奇人(1)
昨日と同じ曇り空――しかし、行路はちっとも憂鬱ではなかった。
私は、「青浄玻璃精神病院」のバス停で、路線バスを降りる。
昨日同様、私がたった一人の最後の客だった。
ただし、バスの中で過ごした時間は、昨日の五分の一くらいに感じた。
ひんやりと湿った風が山から降り、第一病棟前のロータリーまで吹き込む。
賀城の命令で、二日連続で青浄玻璃精神病院へ取材に行かされることは、当然覚悟していた。
今のところ、私には他の仕事は与えられていない。私は、夢遊病殺人事件の専属記者なのである。
そして、昨日は、史乃から本当に何も聞けていないのである。この状態では、一文字も記事は書けない。
私は、今日こそは史乃に事件のことを訊こうと決意していた。アイスブレイクは十分に果たせたはずだ。すでに史乃に「記者」と名乗っていることも考えれば、事件の話を持ち出しても不快感を示されることはないだろう。
今日は、昨日のような不安は一切ない。
今日の私は、受付にはポロシャツを着た天使がいることを知っているし、レクリエーション室に寄り道をさせられることもない。
それに、洞爺に頼めば、セクハラ男にバトンタッチせず、洞爺が直接面会室まで案内してくれるだろう。
今日はほぼほぼ勝ち確な日である。誰かが「すごくすごく不吉な日」と言っていた気もするが、単なる迷信である。
もっとも、今日の行程には、一つだけ不確定要素があった。
私は、その不確定要素をなるべく早く潰すべく、バスから降りるとすぐに、スマホのロックを解除する。
そして、発信履歴の一番上に三つ連続で重なっていた「探偵」と登録された電話番号に架電する。
プルルルルルル……プルルルルルル……
過去三度と同様に呼び出し音が鳴る。
しかし、過去三度と同様に「探偵」が電話に出ることはなかった。
はあ――
私は、ガッカリして、ではなく、呆れて大きなため息を吐く。
「探偵」の電話番号を賀城から聞いたのは、私がオフィスを出る直前のことだった。
ソファから腰を浮かしかけた私を、賀城が、「福丸君、大事なことを言い忘れた」と引き留めたのである。
「福丸君、夢遊病殺人事件の取材には、心強い協力者がいるんだよ」
「協力者?」
「君の取材を助けてくれる者のことだ」
「敦子先輩ですか? 木乃葉先輩ですか?」
「違う」と、賀城は首を横に振る。
私は賀城に聞こえないような小声で、「良かった」と漏らす。
「我が社ではない外部の協力者だよ。といっても、我が社の調査にはたびたび協力してもらってるから、『準レギュラー』のような者だが」
「もしかして、フリーランスの記者ですか?」
「いや、探偵だ」
「なるほど……って、え?」
予想だにしない職業名に、私は面を喰らう。
探偵――それはそもそも職業なのだろうか。
「探偵って、あの、ミステリ小説とかで事件を鮮やかに解決する探偵のことですか?」
「そうだ。あの、ミステリ小説とかで事件を鮮やかに解決する探偵のことだ」
「……そんな職業、実在するんですか?」
「もちろん」
賀城はハッキリと断言したのだが、私は、賀城の言葉を信用することができない。なぜなら、この男は、ムー大陸だって、存在する、と真顔で断言できる男なのである。
「……やっぱり実在しないですよね」
「いいや。だから、実在するって言ってるじゃないか。福丸君、人捜しや浮気調査をする探偵というのは、実際に聞いたことがあるだろう?」
「言われてみれば、そうですね。聞いたことがあります……ということは、私に協力してくれる探偵というのは、そういう、人捜しとか浮気調査とかを生業にしてる人ということですね」
「違う」
「……はい?」
「さっき福丸君の言葉をそのまま返しただろ? 我が社に協力してもらっている探偵は『ミステリ小説とかで事件を鮮やかに解決する探偵のことだ』って」
プルルルルルル……プルルルルルル……
念のためもう一度電話を鳴らしてみたが、やはり「探偵」が電話に出ることはない。
はあ――
私は、再度大きなため息を吐く。
危うく、我が社の性質を忘れて、賀城の言うことを信じてしまうところだった。
ミステリ小説の探偵などというものは、ネッシーや雪男と同じで、単なる空想の産物なのだ。
ゆえに、オフィスを出る前に電話を掛けても、地下鉄に乗る前に電話を掛けても、バスに乗る前に電話を掛けても、病院に着いた時に電話を掛けても、発信音が鳴るばかりで、誰も電話に出ないのだ。
やっぱり探偵なんて実在しない――
私は、ついにスーツのポケットにスマホを仕舞うと、天使の待つ第一病棟の、自動ドアの前に立ったのである。