楽園(6)
「……まあ、ちょっとだけ例が重過ぎたかな。僕がしたかった問題提起は、『精神病を治すということと人格を変えるということは、切って離せるのか』ということ」
「精神病を治すことで、その人の人格を変えてしまう……ということですか?」
「まあ、語弊を恐れずに言うと、そういうことになるね。もちろん、理論上も、実務上も、そうではない場合はある。風邪のように三日間寝ていれば元どおり治るような精神病だってあるかもしれないし、急性のストレスで悪化した精神病は、ストレスが取り除かれれば緩和するだろう。だけど、少なくとも僕が臨床で扱っているのは、もっと手強くて、その人自身に固着してしまっている精神病だ」
紙元は、手元で標本箱を弄りながら、説明を続ける。
「これは一種の思考実験だけど、たとえば、七歳から精神病を患っている者がいたとする。その人は精神病で思うままに生きられずとも、それでも自分なりの生き方を見つけて、社会と上手く折り合う方法を見つけながら三十歳になったとする。そのタイミングで、その人の精神病にバッチリ効く特効薬ができたとする。この特効薬を飲むと、精神病が完治する。その結果、今まで対人恐怖があったのが嘘のように、社交的になって、誰とも臆することなく話すことができる。今まで悩んでばかりで何も行動できなかったのに、思い悩むことなんて何もなくなる……それで良いのかい? その薬は、その人の人格を失わせ、その人自身を殺してしまっているのではないか――と、まあ、そういう疑問があるわけだ」
私は深く考え込んでしまう。紙元が提起した問題は、哲学的でありながら、本質的なものであるような気がするのである。
何かを得るために如何なることをするにしても、それは『その人自身であること』の引き換えであってはならぬはずなのだ。
「そこで僕らは、ロボトミー手術のような唯物的発想とは真逆にある精神病に対するアプローチと出会うべきなんだ。唯物的な精神病の捉え方は、精神病者が『取り戻すべき』『普通』を、その人自身ではなく、その人以外――人として本来そうあるべき『普通』として考えるという誤謬に陥っている。その誤謬を逃れる方法はただ一つ――精神病というものは病気ではなく、『精神病者』を社会から排除するためのレッテルに過ぎないということに気付くことだ」
ここで、紙元は、喉をエヘンと鳴らすと、詩吟のように口上のように、とにかく奇妙な歌を唄い始めたのである。
「あーーア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の玄関へ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正気に見えない。かなり嵩じた連中ばかりじゃ。又は見かけが普通と変らぬ。落付き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントお上へ手続き済まして。精神病者に相違が御座らぬ。不法監禁お構いなしじゃと。法律ずくめの許可証揃えて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数がかからぬ。家族連中の話の模様や。又は患者の態度を眺めて。書物拡げて照らし合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので。赤い煉瓦へ打ち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリと居るかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦の地獄じゃ。「違う違う」と云い訳したとて。それが、そのまま「キの字」の証拠と。今も昔も変わらぬ運命じゃ。放火狂じゃと診察をつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞ計らん色情狂だよ。窃盗狂者の標本と思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。決してないから気楽なものだよ。テンカラ診察出来ない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。さても気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……」
私は、紙元が突然調子外れな声で唄い出したことだけでなく、その歌詞の内容にも衝撃を受けた。
チンプンカンプンというわけではないのだが、決して正常な言葉の羅列ではない。意味が分かるよりも先に、なぜか胸騒ぎを覚える歌詞なのである。
「……何ですかその歌は?」
「『キチガイ地獄外道祭文』の一節さ」
「え?……キチガイ地獄……」
「夢野久作の『ドグラ・マグラ』の作中において、正木博士が、自ら木魚を叩きながら唄い、パンフレットを配り回ったという祭文さ」
「ドグラ・マグラ」というと、例の、読むと精神に異常をきたすと言われている小説ではないか。
なるほど。今のは、その怪奇本の一部だというのか。たしかに人を精神崩壊に導きそうな語列である。
「義理の親父……この病院の創設者であり現院長のことなんだけど、『ドグラ・マグラ』の大ファンでね。青浄玻璃というこの病院の名前も『ドグラ・マグラ』に出てくる言葉から取ってきてるんだ」
最初に見た時から奇妙な名前だと思っていたので、狂った小説から由来していると知り、妙に腑に落ちた。
「僕も『ドグラ・マグラ』は好きだよ。特に今暗唱した部分は、まさに僕の考えとも合致している。精神医療における唯物科学批判は、誠にごもっともだと思う。とはいえ、義理の親父ほどは、僕は『ドグラ・マグラ』に心酔はしていない。僕は、作中の正木先生よりももっと過激な立場で、唯物科学を克服するのは精神科学だとは考えていない。そもそも精神に科学を当てはめるべきじゃない。精神は自由に解放してあげなきゃ」