少しだけね」
「少しだけって……」
異論は認めない。
本当に運が悪かったのは、私ではなく、海原である。
――海原は死んだ。
海原は、鈍間な私を庇って、命を落としたのである。
あの場面で、あの頃の私が、俊敏に動き、海原の死を回避し得た可能性がある、とは思わない。
しかし、海原にも、生きる可能性はあったとは思う。
私が生き延びることができたのは、羽中に襲われている途中に、路下がやってきたからである。
惨劇を目の当たりにした筋肉質の看護師は、羽中を後ろから羽交い締めにし、攻撃を止めさせた。
仮にあと数十秒早く路下が迎えに来てくれていたのであれば、海原の命が救われた可能性がある。
――否、実現しなかった可能性の話など、しても意味がないのである。
海原は死に、私は海原の死を利用することで生き延びている。それだけが現実である。
そして、私が海原の犠牲の上で生きているというのは、単に、海原が盾になってくれたおかげで、路下の救出を待つことができた、という意味だけではない。
今、海原は、私の中に――
「ママ、むしろ私は運が良かったの。適切な臓器提供者が、身近にいたんだから」
臓器提供者――私は、死んだ海原から、肺、肝臓、腎臓の移植を受けたのである。
私と海原は、同じ大学病院に緊急搬送された。
海原は、ナイフが心臓まで到達しており、病院への到着を待てずに、搬送中の救急車の中で死亡した。
他方、私は、心臓への致命傷こそなかったものの、複数の臓器にダメージを負っていた。
私が救われる方法は、一つしかなかったのである――
「ママも、海原さんには感謝してる。海原さんの血液型が叉雨と一緒だったという奇跡にも本当に感謝してる」
私と海原はともにO型だった。
臓器移植のためには、血液型が一致しているだけでは足りず、その他にも適性を確かめる様々な検査もされたのだが、いずれも合格した。
皮肉なことに、私と海原の相性が抜群だったということが、海原の死後に証明されたわけである。
海原は、私にとって、最高のパートナーだった。
そして、今も――
「ママ、海原さんは私の中にちゃんといるよ。今の私は、私だけの私じゃない」
この私の実感は、産みの母親からすると複雑なものだろう。
娘は、一命を取り留めたものの、今までの娘ではなくなってしまったのだから。
しかし、私は、そのことを特段悲しくも、特段嬉しくも思わない。
――それが紛うことなき現実だからだ。現実は一つしかない。
案の定、母は、私の告白に一瞬眉を顰めたものの、やがて私の手を強く握り直した。
そして、「とにかく無事で良かった」と声を漏らしたのである。
「叉雨が目を覚ましたことは、お父さんにも伝えてあるから。当面の仕事が片付き次第、日本に来るって」
「ううん。パパは来なくて大丈夫。だって、昨日、アメリカで大統領候補が射殺されたんでしょ。忙しい中無理しないで」
父は、ワシントン特派員である。米国議会を揺るがす大事件が起き、身体がいくつあっても足りない思いをしているのだろう。
「……叉雨、どうしてアメリカのニュースを知ってるの?」
「新聞で読んだ。看護師さんに頼んで買ってもらったの」
私は、ベッド脇の棚を目で指す。
そこには、今朝の朝刊八社分が積まれている。そのいずれの新聞の記事も、私はすでに読み込んでいる。
「叉雨って、新聞読むんだっけ?」
「馬鹿にしないでよ。私、記者になったんだよ」
私がそう言い張っても、母は怪訝な目を崩さない。
両親が記者ということもあって、我が家では、常に三紙ほどの新聞をとっていた。しかし、母と父がいくら勧めても、私が新聞を読むことはなかった。就活の際の面接対策として、新聞を読む必要に迫られたときも、私はネットニュースのまとめ記事で済まそうとしていたのである。
「ママ、お願いしても良い?」
「何か欲しい物でもあるの?」
「うん」
「良いよ。何でも言って」
「本を買ってきて欲しいの」
「本? ファッション雑誌かしら?」
母がそう思うのも無理はない。「今まで」の私は、字ばかりの本を読むことなど滅多になく、本を読むとすれば、写真がデカデカと載ったファッション雑誌だけだったのである。
しかし、「今の」私が読みたい本は、そんな本ではない。
「ママ、私が読みたいのはね――」
私が名指ししたのは、ほかでもない、「例の奇書」だった。