親子(1)
……諸君どうです……。
ここに一つドエライ研究材料が、吾輩の処へ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の若林鏡太郎君で、同君はこれを空前の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと睨んで、調査を遂げて来たものなんだが、一方に、吾輩の所謂「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形容の出来ない程に素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、流石の吾輩も十万億土行きの片道切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければならない破目に立到ったほど、それほど左様に恐しい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノスゴイ暗示材料の正体は勿論の事、その心理遺伝に支配された夢中遊行開始前後の怪奇、凄愴を極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、流れて行くくらい気持のいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に這入ったのだ。実に、国宝とも世界宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何とも彼とも……。
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
株式会社不可知世界に入社して四日目の朝のことである。
「いってきまーす」
「ちょっと待って」
私は、家の玄関で呼び止められた。
福丸叉奈恵――私の母である――の骨ばった細い指が、私の右肩を掴んでいる。
母は、私を見送るために、パジャマ姿で玄関まで来ていて、私がパンプスの踵を踏まないで履けるかどうかを、さっきまでじっと見守っていていたのである。
その母の目が、今は、振り返った私の目をまっすぐに捉えている。
「……私、何か忘れ物した?」
私は、手に持っていた、ほぼ新品のビジネス用の手提げ鞄を軽く揺さぶってみる。中で揺れたのは、入社以降全く使っていないノートパソコンくらいである。忘れ物以前に、仕事に必要なものがほとんど無い。
「ううん。叉雨、ちょっと話があるの」
母は真剣な目をしている。ゆえに、嫌な予感がした。
「……それ、今じゃないとダメ? 早く職場に行かなきゃいけないんだけど」
「始業時間は九時半でしょ? まだだいぶ時間があるけど」
「ギリギリに着くのも良くないからさ」
「昨日と一昨日と言ってることが真逆なんだけど」
母の指摘のとおりである。昨日と一昨日は、私は今日よりも三十分以上遅く家を出ている。職場に行くのが嫌で、なるべく家で粘っていたかったからである。
そのことを母に咎められた私は「始業時間ちょうどに着けば大丈夫だから!」と、たしかに今日とは正反対のことを言っていたのである。
「時間はあるんでしょ? お母さんの話を聞いて」
私は、渋々ながらも、玄関の段差の部分に、カバンを置き、私自身もカバンの隣に座った。母は、さらにその隣に座る。
親子二人で肩を並べながら座り、玄関ドアを眺めているというのはなかなかシュールな光景だなと思う。
「叉雨、今やってる仕事なんだけどさ……楽しい?」
――想像していたとおりの話だった。
私は、内心、面倒だなと思いつつ、「楽しいよ」と素っ気なく答える。
「本当に楽しい?」
――本当に面倒である。
母は、私のことを心から心配してくれている。ゆえに、面倒さこの上ないのである。
私は、もう一度、「楽しいよ」と答える。先ほどよりももう少し楽しそうに、明るい声を作ってみせた。
今の仕事が本当に楽しいかについては、私にもよく分かっていない。
初日に感じた絶望は、今では幾分か和らいだとは思う。同僚にも、協力者にも、取材先にも変人は多いが、少しは慣れてきたというか、少なくとも私に積極的に害をなそうという存在ではないことは理解できてきた。
――とはいえ、私が今の仕事を楽しいと思えるようになったかと言われると、それは違う。
そもそも、私はそういうことを考えないようにしているのだ。楽しいか楽しくないかなんて、どうでも良い。
なぜなら、就職活動で失敗をした私には、今の仕事以外の選択肢はないのだから。
私は、とりあえず当面の間は、たとえ楽しくなかったとしても、この仕事を続けなければならないのである。