惰性(1)
但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりとモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。
近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖端的な、グロテスクな、怪奇、害毒を極めた……ナニ、まだ見た事がないからみせてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
株式会社不可知世界のオフィスには、仕事用の部屋が二つある。
一つは作業室で、一つは面談室である。
私が出社後すぐに顔を出し、宇宙人やら幽霊やら意味不明な話を浴びせられたのが作業室であり、そこは社員それぞれのデスクが職員室形式で並んでいる空間である。
そして、「シンリイデン」という、やはり意味不明な話を浴びせられて唖然とした私が、賀城に手を引かれて連れて来られた空間が、もう一つの部屋――面談室である。
四畳間の狭いスペースに、革製のソファが二台と、ソファに高さを合わせた円卓があるだけの素っ気ない場所であるが、私は嫌いではない。
部屋の役割上、外部の人が多く訪れることをちゃんと意識してか、この部屋だけ比較的最近リフォームを施したらしく、床も天井も壁も綺麗なのである。
しかも、この部屋には、我が社らしい怪しい物が一切ないのだ。
壁に一枚掛けられている油絵も、ヨーロッパののどかな田園風景が描かれており、目を凝らしてみても、空には未確認飛行物体の一つさえなく、田んぼにはミステリーサークルの一つさえないのである。
欲を言えば、もう少し壁を厚くしてもらい、敦子のラジオの音が漏れ聞こえてこなければ完璧なのだが、贅沢は言うまい。
とにかく、この面談室こそ、不可知世界のオフィスにおける唯一のオアシスなのである(なお、ユニットバスに関しては、不適な笑みを浮かべるくるみ割り人形や、片ツノの折れた牛頭の骸骨などが睨みをきかせているため、私は用を足すときには目を瞑るようにしている)。
賀城は、私を面談室へとエスコートした後、「ちょっと待っていてくれ。資料を取ってくる」と言い、作業室へととんぼ返りした。
私は、この面談室に私のデスクを置かないだろうかなどと夢想しながら、賀城が再び現れるのを待った。
賀城は、リングファイルを何冊も抱えて、そのファイルの山でドアを押すようにして、面談室へと戻って来た。
そして、そのファイルの山を、ドサっと円卓の上に置く。
それぞれのファイルの背表紙には、印字されたテプラが貼り付けられている。たまたま目に入ったそのうちの一つを私は読み上げる。
「横浜市夢遊病殺人事件関連新聞報道……」
この漢字の羅列において、一番に恐ろしい文字列は「殺人」……ではない。「夢遊病」である。
この「夢遊病」という三文字さえ付いていなければ、私は、普通の記者の普通の仕事ができる! と飛び跳ねて喜んだことだろう。この忌々しき三文字が、我が社がオカルト雑誌社であるという現実をまざまざと見せつけているのである。
「……編集長、夢遊病ってどういうことですか?」
「読んで字の如くだよ。ここでは『夢中遊行』とした方が適切かな」
賀城の答えは、全く答えになっていない。それどころか、さらに何が何だか分からなくなる説明だった。
黙って話を聞くしかないのだなと悟った私は、両膝に手を置き、わざとらしく姿勢をまっすぐ糺してみせた。
徐に私の対面のソファに腰掛けた賀城は、フゥーッと大きく息を吐くと、丸机に両肘を置いた。
私の方に顔を近付けながら、賀城は、私に問い掛ける。
「福丸君、『ドグラ・マグラ』は読んだことあるかい?」
「…………」
「福丸君、『ドグラ・マグラ』は読んだことあるかい?」
私は、大学受験の英語の試験対策を思い出していた。つまり、たとえ文章中に知らない単語が一つか二つくらい出てきたとしても、全体の文脈からなんとなくの文意を察し、なんとなくそれっぽい解答をしろ、というテクニックである。
今の賀城の発話の中には、「土倉」と「マグマ」という、単語自体は既知であるが、この文脈において全く意味を為さない単語が二つ入っており、おかげで文章の意味も全く分からない。
この賀城の質問に答えるためには、全体の文意をなんとなく察し、なんとなく答えるしかない。
つまり、私の答えはこうだ。
「編集長、ごめんなさい。私、不勉強で何も分かりません」
それは今の私にできるベストアンサーに違いなかった。
しかし、賀城は、髪色同様に真っ白な眉をハの字に顰めたのである。
「……福丸君、本当に『ドグラ・マグラ』を読んだことないのかい?」
「ごめんなさい」
「名前を聞いたことくらいはあるよね?」
「……ごめんなさい」
賀城は、これ以上顰めたらもう目を瞑るしかないというくらいに目を顰めている。
私の常識を疑う、という感じなのだろう。
「そんな非常識な小娘だとは思わなかった。採用は取り消しだ」とでも言われそうな勢いだ。
その場合には本望である。意気揚々と退職手続に応じようではないか。
――しかし、幸か不幸かそのような展開にはならなかった。
私を待っていたのは、怒号ではなく、怒涛の説明だった。
「福丸君、『ドグラ・マグラ』は日本文学史に燦々と輝く不朽の名作だよ。探偵小説家の夢野久作が構想・執筆に十年以上をかけた探偵小説で、『精根尽き果てた』と言わんばかりに、この長編小説を公表した翌年に夢野久作は亡くなってるんだ。夢野久作が人生をかけて編み出した独自の思想がこの一冊に詰め込まれているといえるだろう」
ここで一旦、賀城の話が止まる。
両肩に力を入れて、文字どおり身構えて編集長の説明を聞いていた私は、あれ?と少し拍子抜けした。
「……探偵小説ということは、ミステリ小説っていうことですか?」
「もちろん」
ミステリ小説だったら、普通の私でも普通に読んだことがある。私だけではない。私の大学時代の普通の友人や、今朝地下鉄に乗っていた普通の人々だって、普通に読んでいる。
つまり――
「その『ドグラ・マグラ』というのは、普通の小説ということですか?」
「いいや。普通じゃない」
あまりにも即答だった。そして、あまりにも呆気なく私の期待は裏切られた。それだけではない。
「『ドグラ・マグラ』は、『黒死館殺人事件』『虚無への供物』と並び、日本三大奇書の一つなんだ。先ほど探偵小説だとかミステリだとか言ったが、正直、この『ドグラ・マグラ』はそうしたカテゴリに囚われない、そうしたカテゴリを思いっきり超越した、不条理をさらなる混沌へと引き入れた、これが人間の脳みそによって書かれたということさえも信じられないような奇書の中の奇書なんだ。この本を読んだ者は、必ず一度は精神に異常をきたすとも言われているんだよ」
賀城は、私の普通への憧れをメタメタに踏みつけたのである。読んだら精神に異常をきたす奇書? なんだそれは? まさかそんな危険なものを、編集長は私に読ませようとでもいうのだろうか? それで本当に私の精神に異常が生じたら、労災ということにならないか。