楽園(8)
この狂った医者との問答を通じて、この狂った病院の秘密が、私にも理解できてきた気がする。
本当に狂っている――でも、もしかするとそれは路下も言うように「最高」なのかもしれない。
この病院は、精神病者の楽園なのだ。そのやり方が正しいとか、間違っているとかは、少なくとも部外者がコメントすべきことではない。
紙元から得られた情報に、私はほとんど満足し切っていた。
スマホで時計を確認すると、副院長室に来てからちょうど一時間が経っている。
そろそろ面談を終わらせよう――ただ、最後に、一応、あの質問だけしておくか。
「副院長さん、弊社の賀城は、この病院とどう関連しているんですか?」
紙元は、賀城のことをよく知っているはずである。冒頭のやりとりで、わざわざ「賀城さんの傍若無人ぶりには苦労してるでしょ?」と訊いてきたくらいなのだから。
しかし、紙元の答えは、今までの回答と比べて、明らかに歯切れの悪いものだった。
「……うーん、それは僕じゃなくて、僕の義理の父の管轄だからなあ……」
「義理の父」とは、この病院の院長のことだ、と先ほど紙元は話していた。
「……それに、この病院の敷地内では、あまり話したくない話なんだよね」
「どうしてですか?」
「あまりにも生々しい話だからだよ。当事者性が強過ぎるというか……」
紙元の言葉の意味が、私には皆目分からなかった。
生々しい? 当事者性?
「だから、僕からの回答は差し控えさせてもらうよ。義理の父か、賀城さんに直接訊いてくれ。もしくは訊かずに忘れちゃっても良いかもね。我々にとって、あまり耳触りの良い話ではないから」
この質問の答えをはぐらかされてしまったのは、一体何度目だろうか――
なぜか誰も青浄玻璃精神病院と賀城との関係を話したがらない。それは一種のタブーと化しているのである。
ここまで隠されてしまうと、逆に知りたくなってしまうのが人間の心理である。とはいえ、駆け出しの記者である私は、話したがらない人から無理やり話を聞き出すような取材術など持ち合わせていない。
「分かりました。事務所に戻って、賀城に訊くようにします」
「本日はありがとうございました」と言い添えて立ちあがろうとしたところ、右肩に衝撃を受けた。
海原が私に手刀をしたのである。
あまりにも空気過ぎて、私は、うっかり海原の存在を忘れてしまっていた。予期せぬ手刀ゆえに「痛い」という声さえ出せず、私はただただ背筋を冷やした。
海原が作った手刀の人差し指と中指の間には、四つ折りにしたルーズリーフが挟まっていた。
私はそれをスッと抜き取る。
そして、中の指示を開いて確認してみた。
「巳香月史乃がなぜこの病院に入院しているのか訊け」
質問の意味は分かるし、史乃のことを訊くというのは、本来の私の取材目的にも適っていることである。
――しかし、質問の趣旨は分からなかった。
史乃が入院しているのは、史乃が精神病者だからであり、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなことを紙元に訊いて何の意味があるのだろうか?
とはいえ、海原の質問には、私が気付けないような含意があることを、経験上、私は知ってしまっている。
私は大人しく指示に従うことにした。
「副院長さん、巳香月史乃さんはどうしてこの病院に入院しているんですか?」
私がこの質問をした途端、紙元は顔を顰めた。
そして、「なかなか鋭い質問だね」と、普段よりも一オクターブくらい低い声を出したのである。
「巳香月史乃は、うちの典型的な患者ではない。たしかに彼女は重度の鬱病でほとんど働いた試しがないんだけど、それでも社会に全然順応できないタイプかといえば、違うように見える。少なくとも、うちの環境――対人関係が煩雑な社会と隔離された環境――に身を置くことで寛解するような症状の持ち主ではないように思える。それならばなぜ巳香月史乃は、青浄玻璃精神病院にいるのか――それは真っ当な疑問だよ」
紙元は、パソコンのディスプレイを見ていて、私の方を見ていなかったので、私が海原から手刀を受け、メモを渡されたシーンを見ていない。実際には、私は、自らの質問にそのような疑問が内在していたということを知らず、紙元に説明されて、おぉっとなったのである。
「実のところ、僕自身もその答えを持ち合わせていないんだ。巳香月史乃は院長案件だから」
「院長案件……?」
「勾留後、巳香月史乃をこの病院に呼び寄せたのは義理の父なんだよ。わざわざ拘置所に電話を掛けてね」
「そういうことってよくあるんですか?」
「滅多にない……いや、初めてだ」
史乃がこの病院で入院しているのは、特例ということらしい。
「義理の父が何を考えているのか、僕にも分からないんだ。あの人は僕とはまた違ったタイプの変人だから……まあ、巳香月史乃の件についてアレコレと想像することはできるけどね」
「どういう可能性が想像できるんですか?」
「……言えない。あくまでも憶測だし」
「憶測でも良いので聞きたいです」
「福丸さん、それは良くないよ。憶測で記事を書く記者にはなっちゃダメだ」
別に記事を書くつもりではなく、現に私は副院長室ではメモを取っていないのだが、そう言われてしまうと、そこで諦めざるを得なかった。
「この病院に来た経緯も含めて、巳香月史乃に関しては、僕にも分からないことばかりなんだ。僕は、さっき、精神病は病気じゃない、と言った。だけども、彼女に関しては、もしかすると正真正銘の病気かもしれない。ただし、医者には治すことができない類のね」
長々とお付き合いいただきありがとうございます。ここまでが第二章(起承転結の「承」の部分)になります。
いやあ、9万字ですよ苦笑
本来であれば、6万字くらいでここに到達したかったので、完全に誤算です。本作は同人誌化をすることを目指して書いているので、全体をどうしても15万字以内にしたいのですが……
さて、ここまでどうでしたでしょうか。探偵役はちゃんと出しました。メインの事件について一応の説明もしました。病院の「哲学」についても一応の説明もしました。字数を削りたくても削れない部分だったかなと思います。
次の第三章は「転」の部分です。ストーリーからするとかなり重要な部分ではあるのですが、目標字数は2万字で、激動の展開にしたいと思います……いや、2万字は無理かなあ……
本当はここで毎日更新に一拍おきたかったのですが、文学フリマまで時間もないので、休まず突き進みたいと思います。
ブクマをいただいている方、こっそりお読みいただいている方に感謝しています。この作品が読者の方の期待に応えられているかは分かりません。もしかしたら退屈に思われているかもしれません。
ただ、ここからが本番ですので、ここまでの9万字を耐え切った方には、必ず報いたいなと思っています。
引き続きよろしくお願いします。