遺伝(2)
谷之岸沙弥が連続殺人犯か否か――それは今となってはもう確かめようのないことなのだろう。事件が起きたのはもう半世紀近く前のことであり、容疑者もすでに亡くなっている。
だとすると、答えは藪の中、言い換えれば、それぞれが信じたい答えを「答え」とすれば良い、と私は思う。
――しかし、私の取材の目的を考えると、そういうわけにもいかない。
我が社が求めているのは、心理遺伝のモデルケースの発見である。史乃の夢遊病殺人が心理遺伝の発作であることを明らかにすることである。
谷之岸沙弥が殺人と放火を行ったことは、史乃が心理遺伝の発作を起こしたことの大前提なのだ。
私は、谷之岸沙弥が冤罪である可能性を一旦頭から捨て、もっと決定的なことの聴取に取り掛かる。
「話変わって、史乃さんが夢遊病状態で両親を殺してしまった晩の話なんですけど」
「はい」
「あの晩、えーっと、その、えーっと……」
私は、言葉に詰まってしまう。
私が知りたいことは、私の中では明確なのである。
史乃にかけられた「暗示」について、私は知りたい。
史乃の夢遊病殺人が心理遺伝の発作によるものだとすれば、必ずそのきっかけとなった「暗示」があるはずなのである。たとえば、それは物。その物を見ることにより、無意識下に眠っていた先祖の記憶が蘇り、先祖のかつての行動を繰り返してしまうような、そんな物を、史乃は手に取るか目で見るかしているはずなのである。
それはどんな物なのだろうか――もしかすると、それは谷之岸が殺人に使った包丁かもしれないし、谷之岸が放火に使ったマッチかもしれない。もしかすると、それは私がどんなに頭を捻っても思いつかないような、突飛な物かもしれない。そもそも、物ではない何かなのかもしれない。
私が言葉に詰まってしまうことは、やむを得ないことである。「暗示」の内容が、私の中であまりにも漠然としているからだ。
かといって、史乃に「何か暗示を受けましたか?」と素直に訊くのも妙である。
私は、悩んだ末、
「事件のあった晩、何か特徴的なことはありましたか?」
という、漠然さこの上ない質問を投げ掛けてしまう。
無論、史乃は、キョトンとした顔で、「それってどういう意味?」と問い返してきた。
私は、自分の情けなさに苦笑した後、結局、
「何か暗示のようなものを受けませんでしたか? 誰かに特徴的な物を見せられたり、誰かに特徴的なことを言われたり」
と、素直に訊くことにした。「正直さが長所」だと、最近どこかの誰かにも言われた気もする。
「それは、寝る直前ということですか?」
……おそらくそういうことになる……のだろうか。眠る直前に暗示をかけられたからこそ、睡眠中に心理遺伝の発作が起き、犯罪をしたと考えれば、そうである。
ただ、賀城が挙げてくれた鍬の例によれば、タクシー運転手だかなんだかの人は、先祖が使っていた鍬を見た途端に暗示がかかり、夢中でコンクリートの地面を耕し始めたというのだ。それはつまり、暗示にかかると同時に、無意識に支配され、意識を失うということではないか。
とすると、正確に言うと、暗示があったとすれば、寝る直前というよりは、意識を失う直前であり、ベッドに入って目を瞑るという行動が意識下で行われたとすると、その後、ということにならないか。だとすると、物を使った暗示というのはかけられないだろう。だって、目を瞑ってるのだから。
……いや、待てよ。そもそも、暗示にかかると意識を失うのだとすると、本人には暗示に関する記憶は一切残らないのではないだろうか。先ほどの鍬の例で言うと、鍬を見た途端に意識を失うのだから、当人は鍬を見たことすら覚えていないはずだ。
……いや、鍬を見た途端ではなく、鍬を握った途端?
もう何が何だか分からなくなってしまった。私には、この問題について、インタビュアーとなる最低限の資格さえないようだ。
私が混乱に陥っていることは、史乃に見透かされていた。
優しい史乃は、私を気遣い、「暗示ねぇ……」と真剣に考えてくれた。
「正直なところ、昨日話したことが全部なんだよね。あの晩には、何も特殊なことはなかった。いつもどおりに手錠を付け、いつもどおりにベッドに入り、いつもどおりに目を瞑って、眠りに落ちた。そして、次に意識が戻ってきた時には、公園のベンチで警察に囲まれてた。暗示というのが何なのかはよく分からないけど、私の記憶だと、本当にそれだけなの」
だとすると、やはり暗示の存在は確認できない。史乃の夢遊病殺人が心理遺伝の発作だという証跡は見出し難い。
「……あれ?」
「暗示はなし」とメモ帳に書こうと思い、私が机の上に目を遣ったところ、なぜかあるべき場所にメモ帳はなかった。
――目の前で起きた「怪奇現象」に答えを与えてくれたのは、万年筆の筆先を削るようなガリガリという音だった。
私の右隣に座っていた海原が、私からメモ帳を横取りし、無断で書き込みを行なっているのである。
もしこれが小説であれば、読者は驚くことだろう。「あれ? 海原は面会室にいたの? 海原に関する記述がここまで一度もなかったけど」と。
ただ、面会室に海原がいないと思い込まされていたのは、私も同様なのである。それくらいに、海原の存在感は空気であった。面会室に入ってから一言も発話していない。それどころか、今日、病院の受付で出会ってから、私と挨拶すら交わしていないのだ。面会室のある第三病棟に着くまでの道のりでは、洞爺と二人きりであるかのように私は錯覚していた。
海原が私のメモ帳を使っているということは、おそらく昨日使っていたルーズリーフを持参し忘れたということだろう。
それならば、一言、「メモ帳を借りるよ」と言ってくれれば良いのに――無論、この「極度のコミュ障」男に対して、そんなことは期待できないことは承知しているのだが。
海原は、すぐに私にメモ帳を返してくれた――というのは善意の解釈によるものであり、実際には、私のメモ帳を使い、私に指示を出したのである。
横からスッと差し出された私のメモ帳には、
「寝る前に睡眠薬を飲まなかったのかどうか」
と書かれている。このことを、私の口から史乃に質問しろ、と命令しているのだ。
私は心の中で盛大に舌打ちしつつも、探偵の指示に従う。
「史乃さん、寝る前に睡眠薬は飲まなかったんですか?」
「睡眠薬? たしかに私は睡眠薬を医師から処方されてるよ。ただ、常時服用していたわけではなくて、本当に眠れないときだけ使ってた」
「事件があった晩は?」
「使わなかった。あの日はスッと寝つくことができたから」
これまで海原が私に指示した質問は、説明されないと趣旨が不明なものばかりだったが、この睡眠薬に関する質問については、私にも十分趣旨を理解することができた。
そして、史乃の回答が持つ重みもよく分かった。
史乃が睡眠薬を飲んでいないということは、史乃が、寒空の下、翌朝九時過ぎまで目覚めず、警察に叩き起こされたという事実と矛盾する。
――あの晩、史乃は睡眠薬を飲んでいたはずなのだ。
史乃にその記憶がないということは、史乃に気付かれないように、何者かが史乃に睡眠薬を飲ませたということを示唆するに余りある。
ハッキリ言って、私には、史乃が、心理遺伝の発作などというオカルト現象によって、祖母の犯罪を繰り返したのだとは思えない。
そうではなく、私が疑っているのは、史乃の夢遊病殺人には真犯人がいて、史乃はその真犯人によって濡れ衣を着せられているというストーリーである。
睡眠薬の件は、真犯人による犯行説を裏付けるものであると私は思う。