表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ヴァレンティーノ王国 狂騒曲

愛人にしてくださいませ、だんなさま。

作者: 天雲斎

 ――心臓は激しく脈打ち、脳が腫れたように痛む。


 年の頃は30といったところか。青みを帯びた艶のある黒髪を一分の隙もなく後ろに流した男は、ティーテーブルの向かいに座る銀髪の少女の言葉に息を飲んだ。


 本来ならば目上の者の言葉を聞き返すなど、あってはならない。けれども、男の耳が、あるいは気が、確かならば、高貴な乙女にあるまじき言葉が今まさに目の前のお方から発せられたのだ。指先の小刻みな震えが伝わり不快な音をたてるティーカップを慎重にソーサーへ戻すと、男は窒息しそうなほど締め付られた喉の奥からなんとか声を絞り出した。


「ご無礼を、承知で、申し上げます。――もう一度、仰って、いただけますか?」


「わたくしを、愛人にしていただきたいのです。だんなさま」


 *****


 それは風もなく、良く晴れた日であった。


 花の月を迎えた王国では、富める者は邸宅の私庭で、そうでないものは無料開放された公立庭園で、貴賤を問わず多くの人々が咲き競う花々の彩りを楽しんでいる。男もまたご多分に漏れず、よくよく手入れの行き届いた自邸の庭で娶ったばかりの妻を迎えてのクリームティーと洒落込んでいた。


 その他大勢と違うところといえば、男は宮廷文官であるが故あって先ごろ公爵家を継いだばかりだということと、まもなく27歳を迎える男の妻がわずか12歳で、なおかつこの国の王女であることだろう。



 男は紅茶のお代わりを側仕えに指示し、自身のカップにはブランデーを少しばかり垂らすよう求めた。


 酒の力を借りて少し落ちついた頭で考える。


 己の妻となったばかりの王女は、わが国の至宝と讃えられるに相応しい美姫だ。プラチナを縒ったような輝く銀髪、白い肌に桃色の頬、深紅の薔薇の花弁のような薄い唇。大きく丸い瞳はエメラルドやサファイアから、ルビーやアメジストまで、その色彩は差し込む光の加減によって魅惑的に変化する。


 やわらかな陽光の下で今が盛りとばかりに咲く花々よりも可憐で、贅を尽くしたどんな宝石よりも煌めく少女は15歳も年上の夫の瞳の色と同じ、青紫色のハイネックワンピースを纏っている。一見するとシンプルなそれはよくみれば総レースで、わずかに透けて見える腕や首もとからは少女から大人の女性へ変わる時期特有の、開花直前の蕾にも似た、儚くも危うげな色香を滲ませた。


 きっちり撫でつけた黒髪に、青紫色の瞳には柔和なやさしいところがあるけれども、「面白みがない」だの「あまり記憶に残らない顔立ち」と言われることの多い男――ヨアヒム・カルパーティと、麗しきディアーナ・ネミ・ヴァレンティーノ王女はまったくの政略的な婚姻である。ヨアヒムの父と兄、つまり前公爵とその嗣子を突然の事故で失った公爵家の後ろ盾に王家を据えることで混乱を最小限に抑えるための。三大公爵家の一つであるものの国家権力からは付かず離れず、自ら商会を立ち上げて独自の人脈を築いていたカルパーティ家と王家を血の縁で結ぶための。


 そのために通常ならば年単位でもうける婚約期間をすっ飛ばして王と神の前で形ばかりの婚姻が結ばれた。

 母体保護の観点から、この国では“夫婦の契り”は15歳以上と定められており、多くの貴族令嬢が15歳前後に社交界デビューを果たす。ディアーナが社交界デビュー前ということもあり、神前での式は挙げたが国内外に向けての華々しい披露パーティは15歳になってからと取り決められ、同じ邸宅に暮らすのもその後と定められた。つまり、今日もディアーナは王宮から公爵家の王都邸(タウンハウス)までやって来たのである。


 若く美しい少女にとって輝かしいはずの未来に待ち受けるのが、兄の側近とはいえほぼ見ず知らずの、はるか年上の、風采が上がらない男と義務的に送る人生だとしたら。お優しく真面目で一途と評判のディアーナだから厭な顔ひとつせずこうして親睦を深める茶会にも夫の色を身につけて訪れているが、もし自分だったらどうか。そこまで思い至って、ヨアヒムはカップを持ち上げると、乾ききった体へ一気に流し込んだ。温かさとほのかなブランデーの香りに動悸も治まり、指先まで血が通う心地がして、肺に溜まった重い空気をふぅ、と吐き出す。



「だんなさまも、ブランデー入りの紅茶を好まれますのね。お兄さまとおんなじだわ」


 うふふ、と花が淡くほころぶような可憐な笑顔と声で夫と兄の共通点を見つけたと喜ぶディアーナの様子を鑑みれば、嫌われてはいないようだ。では何故、と考えたところで、彼女は先ほど()()()()()()()()()()()と言ったのではなかったか、と思い至った。


 愛人をつくれ、ならば白い婚姻か仮面夫婦だろうが、自分が愛人になる、というのは一体どういう意図があるのか。まさかとは思うが、愛人になるよう何者かに脅されて…?いや、代替わりしたばかりとはいえ名門の公爵家と王家を敵に回す輩がいるとは考えにくい。


「その、愛人と申しますと、やはり私めの妻となるのがお嫌と…。いえ、そのお気持ちは至極ごもっともなことでございます。殿下のお気持ちに添えるよう努めますので、ご忌憚のないお言葉をですね、頂戴したく」


 ブランデーがもう回ったか、しどろもどろになりつつ言葉を紡ぐと、ディアーナは神秘的な瞳をさらに丸く見開いてヨアヒムを見つめた後、唇を小さく開けて、あ、と呟いた。


「わたくしったら言葉足らずで。誤解ですわ、かわいいだんなさま。それに、ディアーナとお呼びくださいまし」

「『すみれの花の貴婦人』というオペラは存じておられまして?わたくし先日、昼公演(マチネ)に行ったのですけれど、そのオペラですばらしい知見を得ましたの」


『すみれの花の貴婦人』は、貴族の青年と田舎生まれの少女との悲恋を描いた作品だ。第一幕では貴族の義務や政略結婚した妻との関係に疲れた青年と純朴な少女が出会い、愛するに至るまでを。第二幕では愛にあふれた2人の生活を。第三幕では現実を知った2人が引き裂かれるまでを。管弦楽の調べとともに、繊細で豊かに描いていると王都で話題をさらっている。らしい。


「愛する2人が…身分違いから引き裂かれる…悲恋の物語、でしたでしょうか」


「まぁ、すてき。わたくしの聡明なだんなさまはロマンチストでもいらっしゃるのね」


 聞きかじりの内容を反すうしただけの言葉のどこぞにロマンティックさがあったろうかと内心で首をひねるヨアヒムにディアーナは、にこりと笑みを向けた。


「でも、わたくしは、こう思いましたの。義務を果たさなくてはならない"妻"よりも責任をもたずにすむ"愛人"のほうが、殿方はお側に置かれてお心を開くことができ、癒されるのではないかと」


「えぁ?! ぼく…じゃない、私は殿下お1人だけを妻とし!生涯真に愛し!愛人なぞ囲うつもりのないことは畏れ多くも神の御前にて誓っております!この誓いを違えることは未来永劫ございません!!」


 12歳の少女のものとは思えない発言に思わず飛び出たのは紳士と思えぬ大声で、叫ぶは声がひっくり返るはと散々だが、ここは即答するよりない。この婚姻には自身と公爵家とその領民と商会の従業員や関係者まで、まるっと全ての行く末がかかっているのだ。保身大事。とても大事。


「まぁ、まぁ、嬉しゅうございます。わたくしの愛しいだんなさまは情熱家でもあるのですね。ぜひディアーナとお呼びくださいまし」

「えぇ、わたくしも敵にみすみすつけいる隙を与えたくはございません。ですけれど、だんなさまにもお心の癒やされるひとときがあっても宜しいでしょう?」


 ぽっと朱に染まった頬に手をあてながら喋る姿は実に愛らしいが、敵とは誰のことか。公爵家を狙う有象無象か、それとも王家か。まさかその両方なのか。


「ですから、わたくし考えたのです」


 早口ではないけれど言葉を差し挟む暇を与えない。スピードといいリズムといい声の高さといい、聴衆を惹きつける見事な話術だ。


「わたくし自身が愛人になれば万事総て丸くおさまるのではないかと」



「はぁ?!」


「妻が愛人でもあるならば誰に憚ることがありましょう」


「憚ります憚りますー!貴女さまを愛人扱いしたならば溺愛されている皆々さますべてに憚ります!特に両陛下と姉姫さま方と王太子殿下!それにこの私めも!」


「幸いわたくしはこれから王立学院に通う身です。習得科(マスターコース)は寮生活が規則ですから、王都住まいのだんなさまとはなかなかお会いする機会もございませんでしょう?その間に立派な愛人道を極め、お役に立ってみせましょう」


「いえ妻で!妻になっていただくだけでもう充分でございますです!」


「領民にも商会員にも多大な義務を負うだんなさまですもの、きっとお心にもお体にも無責任な愛という癒しが必要になりますわ」


「私たちにいま正に必要なのは互いをもっと知るための時間と会話では?!」


「えぇ、時間、そうですわね。オペラでも、会いたいけれども会えない、そうしたもどかしさが仮初めの愛をはぐくみ燃えあがらせる必須条件なのですわ」

「『堕落した女』ですとか『薔薇の罪』のような豊満(グラマー)な女性は無理でしょうけれど、『すみれの花の貴婦人』や『桜の園の娘』ならばわたくしにも希望がありましょうから、だんなさまにおかれましては申し訳なく存じますけれど、そうした向きの愛人でご納得くださいましね」


 高級娼婦に有閑マダムに田舎娘に没落貴族の娘、女主人公の身分や立場は違うが、どれもこれも粘着性たっぷりなドロドロの愛憎劇だ。もちろん子供に観せるものではない。


「誰です、貴女さまにそんなオペラばかり観せてきたのは!」


 王宮でごくごく稀に見かけたディアーナは穏やかで温和しい姫だったはずだ。いや、ゆったりした話し方も丁寧な言葉遣いも声もまるで変わっていない。だとするならば――。




 ヨアヒムは、あぁ、と天を仰いだ。婚姻話の折に、彼女の兄で自身の幼なじみでもある王太子殿下はブランデーを飲みながら何事かを言ってはいなかったか。妹をよろしく頼むと。あとは、そうだ。



 ”あれは時々、とても、()()()()()()()()からね”

彼は恐らくこのあと酒量が増えることでしょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ