記憶(3)
ここで話は、一気に二十年以上先に飛ぶ。
平成三十年十二月八日未明――史乃が両親を刺殺し、実家に火を放った日である。
この間、史乃の夢遊症状が完全に消えていたかというと、それはそういうわけではない。
史乃が睡眠中に活動をすることは、大人になっても続いていた。
しかし、寝る前に、両親に手錠を付けてもらうという習慣によって、行動が押さえつけられていただけである。手錠を外そうと暴れた痕なのか、起きると、腕や腹のあたりに見慣れないアザがあることは日常茶飯事だった。
事件があった日も、普段どおり手錠は付けていた。
しかし、この日ばかりは手錠が役に立たなかった。
――手錠は壊されてしまったのである。
「中学校の頃からずっと同じ手錠を使っていたというわけではないの。何年かに一度だけど、手錠は買い替えてた」と史乃は説明する。
「手錠は頑丈なんだけど、物である以上は、日々消耗していく。ネジが緩むの。たしか事件があった日に使っていた手錠は、三年くらい使っていたかしら。ネジもだいぶ緩んでいたと思う」
「ネジが緩んでいたのに、手錠を替えなかったんですか?」
「今となっては福丸さんのご指摘どおり。手錠をちゃんと取り替えていれば、あの惨劇を防ぐことができた」
だけど、と史乃は唇を噛む。
「あの日、私は、ネジが緩んだままの手錠を使ってしまった。二十年以上何も問題がなかったから、今夜も問題がないだろうってそう思い込んでしまった。それが命取りだったの。一番緩んでいたのは、ネジじゃなくて、私の心」
「……仕方ないというか、大した落ち度ではないと思います」
「たしかに大した落ち度はなかったかもしれない。でも、落ち度はあった。そして、両親は死んだ」
史乃を励ます言葉は、私の中には、もうなかった。
そもそも、史乃は、そのような安っぽい言葉を求めていないのである。
史乃は、滔々と、事件当日の説明を続ける。
史乃の話によれば、手錠の効果が見られるようになって以降は、自室のドアの外鍵は掛けなくなったとのことである。史乃曰く、それもまた今となっては悔やむべき「油断」だった、と。
夢遊状態の史乃は、ネジの緩んだ手錠を力づくで外し、鍵の掛かっていないドアを開けて部屋を出ると、台所にあった包丁を持ち、両親が寝る寝室へと向かった。
そして、包丁で両親を、父親、母親の順でメッタ刺しにした――らしい。
「らしい」と表現せざるを得ないのは、言うまでもなく、史乃には犯行時の記憶がないからである。殺害した順を、父親、母親の順だと判断できるのも、記憶に基づいて、というわけではない。
父親の遺体は仰向けの状態で布団の上で発見されており、それに対して、母親の遺体は寝室の出入口のあたりで発見されている。その客観的な状況から、殺害した順を推理できるというだけの話なのである。
両親を殺害したのち、史乃は、自宅に火をつけた。
具体的には、ストーブ用に物置に貯蔵されていた灯油を寝室にまき、喫煙家だった父親が使っていたライターを使って、着火したのである。
無論、これも史乃の記憶ではない。鑑識による鑑定結果である。
史乃の記憶にあるのは、その晩、普段どおりに両親に手錠を掛けてもらい、ベッドで眠りについたこと。
そして、起きたら、白日の下、血塗れのパジャマを着て、家から徒歩三十分ほどある公園のベンチの上で横たわっていたこと。
その間の記憶は、一切残っていない。
「私の姿を見つけた人は、私のこと、『ベンチに横たわっている死体』だと思ったらしいの。無理もないよね。パジャマは血で真っ赤だったんだから。それで、警察に通報して、私は警察官に肩を揺さぶられて叩き起こされたの。最悪の目覚めだった」
ベッドで眠りにつく前と後とでは、状況が変わり果てている。
両親は死去し、実家も燃えてしまっている。
そして、自分自身は犯罪者となってしまっている。
まさに最悪の目覚めである――
「何も覚えていないことが本当に申し訳ないの。私は私の両親を殺した。だけど、そのことを全然覚えてない。親に対しても、世間に対しても、私は心からの謝罪をしたい。だけど、私は何も覚えてないから、謝罪をする資格もない。それがどんなに辛いことか……おそらく誰にも理解してもらえないんだけど」
「分かります」とは相槌を打ったものの、正直、史乃の気持ちを真に理解することは、私如きには一生できないだろう。
私は、母のことも父のことも愛している。私は、二人に親孝行をしたい。二人に一日でも長く生きて欲しい。
それにもかかわらず、母と父が「誰か」に殺されるだなんて、想像するだけで眩暈がしそうである。
しかもその「誰か」が無意識下の私だとすれば――地獄以下だ。そんな状況、想像すらできない。
横浜市夢遊病殺人事件に関する報道に触れた世間の人々は、きっと史乃のことを、ズルいと思ってるのだろう。人を殺しておきながら、責任能力喪失という「反則技」を使い、刑事罰を逃れた卑怯者だと。
しかし、それはあまりにも歪んだ見方である――
史乃は、一夜にして全てを失った悲劇の人物にほかならないのである。