悪役令嬢は泣かない
終わりに近づいた学園卒業記念のパーティーは、まさに佳境に入っていた。
ダンスに疲れた善男善女、今日を最後に自分の領地に帰る生徒、生まれて初めて王城の広間に入った、そして二度と入ることのない庶民の生徒。
人生の大きな、そして華やかな場に皆が高揚し、楽しみと、少しの寂しさを分け合い、満喫していた。
お嬢様がその場に分け入るまでは。
「サルーマ王太子さま。婚約者さま。おりまして?」
最高のテーラーに長々一年の猶予を与えて作らせた、完璧な、最高級のシルクのドレスを翻して。
東方から取り寄せた孔雀の羽の扇をだるそうに閃かせて、お嬢様が居丈高に王太子を呼び出す。
入りこそパートナーとしてお嬢様をエスコートした王太子は、途中同性の友人たちと連れだって馬鹿騒ぎを始め、会場のどこかに去ってしまったのだ。
「す、すまないミルバ。放っておいて。だが、何しろ彼らとこんなふうに騒げるのも最後なもので」
王太子は申し訳ない顔で、人垣から慌てて出てきた。友人の多い人だ。王となるにはやや腰が低すぎる。
お嬢様はうんざりと言った顔で、王太子をなじった。
「もう、いいですわ」
「すまないミルバ、すまない、ごめんなさい」
「謝らないでくださいまし! もう、もう、いいですわ、全て私が悪いのですわ、もうたくさん!」
ばさりと扇を広げ、お嬢様は顔を王太子から隠した。明確な拒絶の意を感じた王太子の顔色が青くなる。
お嬢様のお母様は隣国の大国から嫁いできた人だ。
彼女のツテでかなりの融通を大国からきかせてもらっており、怒らせればこの国の外交は苦しいことになる。
「……王太子殿下。今日この日にて、婚約を解消して下さいまし」
「ミ、ミルバ、急に何を言う」
「いいえ、もうたくさんですわ。もうたくさん! パーティーで私を1人放ってどこぞへ行くなんて、どこまで礼儀がなってませんの? ほんっとあり得ないですわ。第一、王太子殿下、前々から思ってたんです。あなたって」
お嬢様の声が会場に響く。
沸いていた歓談の声は静まり、針の音した音さえ響くようなまっさらな沈黙に変わる。
「あなたもお思いになるでしょう? ご自分がわたくしに相応しくないって? ご勉学も、スポーツも、中の中。それを恥ずかしくお思いなることもなくヘラヘラと、やがて臣下となるもの達に負けて? 在学中どれだけわたくしが悲しく恥ずかしかったことか!」
細い肩を震わせて、お嬢様の声が涙声になる。
王太子が今更ながら羞恥に赤くなり、そしてまた青くなった。
「もうこれきりですわ。お母様に言って、解消してもらいます。異存はないですわね? わたくし、お母様の国の方が合ってると思いますの。殿方さま皆、素晴らしく洗練された紳士ですもの。そちらへ参りますわ、王太子さまは、」
お嬢様は一瞬声を詰めた。
「そこいらのつまらない、男爵位くらいのご令嬢がお似合いですわよ。そう思われますでしょ、皆さま!?」
急に声を高くしたお嬢様に、周りの生徒達が戸惑ったふうに顔を見合わせる。
それから唸るようなざわめきが広まり、婉曲的な同意の意を表すようにパラパラと拍手がされた。
媚びるような曖昧な笑みを浮かべる同級生下級生達。
だがお嬢様は彼らに心底軽蔑した視線を投げるのみだ。
もう飽き飽き、あからさまな態度でパチリと扇を閉じたお嬢様が、くるりとドレスを翻し、おつきの私に命じる。
「さあ帰りますわよ、早く馬車を呼んで! こんな田舎くさいところ、もういっときだっていたくないわ!」
カラカラと景気良い音を立てて、お嬢様の四頭だての馬車が街路を走った。
お嬢様がぼんやりと窓の外を見ている。この日のために一年前から用意した、美しい薄紫のシルクのドレスを纏って。
王太子が言ったのだ。
初めてお嬢様に会った時、たどたどしい声で。薄紫のお洋服が素敵ですね。まだおふたりが10歳の時だった。
あれからお嬢様は薄紫のドレスばかりあつらえているのだ。ワードローブが凄いことになっている。
「今日の啖呵はかっこよくてよろしかったですよ、お嬢様。お見事でした」
いつもと違って。と言う私の内心の声を拾い、お嬢様がジロリとこちらを睨んだ。
「うるっさいわね。どーせいつも不審者だったわよ。いつもみたいに笑いなさいよ」
グルルとお嬢様が唸った。
お嬢様と王太子の会話には、いつも私は大笑いしていた。
王太子は幼い時から穏やかな、それはもう善性の人で、まあちょっとオツムは鈍めだったが、優しい人だった。
都会人なお嬢様のご両親たちとお嬢様。
常にスマートだが、劣ったものには悪気なく冷笑を送る家庭。
お嬢様がチョロく王太子の温かさに絆されたのは一瞬だ。そばで見ていた私が言うのだからまちがいない。
お嬢様と王太子の会話は、王太子がお嬢様のお髪やドレスを褒め、お嬢様が動揺して奇声を発するところから毎回始まった。
お嬢様にすれば、“両親の娘として恥ずかしくない″ ようになるため隙なく整えているものだ。
ミルバ、私たちの娘に相応しいよ。両親の褒め言葉に応えるため。
そんなお嬢様の侘しいお心に、いきなりそれは落とされたのだ。
王太子の、心の底から他意なくあふれる、ミルバ、今日もかわいいね、の他愛無い言葉の爆弾が。
王太子が来るたびに屋敷に響き渡るお嬢様の奇声は、もはや屋敷の風物詩だった。
錯乱しすぎて全く会話になってないやり取りにも、王太子は全く動じなかった。あの王太子はコミュ強がすぎる。
王太子が帰ったあと、ベッドで頭から布団をかぶって羞恥に悶絶するお嬢様に、私は毎回大笑いさせてもらっていた。
「笑いなさいよっ! あー馬鹿馬鹿しい! さあっ、笑えば!」
「笑えませんよ、全く」
私が真面目な顔で言い返すと、お嬢様はグウウと喉の奥から怪音を出した。
ついにお嬢様の気高い乙女心は脆くも崩れ、大決壊してしまったのだ。
滝のような涙に、ばっちり塗ったアイメイクも付けまつ毛も、無惨に流れ去って行く。
笑えませんよ全く。ほんとに。目に周り真っ黒にしてタヌキですか。
「最終的にくっつくと思ってたから笑えてたんですよ。そりゃそうでしょうが。ほんとに馬鹿ですねえお嬢様は」
「ばかじゃないもおおんん……。バカじゃないからあ……」
涙の滝の下に鼻水の滝が新設された。淑女としてとても人に見せられない姿だ。
それでも時折我慢しようとフウフウ息をついて、肩を震えさせている。馬鹿ですねえ。
「知らない顔して結婚しちゃえばよかったのに。王太子は浮気もしないし一生優しくしてくれましたよ」
「しっ、知ってるもん。だけどさあっ、でもさあっ」
でも、そうなのだ。
お嬢様をこんなにしておいて、王太子はお嬢様に恋していないのだ。
王太子は学園であったどこにでもいる、ありふれた男爵令嬢に恋してしまったから。
ツンケンするくせに(動揺して恥ずかしいからだ)、王太子のストーカーを日課としていたお嬢様が、それに気づくのは当然ながら当然のことだった。
王太子は男爵令嬢とクラスメイトだったが、不必要な会話は一切しなかった。
ほかのクラスメイトの令嬢とはなごやかに雑談するのだから、これは逆に何かありますと白状するようなものだ。
王太子はちゃんとした人だった。してはいけないことに線引きのできる人だった。
できなかったのはお嬢様で、それはお嬢様がほんとにバカだったからだ。
「王太子、好きな人、諦めてほしくないもん、しょうがない……、から、私はバカじゃないいいい」
「バカですねえ、ほんとバカですねえ」
お嬢様が泣きながら喋るから、よだれまで吹き出して三連の滝になってしまった。絶景かな。
落ちた化粧で黒くなったよくわからない液体が、お高いドレスの上にぼたぼた落ちて、シミを作って行く。
一年がかりで仕立てた職人も泣くだろう。
「ングうう、うううう、フウッ、なんでえ? なんでこんなことになるんだろおおお、ほんとやだあああ」
堪えるのを諦めたお嬢様が、獣のような咆哮を上げて本格的に泣き出した。
軽快に走っていた馬車の勢いがゆっくりになる。御者にもお嬢様の雄叫びが聞こえているのだ。
全くなんではこちらのセリフだ。
屋敷のものは皆、笑ってたんですよ。
王太子が来るたびにお嬢様がアホな奇声を上げているのを、笑って聞いていたのに。微笑ましく。
「いやならやめていいんですよ。婚約破棄」
自分のドレスに黒いシミをつけていたお嬢様が、私の意地悪を聞いて、私の膝に頭突きしてきた。ご自分のではなく、私のドレスに黒いシミをなすりつけることにしたようだ。
「お母様が破棄をお許しにならなかった、って言って、知らん顔で元サヤに戻りなさいな。ね、お嬢様」
本気で言った。王太子なんぞより、男爵令嬢なんぞより、私はお嬢様の方に幸せになってほしかったからだ。
お嬢様はしばらく嗚咽をやめて沈黙していたが、また私のドレスの膝に汚い顔をなすりつけた。
首を横に振って。あーあ、バカだなあ、お嬢様は、本当にもうバカ。
もう徒歩にも負けそうなスピードになっている馬車の中で、呆れた私の膝の上で、お嬢様はまたグウウとまた鳴き声のような謎の怪音を出した。私の膝がまた濡れて行く。
それから小さい声で、バカな私のために泣いてくれてありがとお……と呟いたので、私も御者も根をあげて、ついにグウウと堪えていた怪音を出さざるを得なかったのだ。