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普通(1)

胎児よ


胎児よ


何故躍る


母親の心がわかって


おそろしいのか



夢野久作「ドグラ・マグラ」より



…………




「福丸君、巳香月史乃と会った感想は?」


「普通の人でした」


 私の答えがお気に召したようで、賀城は、柔和な微笑みを顔に浮かべながら、何度も繰り返し頷く。


 株式会社不可知世界における、私のオアシスである面談室での、朝の光景である。


 出社三日目の今日に関しては、この四畳間の部屋は、オアシスを超えて、シェルターとしての役割も担っていた。



 その理由は、端的に言えば、先輩の奇行のせい、ということになる。



「叉雨、今日は要注意。すごくすごく不吉な日」


「敦子先輩、そうなんですか? 今日、カレンダーだと大安になってるんですけど」


「太陰暦だと、今日は一年で一番不吉な日」


「太陰暦?」


「月の満ち欠けを基準とした暦」


 これが出社早々、私がまだ自分の席に着く前の敦子とのやりとりである。



 そして、このやりとりの直後、私はハッキリと異変を認識した。



「……敦子先輩、なんかこの部屋、変な匂いがしませんか? 檸檬が腐ったみたいな酸っぱい匂いが……」


「悪魔除けのお灸」


 敦子の目の前には、今日はラジオの代わりに、楕円形の紫色の陶器のお皿が置かれており、その上に黄色い塊がチョコンと乗っている。その塊から、一筋の白い煙が立ち昇っているのである。



「このお灸を焚いてれば、今日は一日安全。これは悪魔が一番嫌いな匂い」


「……オエッ」


 意識して鼻から息を吸った瞬間、私は嘔吐えづいてしまった。



「……敦子先輩、私、この匂い、生理的に無理かもしれません」


「……叉雨、もしかして悪魔の化身?」


「違いますよ!」


 おそらく全人類が無理な匂いだと思う。「檸檬が腐った」というのは、排泄を「お花摘み」と言うくらいの可愛い表現であり、実際は、放送禁止用語を用いなければ表現できないほどの悪臭なのである。


 なぜ敦子が平然としているのか分からない。あと、木ノ葉も。木乃葉は、敦子の隣の席で、いつもどおり長い前髪をタラリと垂らしながら、知恵の輪――私の語彙力だとそうとしか表現できない奇形の金属――をカチャカチャと弄っているのである。果たしてこれが我が社のどういう業務と関連しているのか、私には見当も付かない。



 ともかく、私は、これ以上、このお灸の香りが漂う空間にいることができなかった。

 ゆえに、鞄を持ったまま、面談室へと避難し、扉をバタンと閉めたのである。

 普通に空気を吸ったり吐いたりできることがどれだけありがたいことかを気付かされる。きっとあのお灸は、敦子の認識とは違い、悪魔のみが耐えられるお灸なのだろう。



 さて、そのような経緯で面談室に引き篭り、鞄に入っていた「横浜市夢遊病殺人事件」の記録を改めてパラパラと見直していたところ、文字どおり「社長出勤」をしてきた賀城が、シェルターのドアを叩いた。


 私と同様の理由で、作業室から逃げて来たのだとすれば、賀城は「悪魔の一味」でないことを認定できたのだが、そうではなく、単に、私と会って話したかったようである。



 賀城は、私の対面のソファに徐に腰掛け、私に先ほどの質問をぶつけたのだ。



「福丸君、巳香月史乃と会った感想は?」


と。



 私は、その質問に、迷わず答えたのである。



「普通の人でした」


と。


 路下が開け放ったドアの向こう――青浄玻璃精神病院の面会室は、貸し会議室のような質素な部屋だった。

 強いて特徴を挙げるのであれば、大きな窓だろう。腰高窓であるが、下部を除いて、壁の一面をほとんど覆っていた。

 面会室はそれなりの高層階に位置していたとはいえ、窓から見えるのは、薄暗い霧の奥に見える木々と山肌だけだった――当然である。第一病棟以外の青浄玻璃精神病院の病棟は、山あいに収まっているのであるから。



 そして、その窓の前に、青白い蛍光灯の光に照らされ、パイプ椅子に腰掛けた病院着の女性がいた。


――巳香月史乃である。



 新聞報道を基に計算すると、現在、四十一歳か四十二歳のはずである。

 見た目は、年相応か、少し若く見える。

 ひょろりと背は高く、痩せ気味ではあるが、決して痩せ過ぎているというわけではない。日本人女性が憧れる体型である。


 肌は白いが、これも不健康なまでに白いわけでなく、やはり日本人女性が憧れそうな白さだ。


 目鼻立ちはそこまでハッキリした方ではないが、目立って悪い顔のパーツはない。


 顎は小さく、首との区別は付きにくい。ただ、その分首がスラリと長く見える。


 

 美人かどうかは評価が分かれるかもしれないが、私は美人だと思うし、少なくとも、普通だ。


 史乃の見た目は、普通なのである。少しも狂気じみていない。

 柚之原のように異様に目が飛び出ていることもなければ、真木島のように伏し目がちで目が合わないということもない。


 また、机の上に、幼児の人形がちょこんと載っているということもない。



 そして、史乃は、私の姿を見るやいなや、ニッコリと笑い、



「はじめまして」


と挨拶したのである。



 史乃は、完全に普通だ。



 アクリル板も手錠も不要である。



 悔しいが、路下の言うとおり、百聞は一見に如かずだった。

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