科学(1)
神保町のオフィスには、始業時間の十五分前に着いた。
私以外の社員はすでに全員揃っていて、私が珍しく早く出勤してきたことに目を見開く……わけでもなく、私の「おはようございます」をほとんど無視するような格好で、それぞれの作業に没頭している。
私は、鼻から大きく息を吸い込んでみて、嘔吐感に襲われないことを確認してから、ボードゲーム――こっくりさんの類だろう――を対面でプレイしている二人の女先輩に声を掛ける。
「今日は変な……いや、魔除けのお香は焚いていないんですね」
「今日は何もない普通の日。魔除けは不要」
敦子が、私の顔を見ず、十円玉を人差し指で押さえたまま――やはりこっくりさんだった――言う。
「今日が不吉な日じゃなくて良かったです」
私は、海原のことを思い出す。昨日あった不吉な出来事は、海原との出会いで間違いない。その困難も、昨日の私は見事乗り切った……はずである。
「叉雨、今日は何もない普通の日。でも、何もない普通の日こそ一番危険。要注意」
……何だそれは。そんなことを言い出したら、毎日「要注意」でキリがないではないか。
私は顔を歪めたのだが、敦子同様、こっくりさんに夢中になっていて私の顔を見ていない木乃葉も、
「何もない普通の日には、背後に狂気が潜んでいます。とても悍ましい狂気が……ひゃあ」
と敦子に同調し、悲鳴まで上げたのである。
やはりこの二人の先輩にはついていけない。私は、広辞苑のように分厚い古書を呼んでいた賀城の肩を叩き、「相談があるのできてください」と誘い、自らはさっさと面談室へと向かった。
面談室に入り、バタンとドアを閉めた私は、あるものに目を奪われた。
――壁に飾られている油絵である。
ヨーロッパののどかな田園風景が描かれたその絵は、元々私のお気に入りだった。普通だからだ。ミステリアスでもオカルティックでもない、普通の風景画だからだ。
ただ、今の私は、あることに気が付き、背筋が凍りそうになっている。
風景画の右上の部分である。そこには透明な川が描かれていて、川沿いには赤い屋根の小屋が描かれている。
それは、青浄玻璃精神病院の受付に飾られている油絵に描かれているものと同一のものなのである。
病院の受付の絵は、株式会社不可知社会の面談室に飾られている絵の一部分を切り取ったものなのだ。
……いや、「切り取った」という表現が正確なのかは分からない。たしかに病院の絵は、面談室の絵の左上の一部である。
しかし、サイズとしては、病院の絵の方が幾分か大きいのである。面談室の絵を切り取り、拡大したのが病院の絵、ということになろう。仮に写真や画像であれば、そういう操作は容易かもしれない。ただ、果たして油絵でそういうことができるのか、芸術に疎い私にはよく分からなかった。
「福丸君、その絵が相当に気に入ってるみたいだね」
「うわぁっ!」
賀城がドアを開けて面談室に入ってきたことに、私は少しも気付いていなかったのだ。それくらい、絵に見惚れてしまっていたらしい。
「……賀城編集長、この油絵って、青浄玻璃精神病院に飾ってある油絵と、なんというか、似てますよね?」
「福丸君、よく気付いたね。似ている、というか、同じものだ」
「拡大コピーか何かですか?」
「そんなわけないだろう。無論、どちらの絵も真作だ。作者は、まるで実際にこの田園風景の中にいるかのように、全体も描ければ部分も描ける。背後からのアングルだって、上空からのアングルだって描けるんだ」
まるでCGゲームのプレイヤーのようだ。今私が絵で見ている世界が、作者の頭の中にそっくりそのまま存在しているということらしい。
「……天才ですね」
「福丸君もそう思うかい。私もそう思う。ただ、作者の社会的評価は、単なる『精神病者』だ」
そうだった。洞爺は、絵の作者は、青浄玻璃精神病院に入院している患者だと言っていた。たしか名前は「サコウ」といったか。
「作者は、誰とも話すことなく、時には寝食も忘れて、ただひたすら油絵を描いている。同じ風景を様々な角度からね。作者は、普通の人がやるべきことをできていない精神病者なのか、それとも、普通の人にはできないことをやっている天才なのか。その線引きはイマイチ私には分からなくてね……」
能力が偏っていることは明らかなように思える。しかし、その「偏り」は、時には天才と持て囃され、時には「病気」として煙たがられるのである。その間に明確な線引きがあるのか、ということは私には分からない。仮にあったとしても、それは社会による恣意的なものだろう。
「まあ、難しい話はこの辺にしておこう。とにかく、私はこの油絵が好きで、福丸君もこの油絵を気に入っている。それだけで十分だよ。それより、福丸君、早くソファに腰掛けたらどうだい? 私に相談したいことがあるんだろう?」