内実(3)
二つ目の扉の先は、レクリエーション室のあった第八病棟とは雰囲気がまるで違っていた。
本日の曇天の空よりも薄暗い廊下。聞こえるのは換気扇が回る音だけで、人の声は聞こえない。
「静かですね」
「第三病棟はそれが売りなんです。肝試しにうってつけでしょ」
路下が、私の顔を覗き込む。私が「肝試し」という単語にどのように反応するのか見たかったに違いない。
路下のあさましき思惑に気付いていた私は、
「お化けなんて非現実的です」
と涼しい顔で言う。
すると、路下は、嬉しそうに、
「オカルト雑誌社の記者らしからぬ発言ですね」
と言う。
なかなか痛いところを突いてくる。
路下の言うとおり、私はオカルト雑誌社の記者には向いていないのである。先輩の木乃葉とは違い、私にはお化けは見えない。それどころか、お化けの存在を信じてさえいないのである。
そのことを正直に告白し、「本当はこんな仕事に就きたくなかった」と開き直る手もあるだろう。
しかし、そんなことをしたら、路下にさらに揶揄われるだけであることは目に見えていたので、私は、苦笑いでその場を遣り過ごしつつ、話題を変える。
「精神病を患ってる方でも、やたらと博識な方もいるんですね」
「え!? 誰のことですか?」
「真木島さんです」
「ああ」と路下は、含み笑いをする。
「真木島さんの言ってることは全部出鱈目ですよ」
「え!?」
私はてっきり真木島が世界史にものすごく造詣があるのかと思い込んでいたのだが、真木島が話していたのは、嘘八百の「エセ世界史」だったというのか。
「真木島さんが口から出まかせで話していたということですか?」
「いいや、そうじゃないです。あれは真木島さんの創作じゃなくて、オンラインゲームの設定なんです」
急激に肩の力が抜ける。「しょうもな」と心の中で毒づく。一瞬でも、真木島のことをすごいと仰ぎ見た自分が羞恥極まりない。
「『ジェネラルウォーズ』っていう十五年前くらいに流行ったゲームで、真木島さんは当時引きこもりで、昼夜なくひたすらプレイし続けていたらしいですよ。そのゲームの世界ではかなり有名人だったとか」
「はあ」
「ただ、運営会社が経営破綻して、突然サービスが終了してしまったそうです。それで全てを失ってしまった真木島さんは、急激に調子を崩し、当院に入院することになったんです」
柚之原のヒストリーと比較しても、あまり同情できないヒストリーである。ざまあ見ろとまでは言わないが、ゲームをいくら極めても意味がないというのは、人生における当然の事理に違いない。
「ガラス戸越しだったので、聞こえなかったんですが、おそらくガレスタン家の紋章がどうだとかそういう話ですよね。あの話は真木島さんの十八番で、俺は少なくとも百回は聞きました」
「そんなに何度も?」
「一途さだけは俺も見習いたいですよ」
「路下さんは一途じゃないんですか?」
「福丸さん、気になりますか?」
見た目は良いこの男が、実際に女の子に何股も掛けている可能性はあるなと思ったが、それを追及したいとまでは思わない。私はこの男に、そこまで興味がない。
さぞ追及して欲しそうに、ニヤニヤと嬉しそうに私の顔を見られているのだから、なおさら話題を変えたくなる。
「路下さん、この病棟ってエレベーターはないんですか?」
「話を逸らしましたね」
「いや、脚に乳酸が溜まってきただけです」
事実である。先ほどからずっと階段を上り続けている気がする。もう四階分くらいは上がってるだろうか。
「この病棟はちょっと特殊な構造でして、エレベーターはあるにはあるのですが、エレベーターで行ける部屋とそうでない部屋があるんですよ」
「面会室は階段じゃないと行けないということですか?」
「もちろんそうです。そうじゃなければ、一体俺は若い女性記者をどこに連れ込もうとしてるのかという話ですよ」
完全にアウトなセクハラ発言である。一刻も早くこの男と別れるべく、面会室に到着して欲しいと心から願う。
「福丸さん、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくださいよ。ただの冗談なんですから」
「冗談でも言って良いことと悪いことがあります」
「まあ、そう怖い顔しないでって。ほら。もう着きましたから。目の前に灰色のドアが見えますよね? あれが面会室です」