懇願
「え!? 今から院長に会いたいんですか!?」
健康的に焼けた肌の男が、目を見開く。
男性看護師は、今日もスタイリッシュに白衣を身に纏っている――路下である。
私としては、もう二度とこの男とは顔を合わせたくなかったのであるが、青浄玻璃精神病院においては、どうやら私の「担当看護師」として路下が登録されているらしい。
路下曰く、「今日は仕事が立て込んでるんですが、福丸さんからの要請と聞いて、第三病棟まで飛んでやってきた」とのことである。それならばぜひ立て込んでいる仕事の処理を優先して欲しかったところである。とはいえ、誰か病院の職員がいなければ、病棟に閉じ込められたままとなってしまうのである。背に腹は代えられない。
しかも、私は、カードキーで二重扉を開けてもらうことに加えて、路下にもう一つ厚かましいお願いをしなければならなかったのである。
「すみません。本当は事前にアポを取れば良かったんですけど、突然、院長さんと会わなければならない事情が生じまして……」
それは一体どんな事情なのか――発話者である私自身もよく分かっていない。しかし、この場ではそう言うほかなかった。
「うーん、あまりにも急なんですが、福丸さんみたいな若い女性がどうしてもと言うのであれば、俺も無下にはできませんよね……」
「どうしてもです! どうしても!」
私は、内心、「この女たらしめ」と毒づきながらも、表面上は平手を合わせ、懇願のポーズを取る。
「うーん、悩みますねえ…….」
「そこをなんとかお願いします!」
今、私たちがいる場所は、第三病棟を出てすぐのところである。病院の中庭に分類される場所かもしれないが、実態は森の中と呼ぶに相応しい場所だ。
ここには、私と路下と、それから、ウドの大木である海原しかいないのだから、路下が望むのであれば、土下座くらいはしても構わない。LINEを交換しろとかそういうのは絶対に嫌だが。
「……分かりましたよ。儚い乙女の願いを叶えるのが男の務めです」
「ありがとうございます!!」
私は、路下に対して、ペコペコと頭を下げる。
やはり心の中では「キザ野郎くたばれ」と毒付きながら。
「ただ、院長は、ご高齢で、いつも病院にいるとは限らないんですよ」
「体調が良くないんですか?」
「いや、そうではなく、歳をとってタガが外れたというか……元々自由な人だったんですが、さらに輪をかけて自由人になってしまったという感じでして」
「はあ……」
これだけ大きな病院の院長となると、かなりの社会的地位を有しているはずだが、路下の話を聞く限り、院長も「変人」の部類に入りそうだ。思い出してみると、院長は賀城と古くからの知り合いなのである。同じ穴の狢なのだろう。
「神出鬼没な人なので、試しに在院を内線で確認してみますね」
そう言って、路下は、ポケットから電話機の子機のようなものを取り出し、ボタンを操作し、耳に当てる。
「すみません。看護師の路下なんですが、草苅院長って今日病院に来てますか……はい。院長です……なるほど。やはり来てないですか」
路下は、機械を耳から遠ざけると、私の方を向き、声を掛ける。
「院長は不在みたいなんですけど、福丸さんが話を聞くのは院長じゃないとマズいんですか?」
私は、路下と出会ってから一言も口をきいていない探偵の方を向く。この場面では、探偵の意向がすべてなのである。
しかし、探偵は、私から目を逸らし、中空を見上げる――コミュニケーション拒絶体勢である。
私は仕方なく、路下に対し、「院長以外に話が聞けそうな人はいますか?」と訊いてみる。
そもそも何を聞くかを明示していないので、あまりにも漠然とした問い掛けだが、路下は、少し問い掛けた後に、
「副院長なら在院してると思いますけど」
と答えた。
私は、念のため、再度海原の顔色を窺おうとしたものの、やはり目を合わせてくれるような気配はない。
ここは私が判断するしかない――
「副院長さんって、なんというか……普通の方ですか?」
「いいえ。普通ではないです」
路下が即答する。
あまりにも迷いない言葉に、私は面を食らう。
「……どうしてですか?」
「うちの病院に普通な職員は一人もいません。普通の人は、うちみたいな病院で働こうと思わないですから」
「それって、この病院がヤバいってことですか?」
「いいえ。この病院は最高です。ヤバいのは、世の中に数多ある『普通の病院』の方ですよ」
「それは……つまりどういうことですか?」
「副院長に訊いてみれば分かりますよ。あの人はこの病院で最高の医師なんで」
「この病院で一番腕が良いっていうことですか?」
「いいえ。この病院で一番狂ってるってことです」
話を聞けば聞くほどよく分からない。まるで不思議の国に迷い込み、そこにいる奇妙な生物と話しているような気分である。
「とりあえず、副院長が在所してるか確認しますね」
路下は、また機械を耳に当てる。
副院長との面会にゴーサインを出した覚えはないのだが、まあ、良いだろう。私には判断はできないのだから。
一応、探偵の反応も確認しようかと、海原の方へと振り向いた時、私は、海原の背後、五十メートルほど先の森の中に人影を認めた。
あれはたしか――
「柚之原さん?」
森の中を彷徨い歩いているのは、レクリエーション室で見かけた、あの矢鱈と目の飛び出た男なのである。
たしか、柚之原は、昔、暴れてアパートの一室を破壊した「前科」があったはずである――
「ちょっと、路下さん!」
私は、通話中の路下の肩を掴んだ。
「福丸さん、いきなりなんですか!?」
「大変です! 患者さんが病棟から逃げ出してます!」
「はい?」
路下は、怪訝そうな目で私を見た後、私の指差した方を見て、「ああ」と言う。
「柚之原さんですか。別に逃げ出しているわけではありません。患者さんは病院の敷地内は外出自由なんで」
「え!? そうなんですか!? じゃあ二重扉は……」
「前に説明しませんでしたっけ? 別に患者さんを監禁するために二重扉を設置しているわけじゃないって」
たしかにそんな眉唾な説明を受けたような記憶はある。
「散歩をしたい等の理由で、患者さんが外出を希望された場合には、職員がカードキーで二重扉を開けてあげるんです」
「じゃあ、路下さん、一体何のための二重扉なんですか?」
「もちろん、患者さんのためですよ」
「どういう意味ですか?」
「二重扉があると患者さんが安心するんです」
「それってどういう意味……」
「福丸さん、ちょっと待っててください。今、通話中なので。はい。もしもし……」
路下が病院と交信している間、私は、路下の言葉の意味を考える。
二重扉があると患者が安心する――
二重扉が患者を守るセキュリティとなっているということだろうか。
しかし、患者――精神病者を一体何から守ろうというのだろうか。精神病者を狙う外部の敵?
いや、そんなものは私には想定できない。
「福丸さん」
患者を守るセキュリティに必要性がないとすると、やはり「患者を守るため」というのは、単なる美辞麗句で、実際には、精神病者を監禁――とまではいかずとも、管理するためのものとして二重扉はあるに違いない。要するに、病院側の都合だ。
「福丸さん、聞いてますか?」
「……はい!」
「副院長との面会の許可が下りました。今から俺が副院長室まで案内します」