内実(1)
白衣の男の胸には、洞爺と同様の名札兼カードキーが付いている。
それによると、男の名は「路下」というようだ。
私より一回り上で、二十代後半か、もしくは、三十代前半くらいだろう。少し筋肉質で、かといって太くはない体型で、肌は健康的に茶色く焼けている。
清潔感のある爽やかイケメンといった雰囲気で、スポーツ刈りがよく似合っている。あまりにもよく似合ってるので、柚之原や真木島らの男性患者は、もしかすると路下に憧れて髪型を真似しているのかもしれない、という仮説さえ立ったのである。
私のお目付役は、洞爺から路下へとスイッチした。今、私は路下に連れられ、曇天の下、森の中を歩いている。
目的地である第三病棟は、他の病棟とは少し離れたところにある、と路下は私に告げた。
「ここから連れて行っていただく面会室には何があるんですか?」
私の素朴な質問は、路下には奇妙に聞こえたらしい。路下は、フッと鼻で笑った。
「福丸さん、今日は巳香月さんに会うために来たんですよね? もちろん、面会室では巳香月さんが待っています」
言われてみると、たしかにそれ以外に私が面会室に案内される理由はないのであるが、私は引っ掛かりを覚えていた。
「巳香月さんは、さっきのレクリエーション室にいたんじゃないんですか?」
「いいえ。いませんよ。福丸さんが到着してからずっと面会室で待ってます」
私は唖然とする。
私がこの病院に来た目的は、唯一、巳香月史乃に会うことだけなのである。
洞爺が私を第八病棟のレクリエーション室に案内したのは、当然、レクリエーション室に巳香月史乃がいるからだと思っていた。
しかし、実際には、巳香月史乃は面会室にいて、レクリエーション室には、巳香月史乃以外の精神病者がいただけなのである。
「……だとすると、私はどうしてレクリエーション室に案内されたんですか?」
「俺らには分からないです。賀城社長の指示なので」
賀城の指示? つまり、賀城は、新入りの私に、あえてレクリエーション室を見学させ、精神病者との接点を持たせようとしたということだろうか。とんだ新人教育である。業務と関係のないことを強制したとして、パワハラにならないだろうか。
「廊下からガラス越しに、こっそり福丸さんと患者さんとのやりとりを見ていましたが、福丸さん、早速患者さんに気に入られてましたね」
「え?」
私が精神病者に気に入られていたとは本当だろうか? 少しも実感はなかったし、むしろチグハグなやりとりを繰り返していたという自覚がある。
「福丸さんは良い記者になると思いますよ」
「本当ですか!?」
「記者には、魅力が大事ですからね。福丸さんみたいに若くて可愛い女の子には、取材対象も心を開きやすいでしょう」
その言葉を聞いて、私は一気に路下のことが嫌いになった。顔が良くても、中身が悪ければ、ダメである。
私は、沈黙することで路下の不適切発言に抗議をする。
そのことに気付いたのか、気付いていないのか分からないが、路下は言葉を継ぎ直した。
「とにかく、この病院の患者さんとちゃんとやりとりできるというのはすごいと思いますよ。悪い人ではないんですけど、かなり『癖』があるのはたしかなので」
「癖……ですか?」
「ええ。もしくは執着というか。たとえば、最初にやりとりしていた柚之原さん」
どうやら路下は、私がレクリエーション室に入ってからの一部始終を廊下から観察していたらしい。柚之原に関しては、私は話をしておらず、洞爺が話していただけなので、若干、観察は不正確なのだが。
「彼は、図工の時間には、ひたすらずっとトラックを作っています」
「トラックがお好きなんですね」
「好きというか、もはや柚之原さんの人生そのものなんですよ。柚之原さんは、若い頃に統合失調症と診断されて、精神病院への通院や入院を繰り返してたんですけど、一時期症状が落ち着いていた頃があって、その時期に配送トラックの運転手として働いていたそうで」
柚之原は、私とそれほど年齢が変わらないように見えた。とすると、トラック運転手として働いていた時期というのは、比較的最近のことになるのだろう。
「柚之原さんはマメな性格で、運転もマメだったそうで、まさに天職だったとか。ただ……」
路下が声を落とす。
「何かあったんですか?」
「知ってると思いますけど、トラックの運転手というのはかなりの重労働で、拘束時間が長いだけでなく、昼夜関係なく運転させられるんです。柚之原さん自身としては、仕事が楽しくて、そんなこと苦にならないという感じだったようですが、彼の神経はそうはいかなくて……」
「神経が狂ってしまったということですか?」
「まあ、そうですね。神経……正確に言うと、自律神経ですかね。長時間労働、深夜早朝労働が、柚之原さんの自律神経に良くない影響を与えて、精神状態が悪化してしまったんです」
「悪化するとどうなるんですか?」
「幻覚だったり、幻視だったり、幻聴だったり、もしくは、そのいずれもないのに『何かに何かをされている』感覚だったり、まあ、症状は様々です。その結果として、柚之原さんは、当時住んでいたアパートの部屋を破壊してしまって」
「破壊……ですか?」
「俺は実際に写真を見たわけじゃないんですが、現場写真を見た人から聞いた話だと、まさに『破壊』としかいえない状況だったみたいです。壁という壁に穴が開いていて、家具も本棚から何からすべてひっくり返っていて、まるで猛獣が暴れた跡だったとか」
――何たる危険人物なのだろうか。
柚之原がカッターを持ったまま振り返った時、私が後退りしたのは、直感としては正しい行動だったのかもしれない。
「……柚之原さんは、どうしてそんな風に暴れたんですか?」
「うーん、俺は直接本人に訊いたことないんで分からないですが、多分『部屋に盗聴器がある』とか『悪魔の声がした』とかそんな感じだと思いますよ。まあ、そこまで珍しいことではないです」
路下は、平然とそう言ったが、私は絶句してしまう。精神病者の世界だと、「悪魔の声が聞こえる」ということがさして珍しいことではないのか。私は、そういうことが珍しくない世界へと、今まさに片足を突っ込んでしまっているというのか。
「まあ、いずれにせよ、柚之原さんに関しては、部屋の破壊行為を大家に通報されて、警察沙汰になった。そして、精神病院への入院が必要だろうということになって、青浄玻璃精神病院に入院することになったんです」
「強制入院ですか?」
「いいえ。柚之原さんの入院に関しては、ご両親の同意の下です。言い方が悪いんですが、ご両親が手に負えず、って感じですかね。ただ、柚之原さんご本人は、今でもトラックの運転手への憧れがあって、そうした思いが、彼の創作スタンスに繋がってるんだと思います」