図工(3)
「福丸様」
「……は、はい!」
洞爺から突然声を掛けられ、私はまた陰キャのような返事をしてしまう。
「今度は福丸様が声を掛けてみてください」
「……声を掛けるって?」
「もちろん患者さんにです」
「えっ!? ……あっ!」
マズいと思い、私は慌てて口を塞ぐ。私が精神病者に声を掛けることを恐れているかのような態度を見せてはならない。やはり私と洞爺のやりとりには一切注目せずに黙々と作業しているとはいえ、この部屋には精神病者がたくさんいるのである。
柚之原がたまたま親しみやすそうだっただけで、他の精神病者はそうではなく、攻撃的だったり、そうでなくとも微塵も話が通じなかったりするかもしれない。
安全な精神病者と、地雷な精神病者を見分ける能力は、私にはない。
私は、「結構です」と辞去したかったのだが、その言葉を精神病者に聞かれることも憚られる状況である。
困り果てた私は、苦笑いをすることによって洞爺にSOSを求めたのだが、この時ばかりは、洞爺は察しが悪く、私の苦笑いを微笑みによって打ち返した。
そして、「みんな人懐っこい子なので」と、先ほどの眉唾な言葉を繰り返すのである。
苦笑いに加えて冷や汗まで顔に浮かぶ。
意を決して「結構です」の言葉を放とうとしたちょうどその時、野太い男の声が聞こえた。
「洞爺さん、その子、新入りの看護師?」
声の主は、長机を挟んで私の対面に座っていた小太りの精神病者であった。年齢は四十代くらい。この病院で流行っているのか、髪型は柚之原と同様、スポーツ刈りだ。
「真木島さん、違います。記者さんなんです」
「記者って、新聞記者か?」
「真木島」と呼ばれた男の視線は、ずっと机の上だ。私と目が合ったわけではない。とはいえ、この質問には、私に向けられていると考えるべきだろう。
私は、「そんな感じです」とお茶を濁した。ここで「オカルト誌の記者です」と正直に答えるほどの愛社心はなかった。
「記者さん、お名前は?」
「名前ですか? えーっと……」
正直なところ、名乗るのには躊躇を覚える。この精神病者に対して、私が名乗らなければならない義務などないのである。
とはいえ、名前を教えないというのも角が立つし、何より、精神病者を差別しているように思われたくなかった。
ゆえに、私は「福丸叉雨です!」と元気よく答えてみせた。洞爺が、心の中で私に拍手を送っている……ように感じた。
私は、真木島から「ふくまるって珍しい名字だな」とか「さざめって珍しい名前だな」とか然るべき反応が返ってくるのだろうと想定した。しかし、真木島は、無言のまま、やはり私と目を合わせることなく、机の上の物を弄り始めた。
それは私とのやりとりを終了する合図なのだと理解した私だったが、その解釈は間違っていた。
真木島は、机の上から、画用紙を一枚持ち上げると、複雑な絵柄が描かれた側を私の方へと向けたのである。
「これ何か知ってる?」
「えーっと……ミステリーサークルですか?」
私の回答に、真木島は「違う」と大きく首を横に振る。なんだかんだ我が社の作風に大きく影響されてしまっている私がいて、消えてしまいたい気持ちになる。
「これは家紋」
「……家紋って、あの、名家の紋章ですか?」
「そうだよ。これはガレスタン家の紋章で、丸い円状の土台に交差した弓矢が特徴なんだ。ガレスタン家は、ルネサンス期のイタリア南部、今でいうナポリのあたりに広大な土地を持っていて、弓兵の大兵団で有名なんだ。だから紋章に弓の模様があるわけ。マキャベリも一時期ガレスタン家に使えてたことがあるんだよ」
それから、と真木島は、やはり複雑な模様が描かれた次の画用紙を示した。
「こっちはマクリア家の紋章。マクリア家は海上戦を得意としてて、ほら、紋章に船が描かれてるでしょ? マクリア家は、ガレスタン家とほぼ同時期に勃興して、最初の頃は、ガレスタン家と王子に嫁を出すような関係だったんだけど、後年になって関係が悪化して、何度も戦火を交えるんだよ。レオナルド・ダヴィンチは知ってるでしょ? マクリア家は、レオナルド・ダヴィンチの絵画をたくさん保有してるんだ」
「へえ」という相槌さえ入れる隙のない怒涛の説明である。世界史は苦手で、大学受験は日本史で受験した私なので、マキャベリやレオナルド・ダヴィンチという名前すらも、ギリギリ聞いたことあるレベルに過ぎない。
「あなた、記者さんだったらこれくらいは知っておいた方が良いよ」
「あはは……勉強しておきます」
もしかすると、私が就活で大苦戦したのは、記者に求められる水準の知識量がなかったかもしれない。
……というか、今、「あなた」って呼ばれたよね? さっき私が名乗った意味は?
……まあ、ともかく、精神病者の中には、博識な者もいるようである。