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記憶(2)

 史乃が、泣きそうな声で語った話は、以下のとおりである。



 史乃には、幼少期から、夢遊病の症状があった。

 初めて夢遊病の症状が現れたのは、小学校四年生の頃である。

 自室の部屋のベッドで寝ていたはずが、目を覚ますと、自室のすぐ前の廊下にいたというのが一番最初の「自覚」だった。当初は、両親も、自分自身も、これが夢遊病の症状だとは思わずに、単に人一倍寝相が悪いのだろうくらいに捉えていた。


 しかし、目覚める場所が、階段を下った先のリビング、その先の玄関、玄関から出た先の中庭へと、自室からどんどん離れて行くにつれて、史乃の「寝相」は、家族の一大事となった。


 両親は、史乃のイタズラに違いないと信じたかった。実際には、夜中に史乃は目を覚ましており、朝、両親を驚かせるために、自室から移動し、在らぬところで眠っているのだと。

 できることなら、史乃も、その説に乗っかりたかった――しかし、事実はそうではなかった。

 史乃には、夜中の記憶は一切無かったのである。目を覚ます場所がベッドではないことに毎度一番驚かされていたのは、他でもない史乃自身だった。



 「ベッドにしては硬いなと思って目を開けると、土間だったの。それで、枕かと思ったら、私のスニーカーだった」と、史乃は茶化したが、目は笑っていなかった。



 史乃の両親も、やがて、娘の奇行の原因は、娘の悪ふざけではなく、病的な何かであると考えざるを得なくなった。実際に、父親が、睡眠状態で――とはいえ目はパッカリと開けた状態で――中庭を抜け、外扉を開けようとしている最中の史乃に遭遇したのである。


 史乃は世にいう夢遊病者だろう、と家族は結論付けた。


 とはいえ、両親も、史乃自身も、病院に行くのは嫌がった。史乃の夢遊症状の存在を肯定しつつも、同時にその存在を否定したいというアンビバレントな状態に陥ってたのである。

 そこで、家族と相談した結果、史乃の部屋の唯一の出入り口であるドアに外鍵を設置することで事態の収束を図ることにしたのだ。元々ドアには内鍵が付いていたが、それだと睡眠中の史乃によっていとも簡単に開けられてしまうことはすでに実証済みだったので、外鍵を使うほかなかったのである。



 実際、外鍵の設置は功を奏した。夜中、史乃は必ずしもベッドの上で大人しくしていたわけではなかったのだが、部屋から物理的に出られない以上、実害はなかったのである。


 史乃が小学生の頃は、それで良かった。

 しかし、史乃が中学生に進学した頃から、事態は少しずつ悪化していった。

 睡眠中の史乃が、力づくで外鍵を破壊するようになっていったのである。

 当然のことながら、外鍵を力によって破壊するためには、ドアに体当りすることになるため、家中に響き渡る音がする。

 ゆえに、両親は、その音で史乃の夢遊症状に気が付き、史乃の部屋の方まで行き、寝ながら歩いている史乃の両肩を掴んで揺さぶることで、「夢」から目覚めさせることができた。


 しかし、両親は、史乃の「脱走」を全て止められたわけではなかった。


 中学二年生のある晩のことだった。


 その日は、本州に巨大台風が上陸しており、史乃が住んでいた神奈川県全域に大雨警報が発せられていた。

 日本国民が極力外出を控えたこの日は、夢遊状態に陥った史乃にとっては、絶好の外出日和だった。なぜなら、ドアの鍵を破壊する音が、暴風雨の音に紛れたからである。



 自室を出て、自宅を出た史乃は、横殴りの雨の中、街路へと繰り出した。

 そして、最終的には、自宅から二キロメートルも離れた駅のホームへと至った。

 そこに至るまでどのような経路を辿ったのかも、すでに終電を見送りシャッターが降りていた駅にどのように忍び込んだのかも、何も分からない。

 史乃にとって唯一明らかなことは、目覚めた時に、自分が駅のホームのベンチに腰掛けていたということである。



 「始発前に出勤して来た駅員さんに発見さたの。危うく通報されちゃうところだった。パジャマ姿だったし、雨でビショ濡れだし、完全に不審者だよね」というのが史乃談。


 さすがにこの「大脱走」は、度を超えていた。両親は、大切な一人娘の安全を守るために、苦渋の決断をせざるを得なかった。


 

――手錠である。



 両親は、史乃が眠る際に、鉄の手錠を装着せざるを得ないと判断した。

 それは愛する娘に対してあまりにも苛烈な扱いであるし、そもそも人権侵害である。娘を人としてさえ扱えないということが、親としてどれほど辛いことなのかは筆舌に尽くし難い。


 他方、史乃からすると、寝るときに手錠を付けることは問題なかった。

 全く苦でなかったというわけではない。

 寝返りは打ちにくいし、頭は上手く掻けないし、手首はヒリヒリと痛む。外出するときには、赤紫色に変色した痕を気にして、必ず長袖を着なければならない。

 

 それでも、手錠による制御手段を得ることによる安心感は、それらの苦痛をはるかに上回っていた。

 史乃にとっては、無意識のうちに何か行動してしまうことこそ、何にも勝る恐怖だったのである。


 手錠を付けるようになってから、史乃も、史乃の両親も、夢遊病のことで悩むことはなくなった。

 

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