奇人(2)
「福丸様、お待ちしておりました」
黒無地のポロシャツを着た洞爺が、受付台に頭がぶつかりそうなくらいに深々と頭を下げる。服装だけでなく、ポニーテールの髪型も昨日同様だ。
第一病棟の入り口ホールは、やはり今日もガランドウであり、洞爺は、自動ドアが開くやいなや、私の姿を認めたのである。
「二日連続で来てしまい、すみません……あれ?」
私は、不意に、あることに気が付く。
「どうされました?」
「洞爺さんの背後の壁の絵って、昨日もありましたか?」
私が見上げたのは、背の低い洞爺が顔を上げた頭のてっぺんから、さらに一メートルほどの高さに飾られている絵画である。
「もちろんありましたよ。昨年からここに飾られています」
「そうですか……」
縦横それぞれ二メートルほどある大きな絵画である。なぜ昨日の私はこの絵画の存在に気付かなかったのだろうか。
周りが見えなくなるほどに、洞爺に見惚れてしまっていたということだろうか。
「福丸様、この絵がどうかしましたか?」
透き通った川と、川辺に聳え立つ赤い屋根の小屋が書かれた油絵の風景画である。
私は、この絵の存在に気付いた途端、不思議な感覚に捕らわれたのだ。
その不思議な感覚の正体は――
「既視感があるんです。私、この絵を前にどこかで見たような……」
「昨日見たんじゃないですか?」
「いいえ。違うんです。昨日は私はこの絵の存在に気付いていなかったので」
「もしかすると、意識しないまま、無意識のうちに見ていたんじゃないですか?」
洞爺がなかなかに奇妙なことを言う。
意識しないまま、無意識のうちに見る? それはつまり見ていないということではないのだろうか。
……いや、見ていない、というのもまた奇妙なことなのである。受付の洞爺を見るとき、この絵は必ず私の視界に入るはずなのだ。
だとすると、見てはいたものの、意識には入って来なかったということになろう。それは、洞爺の言うところの、意識しないまま、無意識のうちに見る、ということなのかもしれない。
――いや、そういう禅問答のような話が問題なのではない。
私は、この絵に既視感を覚えている一方で、この絵自体には見覚えはなかったのであるから。
「洞爺さん、この絵の作者は有名な方ですか?」
「いいえ。プロの方が描いた絵ではありませんよ」
見当が外れた。たとえば、この絵の作者がゴッホとかモネであったとすれば、この絵自体を初めて見たとしても、過去に見たことのある有名作品との作風の共通点から、既視感が生じることがあるだろうと考えていたのだが。
「プロの方が描いたのではないということは、素人の方が描いたということですよね? それにしては……」
「上手ですよね」
「……はい」
正確に言えば、絵の巧拙は、門外漢である私には分からない。しかし、この脂絵は、細部まで緻密に描かれていて、素人が描いたとは私には到底思えなかった。
「この絵はこの病院の患者さんが描いたものなんです」
「……え!? この病院の患者さんというのは、その、精神の病気を患っている方ということですよね?」
「そうです」
私は、喉から心臓が飛び出るくらいに驚いた。
昨日、レクリエーション室で見た精神病者の工作は、いずれも小学生レベルの粗雑なものだった。
それと、この油絵のクオリティは、どう考えても比較すらできない。
精神病者が、このような高度な作品を作れるだなんて、俄かには信じることができなかったのである。
「栄生さんという患者さんで、大体いつも病室にこもって絵を描かれています。もしご関心があれば、病室まで案内しますよ」
関心がないと言えば嘘になるが、私の今日の目標は、なるべく不確定要素を減らし、安全に過ごすことなのである。
私は、感じが悪くならないように、なるべく爽やかな笑顔を作りながら、「結構です」と、洞爺の誘いを断った。