日常(2)
瞬間的に、私の脳は、それを悪魔として捉えた。
それの正体が何かを認識する前に、私の脳神経は、得体の知れない恐怖、それだけをたしかに受容したのである。
暗闇から現れた「悪魔」は、鋭い目で私を睨みつけた。私には実体の分からない、しかし、そうとしか解釈のできない明確な殺意によって、私は拘束される。
動くことも、悲鳴を上げることもできなかった――
私の運命はすでに決まっていた――
――死。
私は、「悪魔」の巨大な憎悪によって、のされてしまってる。このまま、私は、「悪魔」の牙で心臓を突かれ、無惨に殺されるのである。
ちっぽけな私には、抗う余地など無かった。
私にできる唯一の抵抗は、目を瞑り、視界を塞ぐことで、断末魔の絶望を少しでも和らげることくらいであった。
身体に受ける衝撃――
倒れ込むとともに、血の匂いが脳に充満する――
絶望の始まりと、全ての終わりを告げる血の匂い――
私はこのまま――
「おい! 何やってんだ! 早く逃げろ!」
聞こえたのは、いつもの吃りがないが、間違いなく海原の声だった。
私は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
見えたのは、コウモリの羽のような黒いマント――海原の背中である。
私は、ようやく事情を理解する。
海原が私の盾となり、「悪魔」の攻撃から私を守ってくれたのである。私が嗅いだのは、私ではなく、海原の血の匂いなのだ。
そして、「悪魔」の正体は――
――病院着を着た老婆――羽中である。
一昨日、レクリエーション室で会話をした患者が、人相をすっかり変え、手に小刀を握り締め、海原と対峙しているのである。着ている白い病院着には、小刀から滴っているものと同じ色の血が飛び散っている。
「羽中さん、どうして……」
「そんなことどうだって良い! 早く逃げろ!」
海原は、私に背中を向けたまま、大声で私に指示をする。
そして、右手でマントの中をまさぐり、銀色に光る物を取り出した――バタフライナイフである。
人間不信の海原が、護身用に持っていたナイフに、望まれぬ出番が訪れてしまったのである。
海原が手首にスナップを利かせると、ナイフの鋭い刃先が飛び出す。イヤらしいくらいにピカピカと輝く刃先が。
それに対して、羽中が握っているのは、彫刻用の小刀である。
武器の点では、海原に分があるように思える。
武器の点だけではない――羽中は女性であり、年老いて、背筋も曲がっている。それに対して、海原は、おそらく三十代半ばくらいの、大男なのである。
体格、体力差も歴然だ。
しかし――
――突然、海原は、大きくふらついた。
私を庇った時についた傷のせいである。海原の背後にいる私には、傷口は見えない。ただ、血の匂いと、床の血溜まりの存在だけはハッキリ分かる。
海原は、すでに致命傷を受けてしまっているのだ。
マズい。このままだと――
「海原さん、逃げてください!」
「君が逃げろ! 早く起き上がるんだ!」
私がここに倒れ込んだままでいることが、海原にとって迷惑なのだということは分かってる。頭では分かっている。しかし――
情けないことに、私の腰は完全に砕けてしまっており、身体がちっとも言うことを聞かないのである。
私は、固定視点で、最低最悪の映像を鑑賞することを余儀なくされている――
海原が、再度よろめき、前屈みになる。
その機を狙い、羽中が、海原へと詰め寄り、小刀を振り回す。
廊下の壁に、血飛沫が飛ぶ。
それだけではない――
小刀の刃は、海原の右手に当たり、その衝撃で、海原はバタフライナイフを床に落としてしまったのである。
そして、そのナイフを、老人とは思えない機敏な動きですかさず拾ったのは、羽中だった。
「海原さん、もうダメです! 早く逃げてください!」
私の叫びは、懇願にさえならない。
これから先の展開を動かす力など、海原には残されていないのである。
ハーハーと激しく息を吸ったり吐いたりするだけで、顔を上げることさえできていない。
立っているのがやっと、という状態である。
――それでも、海原は立ち続けていた。
そして、私に向かって、言う――
「僕の家に資料がある……うっ……」
羽中がバタフライナイフを、海原の胸のあたりに突き刺した。
ポタッポタッと血が滴る。
「僕は君を守った。……だから、君は生き延びて、僕の家に行って欲しい。そこに資料が……うっ……」
羽中がバタフライナイフを引き抜く。
床の血溜まりの量が、一気に増える。
もう終わりだ――
「……君が僕の代わりに事件の謎を明らかにするんだ……」
「海原さん……」
「…………役割分担だ…………」
それが海原の最期の言葉となった――
マントをはためかせ、海原は――
――華麗に散った。
私という、ちっとも役に立たないパートナーを残して――
不可能だ――私には――
羽中の尖った目は、次の獲物である私を捉えている――
海原は私のために犠牲になってくれた――それなのに――それゆえに――
――私の身体は、微塵も動いてくれない。
ダメだ――ダメなのだ――私は――
ダメな私は、この期に及んで、命乞いさえすることができなかった――
私は、震える声で、羽中に尋ねる。
「……どうして……どうしてこんなことを……?」
羽中は、私ににじり寄る。
そして、無防備な私に対して、刃先が真っ赤に染まったナイフを振りかぶる。
羽中が、冥土の土産に私に持たせてくれた言葉は――
「お前らがミナコを殺した」
これで第三章が終わりです。
ようやく物語が動きました。
読者様からすると、唐突な展開かとは思いますが、僕としては、「ドグラ・マグラ」を扱おうと決めた段階から、この展開を考えてました。理由は、次話以降を読めば分かると思います。
次の第四章が最終章です。夢遊病殺人と、羽中による襲撃の二つの事件を一気に片付けなければならないので、作者的には荷が重いのですが、勢いで書き上げたいと思います。
お読みいただいている方々ありがとうございます。プロの校正並みに丁寧にお読みいただき、誤字報告をしてくださっている方にも感謝しております。
第四章に全て詰め込みますので、最後までよろしくお願いします!