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楽園(5)

 せっかく紙元の話が腑に落ちかけていたところで、また突然、話が分からなくなってしまった。


 精神病は病気じゃない?


――そんなはずはない。紙元は、何をまた酔狂なことを言っているのだろうか――



「……精神病って病気ですよね……だって、精神が普通の状態じゃないわけですから」


「福丸さん、今、『普通』って言ったけど、それってどういう意味の『普通』?」


「普通は普通です。普通の人は、蛇がいないのに蛇が見えたり、誰にも見られていないのに誰かに見られたりすることはないですよね?」


「福丸さんは、普通の人と違う状態ならば病気と言いたいのかい? だとすると、普通の人より足が遅い人は病気かい? 普通の人よりも歌が下手な人は?」


「……それは病気じゃなくて個性だと思います」


「だとすると、病気と個性とはどう線引きするんだい?」


 病気と個性とは明らかに違うものである。たとえば、風邪は病気であって、個性ではない。音痴は個性であって、病気ではない。

 ただ、その判断基準メルクマールがどこにあるかと訊かれると、答えに窮してしまうのである。



「簡単な話だよ。病気はその人を基準とした差異で、個性は他の人を基準とした差異のことなんだ」


「なるほど……」


 納得いく説明である。風邪は、普段の自分と比較して劣った状態であるので病気であり、音痴は、周りの人と比較して劣った状態であるので個性だといえるということだ。



「ここで、世に言う精神病の場合には、難しい問題が生じる。なぜかといえば、精神病というのは脳に影響を与えるからだ。脳というのは、人格を司る機関であり、すなわち、その人自身なんだよ。精神病が脳に影響を与えた時点で、精神病になってる自分が『自分自身』になってしまうんだ」


「……話が難しくてよく分かりません」


「今回も具体例を挙げて説明するよ。といっても、今回は剥製やホルマリン漬けは使えないけどね。福丸さん、『ロボトミー手術』って聞いたことあるかい?」


 ロボトミー? 全く聞いたことがない。



「ロボットがする手術的なやつですか?」


「うーん……全然違うね。そういう近未来のものというより、過去に行われていた古い手術のことだよ」


「今は行われてないんですか?」


「一切行われていないと信じたいね。ロボトミー手術は人類最悪の手術とか、呪われた手術とか言われてるからね」


 人類最悪の手術? 呪われた手術? それは一体どういうものなのだろうか――



「説明するよ。ロボトミー手術とは、精神障害の緩和のために、脳の前頭前野の神経繊維を切断する外科手術のことだ」


「……脳にメスを入れるということですか?」


「上品に言うとそういうことだね。実際には、頭蓋骨にドリルで穴を開けたり、アイスピックで頭蓋骨を砕いたりと、だいぶ荒々しいものなんだけど」


 なかなかイメージし難い光景である。



「……それは本当に手術なんですか?」


「手術だよ。しかも、この手術が大流行してから、まだ一世紀も経っていない。最初に手術が行われたのは、一九三五年。その翌年には、ニューヨークタイムズ紙が一面で『獰猛な野生動物のような精神病患者が数時間で穏やかに落ち着く、魔法のような手術』と紹介した。一九四九年には、ロボトミー手術の考案者であるモニスはノーベル医学賞を受賞している。ロボトミー手術が一番多く行われたのはアメリカで、約五万人が処置を受けたという」


「……日本は?」


「手術を受けた人数は三万人と言われている。アメリカとそんなに変わらない、というか、人口比を考えるとアメリカよりも多いだろうね。日本でロボトミー手術が自主規制されたのは一九七一年。それまでに多くの精神病者の頭蓋骨に穴が開けられたんだ」


 遠い時代の遠い国の話のように思えるが、少しもそういうわけではないようだ。



「……ロボトミー手術には効果があったんですか?」


「大半の事例で効果はあったみたいだ。それが望ましいものかどうかをおいておけばね。ロボトミー手術を受けた者の人格は変わる。暴れ回っていて手が付けられなかった統合失調症患者は、暴れることがなくなる。強い不安感を感じ続けていた鬱病患者は、一切不安を感じなくなる」


「じゃあ、ロボトミー手術も、完全な悪、というわけでもないんですね」


「それはどうかな? ロボトミー手術を受けた統合失調症患者は、怒りだけでなく、喜びや悲しみといった感情も失う。鬱病患者は、不安だけでなく、全てを感じなくなり、無気力になる」


「……一時的にですか?」


「いや、一生だ。ロボトミー手術の効果は不可逆的なんだ」


「そんな……」


 私は、言葉を失ってしまう。開けてはならないパンドラの匣の中身を見てしまったような、そんな罪悪感さえあった。

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