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遺伝(1)

 谷之岸沙弥の名前を出したところ、やはり、史乃の表情が曇った。

 ついでに言うと、彼女の背景の巨大な窓の向こうの景色も曇り模様なので、薄暗い部屋の雰囲気は、完全にどんよりとしてしまった。



「……そうだよね。祖母の話もしないといけないよね……」


「すみません。上司から指示されまして……」


 責任を賀城に転嫁しつつも、私は、記者の仕事というのはとても業が深いなと思う。その人の探られたくない腹を探り、そこで見つけたものを高らかに掲げることで日銭にありつくのである。感情のどの部分かが麻痺していないとできない仕事かもしれない。



「正直、私が祖母について話せる話はほとんど何もない。だって、私は祖母に一度も会ったことがないから。私が生まれる前に、祖母は死んでいるんだもの」


 史乃の出生との前後関係については整理できていなかったが、谷之岸沙弥の死亡に関しては、賀城から渡された資料ですでに確認している。

 スクラップされた当時の新聞記事によれば、谷之岸は、未決勾留中に拘置所で自殺をしたとのことである。現代においては、逮捕勾留されたものが自らの命を絶てないよう、収容者の衣服は厳しく制限されている。首締めに使い得るゴム状・紐状のものが使われていないかということなどを、施設管理者が細かくチェックしているのである。

 しかし、谷之岸が命を絶った昭和五十年においては、衣服の規制はそこまで厳しくなかった。谷之岸は、自らの下着から取り出したワイヤーを使い、拘置所内で、首吊り自殺をしたのである。



「私の両親も、祖母のことはずっと私に伏せていた。谷之岸沙弥は、私にとって母方の祖母なんだけど、母は結婚して姓が巳香月に変わっていたから、谷之岸沙弥の名前は偶然テレビで目に入ることはあっても、私は、まさか自分がその子孫だなんて思いもしなかった」


 私が史乃の両親の立場だったとしても、当然、谷之岸沙弥のことは隠すだろう。身内の恥どころの騒ぎではない。漆黒の黒歴史なのである。



「私が、自分の祖母が谷之岸沙弥だと知ったのは、小学三年生の頃。ある日、突然、同級生の男子から指摘されたの。『俺の母親から聞いたぜ。お前のお婆ちゃんって殺人鬼なんだってな』って」


「酷い……」


 小学三年生の子どもなので、たまたま知ってしまった事実を無邪気に話しただけなのかもしれない。とはいえ、あまりにも無邪気過ぎる。それは、もはや『悪意に満ちている』と言って差し支えないと思う。



「そこからクラス全体、学年全体、学校全体と噂が広まっていって、私は虐められるようになった」


 史乃の目は涙で潤んでいる。あまりにも悲惨な過去を思い出させてしまい、私は心底申し訳なくなる。



「史乃さん、ごめんなさい。私……」


「ううん。大丈夫。福丸さんは謝らないで。私が大人気ないだけだから」


 そう言って、史乃は、病院着の袖で目を拭う。



「それに、私には『救い』もあったの」


「……『救い』ですか?」


「うん。私の両親は、常に私にこう言っていたの。『お婆ちゃんは人殺しなんかじゃない。冤罪だ』って」


 冤罪? 二十五人もの人の命が奪われた連続殺人事件で、犯人を取り違えるなどということがあり得るのだろうか――



「……濡れ衣だという証拠が何かあるんですか?」


「もちろんあるよ。まず、祖母は一度たりとも犯行を自供していない。というか、そもそも、祖母は、何かまともなことを話せるような状況ではなかった」


「……どういうことですか?」


「祖母は生まれつき重度の知的障害者だったの。知能レベルはせいぜい五、六歳程度。しかも、連続放火殺人の容疑で捕まったことで、さらに具合が悪くなっちゃって、取り調べ中は、アーとかウーとかそういうことしか言えなくなってたらしいの」


 そのような状態では犯行の自供もできないと同時に、弁解もできないだろう。たしかに冤罪が生まれ得る状況だなとは思う。


 いや、待てよ――



「でも、谷之岸沙弥は、拘置所内で首を吊ったんですよね? それって良心の呵責に耐えられなかったからじゃ……」


「違う。警察の取り調べに耐えられなかったんだよ。相当厳しい、半ば拷問みたいな取り調べだったって聞いてる」


 なるほど。そういう解釈も十分に成り立ち得る。事件が事件だし、時代が時代だ。警察の取り調べは、決して紳士的なものではなかったのだろう。



「仮に祖母が『犯人』だとしても、裁判になったら責任能力が否定されて、無罪になったかもしれないね。まるで今の私みたいに」


 そう言って、史乃は自嘲気味に笑う。私は反応に困る。



「それに、祖母が冤罪である根拠は、自白をしなかっただけじゃない。実は、祖母が死んだ後も、事件は止まらなかったの」


「事件が止まらなかったというのは……」


「祖母が自殺した後にも、同様の殺人放火事件が起きたってこと。一家三人が殺され、家が燃やされた。他の事件現場と大体重なる地域でね」


 たしかにそれは重大な指摘だと思う。連続放火殺人事件の真犯人が別にいた可能性があるのである。そんな残酷非道な犯罪が、赤の他人に模倣されることなど考えにくい。



「もちろん、祖母が本当に冤罪なのかどうかは分からない。でも、少なくとも、私の家族の中では、祖母は凶悪殺人犯なんかじゃない、とされていた。そのことが私にとって、何よりの心の支えだったの。その心の支えがなかったら、きっと私は、虐めに耐えられなかったと思う」

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