楽園(4)
ずっと気になっていた二重扉の謎については、紙元から、一応納得のいく説明を受けられた。
――もっとも、私がこの病院に対して抱いている疑問は、二重扉に関する件にとどまらない。
「副院長さん、この病院ではどのような治療を行ってるのですか?」
「治療?」
「はい。どうやって患者さんの病気を治しているのですか?」
最初に会った時、路下は、この病院に来ると精神病者はすっかり治る、と言っていたのである。
しかし、具体的な治療方法については、「当院の医師に尋ねてください」とのことだった。ゆえに、私は、そのとおり、医師に尋ねてみたのである。
「治療ねえ……この病院では治療は行なっていないよ」
「え!?」
病院なのに治療を行っていない? それは野菜を売っていない八百屋のようなもので、看板に偽りありということにならないか――
「……ここって病院なんですよね?」
「もちろん。ただ、ここは病院は病院でも精神病院だよ。人間の精神を扱うんだから、内科とか外科とか消化器科とか、そういう病院と同じようにはいかないよ。脳にメスを入れて、グチュグチュってイジるわけにもいかないしね」
「……でも、普通、精神科でも薬を処方するものじゃないんですか?」
「それは対症療法ね。症状を抑えるだけであって、精神病を治してるわけじゃない。うちだって患者さんが希望すれば薬は処方するよ。ただ、薬をたくさん投与したところで、精神病は治らない。ウイルスが原因の病気だったら、抗生物質でウイルスを殺せるかもしれないけど、別に精神病者の脳はウイルスに侵されてるわけじゃないよね?」
紙元の言っていることは理解できる。とはいえ、そのように堂々と開き直ってしまって良いものなのだろうか――
「じゃあ、この病院は、患者さんを治療せずに放っておくんですか?」
「違う」と紙元は大きく首を横に振る。
「ここはホスピスじゃなくて病院だから。ちゃんと患者さんを治してるよ。むしろここに来る患者さんを全員治してる」
――路下が言っていたことと同じだ。
「……矛盾しませんか? どうして治療をしていないのに治るんですか?」
「簡単だよ。患者さんは、ここの病院に来るだけで精神病が治るんだ」
なんだそれは――まるでカルト宗教の誘い文句みたいではないか。
「そんなペテン師を見るような冷たい目をしないでよ。ちゃんと一から説明するからさ」
そう言って紙元は、また机の上をガサゴソと漁り始めた。今度は一体何が飛び出してくるのだろうかと私は身構える。
――しかし、紙元が掴み取った小瓶の中身は、可愛らしい生物だった。
「……ニモですか?」
「そうそう。カクレクマノミね。正確に言うと、映画『ファインディング・ニモ』の舞台はオーストラリアのグレートバリアリーフだから、ニモのモデルはそこに棲息するクラウンフィッシュであって、日本で見られるカクレクマノミではないんだけど」
蘊蓄を聞かされている間、私は瓶の中の小さな魚に見入っていた。おそらくホルマリン漬けではない。どういう処置をしたのだろうか、オレンジ色と独特な縞模様がハッキリ残っていて、ゆえに、私にも「ニモ的な魚」だと同定できたのである。
「カクレクマノミって一般家庭での飼育用としても人気のある種なんだよね。ここで問題を出したいんだけど、福丸さん、心の準備はできている?」
「え!?」
あまりにも突然過ぎて心の準備などできているはずはないのだが、私の反応など意に介せず、紙元は出題へと進む。
「もしも福丸さんがカクレクマノミの飼育に憧れて、ペットショップでカクレクマノミを購入してきたとする。それでカクレクマノミを水槽に放ったところ、すぐにカクレクマノミが死んでしまったとする。さて、そのカクレクマノミは病気でしょうか?」
なんとも骨の無い問題である。
「……病気じゃないと思います。水槽の水がマズかったんじゃないでしょうか」
「正解!!」
紙元はパチパチと拍手をしたが、私は少しも嬉しくなかった。
「おそらく福丸さんは、カクレクマノミが海水魚ということを忘れていて、真水に入れてしまったんだろうね。可哀想なカクレクマノミ」
なぜか私がとんでもないポンコツで、うっかりカクレクマノミを殺してしまったことになってしまっている。カクレクマノミが海水魚だというくらい、私だって当然知っているのに。
「じゃあ、次の問題だけど、もう一度ペットショップでカクレクマノミを買ってきた福丸さんは、今度は前回の反省を生かして、水槽の水をちゃんとしようと決意するわけなんだけど、塩分濃度を何%に調整すれば良いかな?」
「えーっと……」
……分からない。海水と同じ塩分濃度にしなければならないのだと思うのだが、私には、海水の塩分濃度が一体何%なのか分からないのである。
仕方なく、私は適当な数字を答える。
「……十%くらいですか?」
「じゃあ、塩分濃度十%でトライしてみよう。さあ、カクレクマノミ君は元気に暮らせるかな?……あれ? なんだか様子がおかしいぞ。だいぶ苦しそうだ。むしろ死にかけている。福丸さん、どうやら水がしょっぱ過ぎるみたいだよ。次なる犠牲者を生まないために、正しい塩分濃度に調整してあげて!」
「え!?」
「早く! 早く!」
紙元が、ホルマリン漬けのカクレクマノミが入った小瓶をコトコトと揺らす。
「それじゃあ、五%で!」
「もっと薄めて!」
「え!?……じゃあ……三%!」
――小瓶の震えが止まった。
「よし! これで大丈夫だ! 福丸さんのカクレクマノミは屍を乗り越えることに成功した。なんとか生きていけそうだよ。まあ、正確に言うと、平均的な海水の塩分濃度は三.五%なんだけど、細かいことはここではおいておこう」
紙元が、ねっとりとした笑顔を私に向ける。若干引き攣りながらも、私も笑顔で返す。
「福丸さん、ところで、カクレクマノミは、自然界だとイソンギンチャクと共生してて、飼育下でも隠れ家があった方が落ち着くらしいんだ。水槽にイソギンチャクでも入れておくかい?」
「そうしてください」
「おめでとう! これで福丸さんのカクレクマノミには健康な暮らしが約束されたよ! 一時の瀕死状態が嘘のように優雅に泳ぎ回っているよ」
紙元が小瓶を持った手を、八の字を描くようにグルグルと回す――完全な茶番である。
やがて、その手がピタリと止まる。
「福丸さん、ここで本題に戻ろう。福丸さんは、弱りかけのカクレクマノミを救い、健康な状態に変えた。では、福丸さんはカクレクマノミを治療したのかな?」
「……してないです。塩分濃度を変えて、イソギンチャクをあげただけです」
「そのとおり! 福丸さんは、カクレクマノミの身体にメスを入れたり、注射をしたりしたわけじゃない。カクレクマノミの住む環境を変えただけなんだ!」
「……つまり、この病院も、患者さんの住む環境を変えることで、患者さんを治しているということですか?」
「そういうこと! なぜなら、精神病は病気じゃないからね!」