憂鬱(1)
少しだけ仕事やプライベートに余裕ができたので、最近の関心に基づき、新作を投稿します。
毎日投稿を目指します。
ヒロインの名前に「雨」の字が付いていることを除けば、僕らしからぬ作品かと思いますが、新境地に挑みます。応援よろしくお願いします。
このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連の使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、強いて訳しますれば今の幻魔術もしくは「堂廻目眩」「戸惑面喰」という字を当てて、おなじように「ドグラ・マグラ」と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部をひっくるめたような言葉には相違御座いません。
……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説的な、同時にドコドコまでもナンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます。
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
神保町は、昨日に引き続き、今日も雨だった――
福丸叉雨――私は、地下鉄の階段を上り切り、地上に出るとともに、立ち止まる。
そして、膝に手をつき、大きく息を吐く。長い階段に息が切れたということもあるかもしれない。ただ、それ以上に、これはため息である。
憂鬱なのは、雨のせいではない。
あと十分以内には到着していなければならない場所のことを考えると、私は憂鬱で仕方がないのだ。仮に、都営三田線のホームに落下防止柵がなければ、もしかすると……とさえ思う。
とはいえ、ここでずっと立ち止まっているわけにもいかない。入社二日目にして早速遅刻をかますということになれば、私の立場はさらに悪くなる。そうなれば、目も当てられない。
「もう行かなきゃ」
私は、独り言を言ったのち、大きく息を吸い込む。
決して美味しいとは言えない都会の空気。口から侵入した雨の雫も、どちらかといえば、不味い。
私は、最後に大きなため息をつくと、手に持っていた黒い折り畳み傘をパッと開いた。
神保町は、不思議な街だ。
ここでは、古いものが、新しいものよりも良いとされるのである。
その風潮は、「古本の街」という人口に膾炙したイメージによっても象徴されている。ただ、それだけではない。
カレー屋も、喫茶店も、ラーメン屋も、新しさではなく、古さを競っているのである。やれ「元祖」だのやれ「初代」だのやれ「老舗」だのを看板に大きくアピールし、年季の入った建物を、あえてそのままにしている。
そして、灯りも切れかけた古ぼけた店舗の前に、賑やかな大行列ができているのである。
それがこの街が有している不思議な価値観なのだ。単にボロさだけで言えば、私の田舎も負けていないのだが、私の田舎では、それを恥と思えど、間違っても誇ってはいない。
おそらく、こうした特殊な街ゆえに、私の目的地のオフィスは存在することを許されている。
やはりヒビが入りたい放題の老朽化し尽くしたビル――本間わだちビルという――の三階に、そのオフィスは存在している。
四階建てのビルには、当然、エレベーターもあるのだが、私はまだ一度も使ったことはない。ダイエットのために階段の上り下りを心掛けている、という高尚な話ではない。オンボロエレベーターが突然止まり、閉じ込められてしまうことを恐れているのだ。それは決して杞憂ではなく、実際に過去に何度か停止したことがある、ということを昨日誰かからか聞いた。
ゆえに私は、今日も、息を切らしながら暗い階段を上る。こちらはこちらで一歩踏み出すごとに、ミシッミシッと軋む音がするのだが、それは聞こえないこととする。
そして、ついに私は目的地に到着した――到着してしまった。
入り口のドアは、私が今住んでいる古ぼけたアパートの一室のドアと何ら変わりのないスチール製。要するに、洒落っ気など何もない。
そこに掲げられた怪しい表札。
そこには、普通ならば表札には使わない怪しげなフォントで――強いて例えるならば古代ルーン文字のようなフォントで――「株式会社不可知世界」と書かれている。
インターホンは、ない。
私は、右手の甲でスチールドアをノックする。
コンコンコンコン……
しかし、反応はない。
漏れ聞こえるラジオの音からして、中に間違いなく人はいるのに――
私は、再度、コンコンコンコンとドアをノックした。
それでも反応はない。
スマホを確認すると、時刻は八時五九分。あと一分で始業時間。私は焦っていた。
そこで、意を決し、ドアを引く。
鍵は掛かっておらず、ギーッという不穏な音を立てながら、ドアは開いた。
外装から察するに余りあるとおり、部屋の中は、普通のアパートの一室同様である。玄関を抜けてすぐの廊下に面したユニットバスさえある。
私は、急いでパンプスを脱ぎ、野うさぎの毛が使われているらしいモコモコのスリッパに履き替えると、玄関を小走りに進み、ラジオの音が漏れ聞こえる部屋へと向かう。
木製のドアを開け放つと、やはり部屋にはすでに三人の上司がいた。
「……福丸君、おはよう。案外早かったね」
脚を組みながら、椅子を回転させて私に向き直った編集長は、目を丸くしている。その表情からすると、始業時間ピッタリに到着した私への皮肉ではなく、心から「案外」だったようである。
編集長の名前は、賀城久雄。年齢は七十二歳で、白髪と白髭が似合っているイケオジである。
明治時代から続く良家の出身で、それを裏付けるように、口調は柔らかく、所作もキッチリしている。
我が社の創設者兼編集長は、一見すると、頭のオカシくない、まともな人間なのである。大事なことなので、繰り返す。一見すると、だ。
私は、賀城に対して、ペコリペコリと繰り返し頭を下げる。
「ごめんなさい。入社二日目にして、遅刻ギリギリでの出社になってしまって。以降、気を付けます」
「いやいや、我が社において、始業時間などというものは、あってないようなものだから。無理に出社しなくても良いし、むしろしばらくの間蒸発してても構わないよ。いつかちゃんと帰ってきてくれたらね」
「蒸発?」
「失踪のことだよ。たとえば宇宙人に攫われるとか」
ああ、なるほど、と私は生返事をしたが、内心では、やはりこのイケオジはヤバい奴だ、と毒づかずにはいられなかった。
賀城が「宇宙人」の例を出したのは、ジョークの一つとして、ではないのである。賀城は、願望として、私が宇宙人に攫われれば良いのに、と思っているのだ。そうすれば良い記事が書けるのに、と。
私が入社した株式会社不可知世界というのは、そういう発想が渦巻く会社なのである。なんせオカルト雑誌の出版社なのだから。