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楽園(7)

 またしても何やら難しい話が始まりそうなところで、紙元は、私の顔をチラリと見た。そして、私が眉を顰めていることに気付いた紙元は、話を元あった場所まで戻してくれた。



「……たしか元々の質問は、なぜこの病院に来ると患者が全員治るのか、というものだったね」


「そうです」


「一応、エッセンスとなる部分は全て話したつもりなんだけど、まとめるよ。まず精神病というのは病気じゃない。それは社会が貼ったレッテルに過ぎなくて、ものすごく砕けて言うと、本来、精神病は『個性』なんだ。ゆえに、精神病は治療の対象ではない。だから、この病院では、病名の診断なんて野暮なことはしない。患者が生きやすいように、その患者にとって望ましい環境を整えてあげることこそが必要なんだ。まさにカクレクマノミを飼うときに、水槽の塩分濃度を三%にしてあげるようにね。そして、この病院には『精神病者』が生きやすい環境がある。ゆえに、患者は全員『治る』」


 たしかに話は綺麗にまとまっているように見える。

――ただ、根本のところで、私には咀嚼し切れないところがいくつかあった。



「……精神病者だって、当然に人間ですよね? そんなカクレクマノミのように単純な話なんですか?」


 私には、紙元が、あたかも精神病者を、愛玩動物と同じように扱っているのではないかと思えてならなかったのである。



「難しく考え過ぎない方が良い。だいぶ前に言ったけど、人間の遺伝子とチンパンジーの遺伝子は四%しか違わない。もっといえば、人間の遺伝子とバナナの遺伝子だって五〇%くらいは共通してるって話だよ。むしろ人間と他の生物を完全に切り離して議論する方が傲慢だとさえ言える」


 さらに、と、紙元はまた『例の奇書』の話を持ち出す。



「『ドグラ・マグラ』の『胎児の夢』でも紹介されているように、人間自体が、単細胞生物から多細胞生物へ、両生類から哺乳類へ……というように進化をしてきていて、同様の流れを胎内の胎児は『繰返して』いるんだよ。人間を他の下等生物と不連続のものとして捉えるべき理由は、僕にはないと思う」


「……じゃあ、人間も他の生物同様に扱えば良いということですか?」


「いやいや、そういうことを言っているわけではないよ。別に僕は人間とバナナの遺伝子が半分共通してるから、人間の胎児の身体半分を地面に埋めて育てるべきだ、と言ってるわけではない。そうじゃなくて、僕が言いたいことは、もっと当たり前のことで、人間には人間に相応ふさわしい環境を与えよう、精神病者にも精神病者に相応しい環境を与えよう、ということなんだ」


「じゃあ、精神病者に相応しい環境っていうのは、一体何なんですか?」


「まさにこの青浄玻璃精神病院だよ」


 紙元は、バッと両手を広げる。



「なあに別に難しいことじゃないさ。あまりにも生き辛い現実社会から切り離すことだけで、その目的の大半は達成される。精神病者にとって苦痛となる他者との関係を無くす。精神病者嫌悪者メンタルフォビアの目が届かないところに避難させる。わざわざ過酷な現実社会で生きる必要はなく、また、わざわざ過酷な現実社会に今後戻って行く必要もない。そういう条件が満たされるだけで、そこは精神病者にとっての楽園パラダイスなんだ」


 たしかにこの病院は、現実社会とは隔絶された空間だと思う。地理的にもそうであるし、風土的にも現実社会とシンクロすることはほとんどない。

 この病院が精神病者の楽園だというのも、それなりに腑に落ちる説明である。


 ただ、私には、今の紙元の説明の、ある部分が強く引っ掛かった。



「紙元さん、今、『わざわざ過酷な現実社会に今後戻って行く必要もない』って言いましたよね? この病院の精神病者は、社会復帰を目的としていないんですか?」


「してないよ」


 紙元は、涼しい顔で断言する。



「現代社会は精神病者にとって辛過ぎる。先ほどのカクレクマノミの例でいえば、現代社会の塩分濃度は五%くらいにまでなっていて、精神病を患っていない普通の人でさえ生き辛い社会だ。塩分濃度三%の水で飼い直して健康になったカクレクマノミを、元気になったからと言って、また塩分濃度が五%の水に戻すなんてバカな話はないだろう?」


 紙元が言っていることはよく分かる。しかし――



「すると、この病院に入院した患者は死ぬまでこの病院に居続けるということですか? それって精神病者を隔離してるだけじゃ……」


「福丸さん、失礼かもしれないけど、その見方は視野狭窄だと思うよ。精神病院内だけでしか生きられない精神病者がいたとして、何が悪いんだい? それが精神病者自身にとって一番幸せだったら、一体誰が文句を付けられるんだい?」


「それは……」


「人間は不条理な社会で生きなければならないんじゃない。人間に相応しい環境で生きても良いんだよ。精神病者はなおさらだね。別にそれを落ちぶれてるとか、ネガティブに考える必要はない。生物界には、特定のニッチな環境でしか生きられない生き物なんてたくさんいるよ。コオリウオは極限地域の冷たい水でしか生きられないし、ハチタケという冬虫夏草は、蜂の体内でしか生きられない。でも、それで構わないじゃないか。ただ一箇所でも生きられる環境があるのならば」


 紙元は、不意に立ち上がると、「ちょっと待ってて。世にも珍しい物を見せてあげる」と言って、部屋を出て行った。バタバタと階段を上る音がする。おそらく二階にある物を取りに行ったのだろう。


 案の定、部屋に戻ってきた紙元は、十センチ四方くらいの小さな標本箱を手に持っていた。

 紙元は、私にその標本箱を手渡す。その標本に入っていたのは――



「……虫……ですよね?」


「ああ。そうだよ」


 私が、標本の中身が虫であることに半信半疑だったのは、その甲虫には、触覚がある一方で、あしが一切無かったからである。まさか標本にするにあたって肢を全て抜いてしまったということなのだろうか――



「これは何という名前の虫なんですか?」


「ユープケッチャ……ってどこかに書いてない?」


 たしかに探してみると標本箱の木枠の部分に、小さな金色のプレートが付いていて、「ユープケッチャ」と刻まれている。



「この虫、肢が無いんですが……」


「そのとおり。ユープケッチャに肢はない。退化したんだろうね。ユープケッチャには肢は必要ないからね」


「じゃあ、どのように移動するんですか?」


「ユープケッチャは移動しないんだよ。ちょっと見えにくいかもしないけど、お腹の部分が少し出っ張ってるでしょ。そこを視点にして、触覚を使い、駒みたいにゆっくりと回るんだ。左回転でね」


「何のために回るんですか?」


「自らの糞を食べるためだよ。ユープケッチャは、同じ場所に留まりながら、自分の糞を食べて、糞をして、その糞を食べてまた糞をして……というのを繰り返して生きるんだ。完全閉鎖型の生態系だね」


 ユープケッチャの生は、自分自身との関係のみで完結しているということか。とても孤独である。


 いや、待てよ――



「ユープケッチャはどのように交尾をするんですか? お互い一歩も動かないんじゃ、オスとメスが出会うこともないですよね?」


「よく気付いたね。福丸さんの指摘するとおり、ユープケッチャは、生物にとって必要不可欠な再生産リプロダクションができない。もっというと、自分の糞をエネルギー源に動き続けるというのは、エネルギー保存の法則にも反しそうだ。つまり、ユープケッチャは架空の生物で、実在しないということだよ」


 私が手に持っている標本は、偽物ということか。



「ユープケッチャは、安部公房あべこうぼうの『方舟さくら丸』という小説に出てくる架空の甲虫。僕にとって、ユープケッチャは憧れの生物だ」


「憧れ?」


「だって、そうだろ? 他者と一切関わらずに生きていけるんだ。生きていく上で環境も気にしなくて良い。こんな完璧な生き方がほかにあるかい?」


 私はユープケッチャの生き方を孤独だと捉えたが、紙元のように完璧だととらえる考え方もあるのかもしれない。



「ユープケッチャと比べると、我々人間の生き方というのは、どれほど不便なことだろう。常に他者から脅かされ、環境からも脅かされている。他者との関わりが苦手な精神病者は、ユープケッチャに習って生きれば良いんだ。他者から何も受け取らず、他者に何も与えずに生きる。それ以上に完璧で理想的な生き方があるというなら、僕に教えて欲しい」

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