八
大会三日目だけど僕たちのチームに試合は無かったから、同じ南高校電算部の別のグループが出場する試合を見に朝早くから会場に集まった。制御系プログラミングの競技は地味ながら人気がある。南高校は部員数が少なかったから、フリーキングマッチ以外にはこの競技にしか出場していない。こっちは部長の得意種目だった。
昨晩は考え事をしていて寝つくのが遅かったから、またもや寝坊をしてしまい、少し遅れて会場に到着した。
「先輩遅いですよ。もうはじまっちゃってますって」
応援席には千尋がいた。もしかして今日は来ないかもと心配していたから、千尋の顔を見て僕はひとまず安心した。彼女のは昨日のことを覚えていないかのように、いつもどおり明るく振舞っている。
だからいつも通りに声を掛けた。
「おはよう」
「相変わらず遅いですよ」
今日は駅集合にしなくて正解だった。千尋の隣で応援を始めると、なにか物足りなさを感じてきた。
「あれ? 深田は?」
いつも近くにいるはずの香澄がいない。待ち合わせをしない時には一番早く来る奴だから、会場には来ているはずだ。全員参加の場合はサボったりしない奴だった。
「あそこですよ」
他人の試合に興味が無いのだろう。香澄は会場の隅っこで漫画の雑誌を読んでいた。
「一緒に応援しましょうって誘ったんですけどね」
応援したからって勝てるわけがないと思っているのだろう。人付き合いの悪さが無くなれば、いい奴になれると思う。
南高校の対戦相手はこちらも宿敵である西高校だった。対戦成績は全戦全敗。部長がかなりがんばって準備していたのは知っていたから、最後の試合ぐらい勝たせてあげたかったけれど、やはり西高校にはかなわなかった。それでも試合の内容は悪くなかった。
「惜しかったですね」
「まあ、西高校はこっちの競技に力を入れてるからなあ」
それぞれの高校で得意分野がある。この競技では西高校が毎年上位に入っていた。それでも優勝はやっぱり西岡である。
試合に勝てれば午後も応援だったのだけど、惜しくも負けてしまったから、残りは自由時間になった。明日の西岡戦のために準備をしようと思ったけれど、それは昼食が終わってからにした。
「先輩、何処に行くんですか」
「飯でも食いに行こうかと」
「じゃあ、わたしも」
会場付近にはコンビにも無かったし、出張弁当屋の弁当も、パンの露天販売も今ひとつだったから、駅前まで戻ろうとバスに乗った。香澄は一度家に帰る香澄と駅で別れて、いつものファミリーレストランに向かう途中、僕たちは斉藤聖子に捕まった。
「いや、これはこれは星野直樹。お昼をご馳走させてあげよう」
真横から襲撃された上、がっしりと腕を組まれたらから逃げ場が無かった。
「あのさ、お金ないんだけど」
「じゃあ、貸しにしておいてあげる」
聖子への借金も結構あった。こっちは踏み倒してやろうと考えていたけれど、この場は素直に彼女に従った方が正解だろう。とりあえずこの場も聖子に借りる事にした。
千尋はずっと黙ってついて来ていた。顔は笑っている様に見えないことも無かったが、多分怒っているのだろう。何となく口元が笑っていなかった。お昼時で込んでいたけど、運よくすぐに四人がけのテーブルに案内された。僕の目の前に聖子が陣取り、千尋は僕の隣に座った。
「これ、直樹の彼女?」
注文が終わるとすぐ、聖子は千尋を指差した。
「これ、ですか……」
「違うって、うちの後輩だよ。中学のとき同じ部活にいただろう。忘れたのか?」
聖子はしばらく腕を組んで真剣に考え込んでいたが、思いついたようにうなずいた。
「ああ、いたいた。千春ちゃん」
「千尋です。関根千尋」
やっぱり千尋は機嫌が悪いようで、ドリンクバーで注いで来た最初の一杯をあっという間に飲み干した。名前を間違われれば誰でも腹が立つけれど、聖子は人の名前を覚えるのがとても苦手で、中学のときもよく間違っていたはずだから、今更そんな事で怒るとは思え無かった。
「で、何の用だ」
「あら、昔の彼女を邪険にするもんじゃないわよ」
「誰が彼女だ」
中学時代は確かに一番多くの時間を聖子とすごした。そもそも物心ついた時から彼女はいつも側にいた。幼稚園から中学校まで十二年間ずっと同じクラスという腐れ縁だ。幼馴染ではあったけれど、どちらかというと姉弟のような関係だった。それ以上の感情は今まで一度だって持った事はない。もちろん今も全く無い。
「ところで千春ちゃん」
「千尋です」
「あ、ごめん」
聖子はまったくすまないとは思っていないだろう。次も同じ様に間違えるはずだ。
「あんた直樹のことが好きなんでしょう」
あまりにも真剣な顔をしてそんな話題を振ってきたから、僕は何も言えずそこいら中に疑問符を撒き散らした。
「冗談はやめてくださいよ。星野先輩にはちゃんと彼女がいるんですから」
千尋は少し怒った口調で反論した。しかも即答だった。千尋の頭の中では、郁美と付き合っている事になっているのだろう。でも、そう言い切った彼女の顔は真っ赤だった。
「聞いてくださいよ斉藤先輩。星野先輩ったら、会場裏の東屋で女の人と抱き合っていたんですよ。信じられます? 許せないと思いません? 不潔です」
いや抱き合っていないし。と訂正する余裕さえなかった。
「それほんと。で、相手は誰なの」
興味本位に話を進める聖子はものすごく楽しそうだった。千尋も何かをぶちまけるように興奮していた。
「いや、だから、あれは……」
ここで誤解を解かなければ、明日には会場中にそんな噂が広がってしまうだろう。それは絶対に避けたかった。
「誰だと思います?」
千尋は完璧に暴走していた。もはや人の話を聞いてなんかいなかった。
「よりによって西岡の……」
「三浦郁美!」
「ピンポーン! あたりです。大正解です」
二人の盛り上がりに圧倒されて、会話に入るタイミングがつかめなかった。もはや一緒に居る事さえ忘れさられているようだった。
「あの子、直樹の好きな顔だよね」
僕が北山知佳のファンである事を聖子はよく知っていた。もちろん部屋に張ってあるアイドルの高井由衣も何となく彼女に似ていた。別に外見に惚れたわけでは無いけれど、それを言ってもあまり説得力はなさそうだった。
「そういえば三浦郁美ってさ、昔会ったことあるよね。うんと小さい頃」
突然思い出したかのように、聖子が僕に話しを振ってきた。
「ほら、小学校に上がる前かなあ、やっれぱりこういう大会があったじゃない」
電算大会は高校だけでなく、小学校就学前の園児向けのものも行われていた。自分もその大会に出場し優勝したのは覚えている。
「で、決勝戦で直樹に負けた女の子がいたわけよ。でも名前が思い出せないんだよね。直樹、あんた覚えていない?」
最後に戦ったのが女の子だったかどうか、そんなことも覚えてなかった。他の参加者の名前でさえ全然全く思い出せない。
「私はあの時、彼女に負けたから、顔はよく覚えているんけどね。三浦郁美にちょっと似た感じだったのよ」
僕は聖子がその大会に出ていたことも忘れていた。だから、そのときの女の子の顔もやっぱり思い出せなかった。
「で、付き合ってるの? 三浦郁美と」
「付き合って無いよ」
聖子はいきなり話題を戻した。結局その女の子の話はそこで途切れた。
「ほんとに?」
「何で付き合えるんだよ」
僕は一般人である自分が西岡の生徒と付き合う事が身の程知らずだと知っていた。昨日の夜の事はやっぱり夢だと思いたかった。西岡のお嬢様に告白されたなんで、ある意味恐くて誰にも言える事じゃなかった。
「ふーん。じゃあさ、今はフリーなわけだよね。よかったら一緒に行かない?」
聖子はカバンを開けて映画のチケットを取り出した。それは千尋に誘われたアニメ映画のチケットだった。手渡されたチケットもやっぱりペアチケットだった。
「あ、えーと……」
しばらく黙っていた千尋が立ち上がった。
「私先に帰ります」
自分の分だけ代金をおいて、千尋は逃げるように店を出て行った。
「どうしたのあの子」
「いや、どうしたんだろう」
飛び出した千尋が店の前を通り抜ける。彼女は走りながら泣いてる様にも見えた。
「こう言った場合は、やっぱ追いかけたほうがいいんじゃないかな」
「そう思うか」
聖子はうなずいた。
「映画はどうしようか」
「ごめん。無理だ」
「どうして?」
「先にあいつと約束したから」
「あ、そう」
支払いを彼女に任せて店を出た。既に千尋の姿は無く、どちらに向かったのかさえ分からなかった。仕方が無いので駅に向った。
思ったとおり、千尋は駅前のベンチに座っていた。人目も気にせずにこぼれ落ちる涙を袖で拭きとっているように見えた。
「関根……」
彼女は顔をあげなかった。
「運命なんですね」
千尋の声は震えていた。
「きっと、先輩と三浦さんは最初から出会うって決まってたですよ」
「なんだよそれ」
「幼馴染に再会なんて、そんなフラグたちまくりの展開なんておかしいです。きっと運命何ですよ」
これだから同人系は手におえないのだ。勝手に話を発展させて勘違いも甚だしい。僕は少し腹が立ってきた。
「関係ないって」
あのときの少女が郁美だったとしても、それが何だと言うのだろう。確かに彼女には魅力がある。だからといって……。
「わたし先輩のことが好きなんです」
彼女が突然そう言った。その台詞を二日続けて聞くとは思わなかった。郁美のよりは数倍も現実味がある言葉だった。その言葉で自分の中の怒りが消えた。
「何時でも先輩のことばかり考えているんです。起きていても寝ていても、食事をしてても風呂に入っていても、二十四時間先輩の事ばかり考えているんです。今なにやってるかなとか、誰と逢っているのかなとか。だから先輩もわたしを見てほしい。わたしだけを見てほしいんです。斉藤先輩でも、西岡のあの人でもなく私だけを。そうしてくれないとわたし……」
千尋はそこまで一気にまくし立ててから、ゆっくりと顔をあげた。真っ赤な目からは涙が滴り落ちている。硬く閉ざされた唇はかすかに震えていた。
「先輩を……」
そっと千尋を抱きしめた。
抱きしめながら、どうしてこんな事をしているのか考えていた。告白されたからではないだろう。目の前で一所懸命に訴える千尋がいとおしく思えたからに違いない。
ただそれだけだ。
「先輩?」
彼女の体はとてもやわらかく、とても暖かかった。
「もうあの人のことは忘れてください」
千尋の腕が背中に回り、力いっぱい抱きしめられた。
「絶対に、離しませんから」
その言葉を僕は冷静に聞いていた。
そして郁実のことを考えた。
彼女も同じ事を言うのだろうか。
それほど強く思ってくれるのだろうか。
風力発電のプロペラが回るのを、その日初めて目撃した。