図工(2)
レクリエーション室の扉は、手動の引き戸になっていた。
洞爺からは「身構えなくて大丈夫」とは言われたが、戸が引かれた瞬間、私はどうしても身体に力を入れてしまう。
扉が開いた途端、精神病者に襲われてしまう――ということまではないとしても、精神病者に一斉に睨まれる、ということはあるのではないか。
一見して、私はこの病院の部外者なのである。
私が精神異常者でないことは一見して分かる、ということまでは言わずとも、私は、いかにも新卒、という感じのパッキパキのスーツ姿なのである。おろし立ての真っ白なワイシャツと、就活でも使っていた漆黒のジャケットとスカート。精神病院はおろか、どこにいたって目を惹いてしまう「THE 新卒」スタイルである。
そんな「異物」を、レクリエーション室の精神病者たちは歓迎しないだろう、と思った。「何者だ。出て行け」と目で合図されるに違いないと私は怖れたのである。
――しかし、実際には、誰からも睨まれることはなかった。
それどころか、誰しもが、あたかも私のことが見えないかのように、黙々と絵を描き続けたり、談笑を続けたりしたのだ。
「失礼します……」と小声で言ってみても、私が、洞爺の隣にピッタリついて、精神病者たちに何歩か近付いていっても、状況は変わらない。
まるで幽霊になってしまった気分だった。
「柚之原さん、工作は順調ですか?」
洞爺が、ちょうど私の目の前に座っていた精神病者に、後ろから優しく声を掛ける。
その若い男性の精神病者は、夢中になって、右手にぎゅっと握り締めたカッターナイフを動かしていたのだが、洞爺の声に反応し、椅子に座ったまま、後ろを振り返る。
――怖い、と反射的に私は思った。
服装は、何の変哲もない病人着で、髪型もサッパリとしたスポーツ刈りである。
それでも、明らかに健常者とは異なっている。
――眼球である。
一旦抜いてからまた雑に埋め直したかのようなギョロリとした目は、異様としか言いようがない。
頬が窪んで黒く見えるくらいにはゲッソリと痩せているので、目が飛び出て見えるのも痩せ過ぎの傾向なのかと思わなくもないが、果たして単に痩せ過ぎないだけで、このような悍ましい目になるというのか。
私は、精神の異常が、この柚之原という男の見た目にもそのまま表れているような、そんな気がしてならなかったのである。
柚之原の目玉が私を捉えた。
そして、柚之原は、私という「異物」の存在を認識し、それを排除するために、手に持ったカッターナイフを――
――というのは、完全な私の被害妄想であり、実際には、柚之原は、ポトンと机の上にカッターナイフを置いたし、そもそも私のことを見てすらいない。
柚之原は、ポカンと口が開いた呆けた顔で、洞爺の顔を確認してから、
「おかげさまで今日も順調です」
と、まるで工事現場の下請作業員が元請会社の社長の気遣いに対して返すような丁寧な言葉を返したのである。
私は、先ほど被害妄想によって後退りしてしまった一歩を、洞爺と柚之原とが目を合わせている隙に、そっと元に戻したのだった。
「柚之原さんが今作ってるのは車輪の部分ですか?」
「はい。そうです。後輪を作っています」
なるほど。たしかに、柚之原が、カッターで切り抜いていたのは黒い厚紙であり、少し歪であるが、円形に線が入っている。
作業中の黒い厚紙のほかに、四角い箱状に折られ、糊付けされた灰色の厚紙も机に置かれている。
柚之原が車輪を作っているとすると、この部分は自動車の本体部分ということになろうか。それとも四角いからバスか何かだろうか。
「今回のトラックも素敵ですね」
「お褒めいただき光栄です」
惜しい。バスではなくトラックだった。正直なところ、小学一、二年生レベルの工作ではあるが、作成途中のものは十分にトラックのパーツとなり得るなと思う。
それにしても、洞爺は「今回も」と言ったが、柚之原は、トラックばかり作っているということだろうか。トラックというのは、それほどまでに魅力的な乗り物だっただろうか。
「完成したらまた見せてくださいね。うふふ」と微笑みを残し、洞爺は、柚之原の元から離れる。柚之原は、洞爺の背中に対し、何度も恭しくお辞儀をしている。
私は、精神病者にも優しく接することができる洞爺の天使ぶりをまた垣間見たのであった。