遺伝(3)
気付くと、また私の目の前からはメモ帳が消えていて、ガリガリと万年筆を乱暴に扱う音がする。
きっと海原も、真犯人による犯行説を疑っていて、それを裏付けるような質問を私に与えようとしているのだろう。
海原の職業は、探偵である。客観的な事実を明らかにする仕事である。海原は、心理遺伝とかいうエセ科学に惑わされることなく、唯物科学的な結論を追求しているはずなのだ。
果たして、海原が私に与えてくれた質問は――
「『普段見る悪夢の中身について詳しく』……」
あまりの衝撃に、私は、メモ帳に書かれた文字をそのまま読み上げてしまった。
「悪夢の中身」とは、全くもって唯物科学的ではない。海原は探偵である。とはいえ、我が社の「準レギュラー」でもある。要するに、脳が腐ってしまっているのだ。
海原の書いた文字をそのまま読み上げたため、まるでネット掲示板民のような口調になってしまったのだが、史乃は、懇切丁寧に質問に答えてくれた。
「悪夢の中身……この前も話したとおりなんだけど、家の中に血塗れになった両親がいて、メラメラと燃える炎に包まれていく夢なの」
谷之岸沙弥は、自らの両親を殺害し、家に火を放っている。
先祖の記憶を有する史乃は、まさにそのシーンを繰り返して夢で見ているのだという理解は十分に成り立ち得ると思う。
ただ、改めて考えてみると、私は、細かいところに少し引っ掛かりを覚えた。
「その『両親』というのは、史乃さんの両親なんですか?」
初めて史乃から夢の話を聞いた時、私は、史乃が言う燃えている「両親」というのは、当然に、史乃の両親のことだと思っていた。ゆえに、この夢を、将来の史乃の両親殺しを予告した、いわゆる「予知夢」だと思っていたのである。
しかし、この夢が、心理遺伝によってもたらされた祖母の記憶だとすると、ここでいう「両親」は、史乃の両親ではなく、谷之岸沙弥の両親でなければオカシイ。
つまり、この燃えている「両親」が誰なのかということが明らかになれば、心理遺伝の有無にも決着がつくかもしれないのだ。
「……ごめん。上手く答えられない。燃えているのは、間違いなく「両親」の死体なの。でも、顔はぼんやりしててハッキリしない。その「両親」が、私の知ってる人なのか知らない人なのかもよく分からないの……矛盾してるよね?」
たしかに矛盾している、と思う。顔も分からず、知っている人なのかどうかも分からないのに、なぜそれが「両親」だと断言できるのか。そんなこと、普通はあり得ない。
しかし、これは夢の話である。
夢の中身がぼんやりとしていてハッキリしないということはよくあることだし、よくよく考えてみると矛盾をきたしているということもよくあることなのである。
結局、「両親」が誰かを質問することは、心理遺伝の存在を確かめるリトマス試験紙としては機能しなかった。史乃の悪夢の内容が、予知夢である可能性も、心理遺伝による先祖の記憶である可能性も、どちらも否定できないのである。
私は肩を落とし、ついでに目線も下に落とす。すると、いつの間にやら、私のメモ帳に海原からの追加の質問指示が付け加えられていた。
「悪夢の全体を訊いてくれ。両親が燃えている前後の場面を」
これ以上、夢の世界について突き詰めても意味があるかどうか分からない。とはいえ、乗りかかった船である。
私は、海原の指示に従うこととする。
――しかし、私が口を開きかけたところで、史乃の手がメモ帳にまで伸びてきた。
「質問は探偵さんが考えてるんだよね? 昨日から分かってるよ」
私と海原の「二人羽織」体制は、すでに史乃に気付かれていた。しかも昨日から――
――当然か。史乃は、机を挟んで、私たちと正対して座っており、机の幅は一メートルもないのである。
史乃は、私たちの茶番に、昨日から気付いていながら、気付かないフリをしてくれていたのである。
私は急に恥ずかしくなる――本来、羞恥心を覚えるべきなのは、私ではなく、海原の方なのだが。
自らの手前までメモ帳を引き寄せた史乃が、海原が書いた文字を読み上げる。
「『悪夢の全体を訊いてくれ。両親が燃えている前後の場面を』……なるほどね」
ただ、と史乃は苦い顔をする。
「申し訳ないんだけど、この質問への回答もしょっぱいものになっちゃう。前後の場面は一切ないの。血塗れの両親が火に包まれている場面――ただそれだけの場面を、私は何度も何度も繰り返し見てたの」
私が気になったのは、最後の言葉尻だった。
「『繰り返し見てた』……過去形になってるということは、今は同じ夢は見てないんですか?」
「うん。見てないよ。現実の世界で両親を殺して以降は、私はあの悪夢を一度も見てない」
――なぜだろうか。やはり悪夢は予知夢であり、その役目を終えたからだろうか。
史乃は、メモ帳を、海原の目の前に置く。そして、まるで幼児に接するような優しい声で尋ねる。
「他に質問はあるかな?」
やはり海原は口を開かなかったが、それでも、ぎこちなく首を二度横に振った。質問はこれまでのようだ。
「福丸さんや探偵さんが私から話を聞くことで、一体何を明らかにしようとしているのか、私にはよく分からない」
「実は心理遺伝という超常現象を追ってまして」と正直に告白する……という選択肢はない。私は、黙ったまま、史乃の話を聞く。
「でも、なんとなく、福丸さんと探偵さんは、私を救おうとしてくれている気がするの」
それはあながち間違いではない。
仮に史乃に睡眠薬を飲ませた真犯人がいるのだとすれば、史乃は両親を殺していないということになり、責任能力の有無に関わらず、無実となる。
そして、万が一、心理遺伝の発作が証明された場合にも、史乃に暗示をかけた「黒幕」の存在が明らかになるのだから、やはり、史乃に落ち度はないということになるのだろう。
私は、史乃を救うために、史乃を取材している――そう考えると、記者という仕事も阿漕なばかりではないな、と思う。
「別に私自身は救われたいわけじゃない。でも、私は、福丸さんと探偵さんに真実を明らかにしてほしいと思ってる。私は真実だけを知りたい。両親の死に正面から向き合うために」