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楽園(3)

「一つ目は、たとえば、僕が両腕に金髪美女を抱えてマカオで豪遊するとか、そういう妄想。つまり、妄想者自身が、自覚的に、それが現実でないと知りながら繰り広げる妄想だね」


「もう一つは?」


「二つ目は、まさしく被害妄想の場合に多いんだけど、妄想者自身が、無自覚的に、それが現実だと思い込んでいる妄想だね。たとえば、そうだなあ……」


 紙元は、デスクの上をガサゴソと漁る。

 そして、透明な虫カゴのようなものを掴みあげると、それを私に突きつけた。



「きゃあっ!」


 これにはさすがに悲鳴を上げざるを得なかった。

 その虫かごの中には、茶色いまだら模様の蛇がいて、それが九十度を超える角度で口を大きく開き、鋭い牙を露出しているのである。



「……剥製ですか?」


「もちろん。ニホンマムシの子どもの剥製だよ。よくできてるでしょ?……まあ、剥製のクオリティはおいておくとして、福丸さんは今、蛇を突然見せられたことでどう思った?」


「……普通に怖かったです」


「それは、別の言い方をすると、恐怖という刺激が脳に与えられたという意味だよね。もっと細かく言うと、目が受容した刺激が、視覚神経を通って脳に届く。その刺激を、脳が『恐怖』として感じたということだよね」


 たしかに小難しく言うと、そういうことになるのだろう。高校の生物の授業でそのように習った記憶もある。



「続きを言えば、その『恐怖』への反応として、福丸さんは悲鳴を上げるとともに、福丸さんの心拍数が上がるということ」


 たしかに今、私の心拍数は間違いなく上がっている。蛇が本物ではなく剥製だと気付いたのちも、心臓はバクバクし続けている。



「……副院長さん、今の話が被害妄想と関係があるんですか?」


「もちろん。だって、今、福丸さんに起きていることだって、一種の無自覚的な被害妄想でしょ? 福丸さんは、本物の蛇を見たわけじゃないのに、福丸さんの脳は本物の蛇を見たかのように勘違いをして、『恐怖』を感じてるわけなんだから」


「はあ……」


 本当にそういうことなのだろうか。果たして、私は、剥製の蛇を本物の蛇だと錯覚して、ゆえに恐怖を感じて悲鳴を上げたということなのだろうか――



「なんだか文句ありそうだね。言いたいことは分かるよ。福丸さんが恐怖を感じたのは、蛇を本物だと勘違いしたからではなくて、突然『何か得体のしれないもの』を見せられたからだと言いたいんでしょ」


 たしかに私が今思っていることを言語化するとそういうことなのかもしれない。



「それはそのとおりなんだ。『恐怖』という感情は、それくらいに対象がハッキリしないものなんだよ。たとえば、『喜び』という感情はそうはいかないだろう。僕が福丸さんに紙の束を渡したとして、その正体が何か分からないうちは、福丸さんは『喜び』を感じない。福丸さんが喜ぶのは、それが札束だと気付いてからだ。だけど、恐怖は、対象がハッキリしないうちから感じる。むしろ対象がハッキリとしないほど、より強く恐怖を感じると言って良い。その意味では、福丸さんが感じたのは、被害妄想ではなく、まさに被害だと言えるだろう」


「……だとすると、副院長さんは何のために剥製の蛇で私を驚かしたんですか?」


「そんな怪訝な目で見ないで、最後まで説明を聞いてよ。つまり、僕が伝えたかったのは、人間が恐怖を感じるまでのメカニズムなんだよ。まず、刺激の受容があって、刺激の伝達があって、刺激が知覚され、それに基づいた反応が生じる。それが正常なメカニズムだとして、もし仮に、神経が狂ってたらどうなる?」


「神経……」


「ここでは文字どおりの神経――つまり、刺激を伝達する役目の器官だと考えてくれ」


 伝達役の神経が狂っているとすると、目で見た情報が、脳に正しく伝わらないということになるのではないか。


 とすると――



「……たとえば、蛇を見たのに、鰐を見たと勘違いしちゃうとかですか?」


「それは面白い発想だね。たしかにそういうパターンもあるかもしれないね。しかし、実際の精神病の患者さんで多いのは、刺激がないにも関わらず、脳に刺激を伝えてしまう場合なんだ」


「……どういうことですか?」


「たとえば、実際には蛇という情報を目が受容していないのに、狂った神経が脳に蛇の情報を伝えてしまうとかね。要するに、そこに蛇がいないのに蛇が見えてしまうというわけ」


 それはまさに――



「……妄想じゃないですか」


 私のぼやくような言葉に対して、紙元は、パチンと手を叩く。



「そうそう。まさに妄想だよ。だけど、これは、その妄想を見ている人からすると、リアルそのものなんだ。だって、その人の脳には、『蛇を見た』という刺激が届いているんだからさ」


「でも、それは妄想で……」


「妄想だよ。だけど、脳はそれが妄想だとは気付けない。だって、実際に目が見た場合と、同じ刺激を脳は受け取ってるわけだから。脳からすると、それは『実際に見た』も同然なんだ。神経が本当のことを伝えているのか、嘘を伝えているのか、脳自身には判断のしようがない」


 たしかに言われてみると、そうなのだろう。精神病者は、妄想を「実際に見ている」ということになる。



「まあ、実際には、狂った神経は、そんな綺麗な、紋切り型の映像を脳には伝えないんだけどね。狂った神経が脳に与える情報というのは、蛇という具体的なものというより、『蛇のような何か』だったり、『牙を持った何か』だったり、『危険な何か』だったり、『何か分からないけど怖いもの』だったりするわけだ」


「……ちょっとイメージができません。そういう、なんというか、モヤっとした情報が脳に伝えられた場合にはどうなるんですか?」


「脳は混乱するだろうね。自分は間違いなく『怖いもの』を見ている。心拍数も上がっている。だけども、何か具体的な物が見えているわけではない。すると、脳はたとえばこう解釈するだろうね。『自分が見ているのは悪魔だ』と」


 私は息を呑む。

 精神病者が妄想で悪魔を見る――そんな奇天烈で摩訶不思議な現象が、私にも理解が及ぶものとして説明されていることに、私は大きなショックを受けたのだ。



「まあ、もちろん、悪魔と解釈するのは一例で、多くの患者さんは単に『誰かいる』とか、『誰かに見られている』と解釈するにとどまるんだけどね。『見られてる』感覚を脳が感じ取っているんだけど、実際には見ている人が誰もいなければ、それは『監視されている』『ストーキングされている』という理解になる。そういう患者さんはすごく多いよ」


 たしかにそれは私の中での典型的な精神病者のイメージとも重なる。神経一つ狂うだけで、人間というのはそんな滅茶苦茶になってしまうのか。私は、予想外の人間の脆さに衝撃を受けた。



「ここまで説明すると、この病院に二重扉が必要な理由の説明になってるかな。もっというと、この病院が、人里離れた山奥にあることの説明にもなってるよね。患者さんは安心するんだよ。ここには患者さんを監視したり、ストーキングしたりする人はいない。もちろん、命を狙ってる人もいない。仮にいたとしても二重扉でシャットアウトできる。まさに患者さんのための施設になってるでしょ?」

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