楽園(1)
次に、一切の胎児は斯様にして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いなく母の胎内で繰返して来るのであるが、しかしその経過時間は非常に短められているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年かもしくは何千万年がかりで鰭を手足に、鱗を毛髪に……といった順序に、少しずつ少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、僅かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰返して、経過して来る事さえある。これは既に一つの説明の出来ない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議な事には、その縮められている時間と、実際の進化に要した時間の割合が、決して出鱈目の割合になっていないらしい事である。
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
副院長室がある第四病棟は、病院の建物というより、普通の一軒家――しかもかなりボロボロの一軒家という外見だった。
耐震強度や防火性能に関する昨今の法改正のせいで、今となってはもう建てられないであろう、五、六十年前の木造建築といったところだ。茶色く塗られたペンキはところどころ禿げており、元の木目が露出している。
第四病棟には、例の二重扉は設置されていない。その意味でも、この第四病棟は、この病院の施設として明らかにそぐわないのである。
二重扉がないのだから、入るのにカードキーを用いる必要はない。
路下は道案内だけすると、「それじゃ俺は立て込んでる仕事があるのでここまでで」と言って、小走りで森の中へと消えて行った。まるで忙しさをアピールするかのようだった。
第三病棟の入り口には、普通の一軒家のような蝶番付きのドアはあったが、インターホンは無かった。
そこで、私は、ノックをし、「失礼しまーす」と言いながら、ゆっくりとドアを引く。
外見どおり、建物の内部の構造も普通に一軒家である。
――しかし、玄関や廊下には、普通の一軒家にはあり得ないものがズラリと並んでいる。
それは昆虫の標本や、瓶に入った魚のホルマリン漬けや、イタチのような小動物の剥製といったものである。
そうした普通の女の子がきゃあと悲鳴を上げそうな代物が、下駄箱の上だとか、下駄箱の中だとか、下駄箱の下の土間だとかに所狭しと並んでいるのである。
なお、私は、普通の女の子のはずだが、最近こういう類の物に慣れてしまっていたので、悲鳴は出ず、冷ややかな目で見るにとどまった。
下駄箱がゲテモノで占拠されているため、脱いだ靴をどこに置けば良いのかしらと悩んでいると、「土足で良いよ」という少し高い男性の声が聞こえた。
顔を上げると、廊下の向こうから、白衣を着た男が、スニーカーを履いた状態で近付いて来ていた。
同じ白衣とはいえ、路下が着ているものとはだいぶ違う。しばらく洗濯をしていないのではないかと勘繰ってしまうほどに黒ずんでいて、しわくちゃだ。でっぷりとした腹囲のせいか、丈も矢鱈と短く感じる。
白髪混じりのボサボサの髪といい、この建物同様、清潔感が全くない男である。
仮に握手を求められたら丁寧にお断りしようと心に決めていたが、その心配はなかった。
男は、私と目が合うと、早口で
「副院長の紙元脩だ。どうぞ上がって」
とだけ言い、踵を返し、廊下の向こうに消えて行ったのである。
海原と比べると気にならないほどだが、軽度のコミュ障といったところだろうか。
私は遠慮なく、ただし、トカゲのホルマリン漬けが入った瓶を蹴飛ばさないように気を付けながら、外履のまま廊下に上がり込む。海原もそれに続く。
紙元が案内してくれた――正確には、私が背中を追いかけただけなのだが――部屋にも、玄関や廊下同様に、標本やらホルマリン漬けやら剥製やらが溢れ返っていた。
「どうぞ座って」
と、紙元が手を差し出した先には、たしかにソファー椅子が二つあったのだが、そこもおそらく普段は標本置き場で、私と海原の来訪があると聞き、慌てて片付けたのだろう。その証拠に、ネジのような釘のような金属が座る部分に落ちている。私はそちらの方の席を海原に譲り、比較的綺麗な方の椅子に腰掛けた。
紙元は、壁に向かうようにして設置された作業用のデスクに腰掛け、椅子を回転させて、私たちに正対している。
そのデスクの上も、ノートパソコンと書類が置かれているほかは、やはり標本箱やホルマリン漬けが入った瓶などで占領されているのだ。
要するに、この部屋は、生き物の死体で埋め尽くされているのである。
当然、そういう系の饐えた匂いが充満している。
ここにいたら絶対匂いが染みつくよな……クリーニングで落ちるかな……
私は面談をセッティングしたことを早速後悔したが、もう引き返せない。自己紹介をする。
「はじめまして。私、株式会社不可知世界の記者の福丸叉雨といいます」
「そっちの男性は?」
「…………」
「私の会社を手伝ってくれている探偵の海原遷斗です」
なぜ私が海原の分の自己紹介までしてやらなければならないのか――
「ふーん。賀城さんの会社の人たちね。賀城さんの傍若無人ぶりには苦労してるでしょ?」
思わず「はい」と素直に答えるところだったが、すんでのところで「いいえ。そんなことありません」と社交辞令に切り替えた。
「君たちの苦労は分かるよ。賀城さんは変わってるからね。まあ、僕ほどじゃないけど」
ここ数日でたくさんの変人と出会ってきたのだが、変人であることを自白したのは紙元が初めてである。評判どおり、筋金入りの変人だということだろう。
「それで、僕とどういう話がしたいの?」
そう尋ねた後、紙元は、椅子をクルリと回転させ、デスクの上のノートパソコンを弄り始めた。おそらく軽度のコミュ障なので、私と目を見て話すよりも、そうしながら話す方が落ち着くのだろう。
紙元の視線がこちらに向いていないことは、私にとっても好都合だった。私は、海原の膝をポンポンと手で二回叩くと、囁き声で、「早く指示をください」と催促する。
海原は、私の催促に応じて、マントの奥からルーズリーフと万年筆を取り出す。
この面会は、海原のために設定されたものなのである。海原の訊きたいことだけを迅速に訊き、さっさと用を終わらせ、服に饐えた匂いが移らぬよう、なるべく短い時間でこの死体だらけの部屋を出るというRTAこそ、私に課された使命なのである。
ゆえに、海原から手渡されたメモに
「適当に雑談して」
と書かれているのを見た時、私は発狂しそうになった。
あんたが提案役だろ!! ちゃんと仕事しろ!!