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ペアチケット(2006)  作者: 瑞城弥生
6/11

確かに郁美は美しかった。明るくて気さくだし、何より金持ちだ。如月女学院に入学できるのだから家柄も申し分なければ頭もいいに違いない。何よりも尊敬する北山知佳にそっくりなのだ。

 完璧だった。

 敵う所なんか一つもない。

 だからかえって怖いと感じるほどだった。

 それよりも、彼女のコンピューターに関する技術の方が今の僕には恐怖だった。考えてみるまでもなく絶望的な状況である。だけど次の対戦は、どうしても勝たなければならなかった。ひとつは自分自身の夢のためだ。北山知佳に近づくためには、郁美に勝つことが必要だと決めていた。郁美が北山知佳によく似ているものだから、シチュエーションとしてもばっちりである。勝ち負けがこれからの人生に大きく影響するかどうかは分からなかったけど、これは気持ちの問題だった。

 そしてもうひとつ、西岡に勝たなければいけない理由があった。

 千尋とは中学のころから一緒に大会に出場していたが、彼女は出場することに意義を見出すタイプの娘で、勝ち負けにこだわる事はまったく無かった。勝ったときは手放しで喜んだけど、負けても案外さばさばしていた。そんな千尋が、涙を流してまで勝ちたいといったのだ。彼女のその思いを大切にしたかった。


 二日目。僕たちも電算部の他のチームも特に参加する競技の予定は無かったし、ミーティングは午後からだった。情報管理局に勤めるプログラマーの講演会が在るからできる限り参加するようにと部長から聞いてはいたけど、昨日も夜遅くまでプログラムの調整をしていて眠たかったから遠慮した。さすがに客席でいびきはかけない。

 自由時間である午前中に、僕は郁美を探し出し自分たちが勝てない『理由』を聞こうと

決めていた。その理由さえ分かれば何らかの対策は立てられるはずである。彼女が今日この会場に来ているという保証はなかったけれど、まさか学校を訪ねるわけにも行かなかったし、他に彼女が行きそうな場所もわからなかった。だから会場内で探すしか他に方法は無かったのだ。昨日のうちにメールアドレスを聞いておけばよかったと後悔したが後の祭りだ。

 会場内の部屋を一階からしらみつぶしに当たってみた。途中で行き違いになる可能性は在ったけれど、それしか思いつかなかった。だけどやっぱり郁美には会えなかった。最後の一部屋である三階の一番奥の扉に着いた時、僕は今までの苦労がまったく無駄だったのだと知った。その部屋は応接室だったけれど、その室名札の下に大な紙が貼り付けてあったのだ。


「如月女学院高等部専用控室」


 そういえば共同で使っている選手控室に西岡の生徒が居なかったのを思い出した。確かにこの大会も、如月女学院に関係する団体が沢山お金を出していた。西岡の生徒であるだけでこういった待遇を受けることは珍しいことではない。それに早く気づくべきだったのだ。この部屋に郁美が居るかもしれないと考えると緊張してきた。彼女との会話を頭の中でシミュレートしてみたが、最初にかける言葉が決まらずに、僕はしばらく扉の前で固まっていた。


「何か御用ですか」


 声を掛けてきたのは、昨日の朝、郁美と一緒に歩いていた桐華京子で無い方だった。たぶん二年生の西条直子に違いない。


「あ、えっと……。三浦さんはいらっしゃいますか?」


 想定外のアクシデントに僕の頭はパニックだった。このまま逃げ出してしまいたい衝動に駆られたが、逃走経路は直子が塞いでしまっていて、何か言うしか他に無かった。


「どなたですか?」

「友人です」

「あら、そうなんですか。初耳ですわ、彼女に男性の友人がいたなんて」


 一度話しをしたぐらいで、郁美が僕の事を友人だと思っているはずは無いけれど、この場でいざこざを起こさないためにはそうするのが一番だと考えた。

 少なくとも今、このドアの向こうは如月女学院なのである。僕のような一般人が足を踏み入れていい場所でないことにいまさら気づいて怖くなった。


「いや、あの。やっぱいいです」


 直子がドアのノブに手をかけた瞬間を見計らって、僕は彼女と壁の間のわずかな隙間をすり抜けた。


「彼女なら、裏の公園に居るはずですよ」


 後ろから聞こえてくる直子の声をしっかりと記憶して、僕はそのまま階段を駆け下り、建物を飛び出した。

 裏の公園では、どのベンチでも即席カップルが楽しそうに話をしていた。お互いの制服が違うから、大会会場で見つけたのだろう。気づかない振りをして彼らの前をすり抜けると、大きな池の少し先に小さな東屋が見えてきた。何となく気になってその東屋に足を向けた。外から見た限りでは、誰も使っていないようだった。

 中を覗き込もうと思ったときメールが来た。千尋からである。


『会場裏の公園の東屋にいるよ』


 何処にいるのかと聞かれたのでそう返事を返してから、誰もいないはずの東屋に足を踏み入れた。外からは見え無かったのだけれど、ベンチの上には人が寝転がっていた。タータンチェックのプリーツスカートに白いワイシャツ。深緑のブレザーは枕の代わりに頭の下に丸めてあった。背中を向けているからそれが誰かは分からなかったが、西岡の生徒であることだけは間違いなかった。その時、誰もここを使わない理由が分かった。後々面倒なことになると困るから、起さないように最善の注意を払いながら入口に戻ると、小さな女の子と目が会った。


「瑞希ちゃん?」


 それは昨日の朝、自転車で激突した少女だった。その時は彼女が何故そこに居るのか疑問には思わなかった。


「あ、そうだこれ」


 僕はまずやるべきこと――昨日のうちに洗濯して、アイロンまでかけておいたハンカチを瑞希に返した。血を落とすのは大変だったが、晃子がケーキのお礼だとは手伝ってくれたからきれいになっていた。


「ありがとう、助かったよ」

「あんた顔に似合わずマメなのね」


 瑞希は相変わらず威圧的な口調だったけど、笑っているようだった。


「それと自転車なんだけど。君が直してくれたんだろう」

「あれはサービスよ。こっちも飛び出して悪かったし」

「高かったんじゃないのか」

「そうね。でも気にしなくていいわ」

「けど……」

「別に私が払ったわけじゃないし」


 確かに彼女が払う訳が無い。払ったのは多分彼女の両親だろう。そう考えたら余計に気にはなったけど、瑞希はそれ以上その件について話をするつもりは無いようだった。


「そうだ、ケーキもご馳走さま。妹がよろしくって言ってた」

「そんなことより、何していたの?」


 いつのまにか瑞希は東屋の中をのぞきこんでいた。中に居るのはベンチに横たわる西岡の生徒。考えようによってはどうとも取れる状況だった。


「いや、何も。今来たばかりで、すぐに帰るところなんだよ」


 やましい事はしていない。それに相手は小学生で、変な解釈をするはずは無いのに、何故だか声が上ずっていた。


「あなた郁美を探しているんでしょう」

「まあ、そうだけど」

「あれがそうよ」


 瑞希はベンチで寝ている女子高生を指差した。言われてみれば郁美の後姿によく似ている。その時も郁美の事と、僕が彼女を探している事を、どうして瑞希が知っているのかと言う不可解な出来事に疑問を感じたりしなかった。僕はただ驚いて、横たわる女子高生に近づいた。寝返りうってこっちを向いた彼女の寝顔も思ったとおりに美しかった。

 何かの力に引き寄せられるかのように郁美の顔が近づいてくる。いや、僕の顔が彼女にどんどん迫っていた。彼女の唇が僕の唇と触れそうになったとき、郁美が突然まぶたを開いた。


「どうかしましたか」


 とにかく慌てて飛び退いた。

 その勢いで反対側の壁にぶつかった僕は、そのままベンチに腰をおとした。


「いえ、あの、その」


 あのまま彼女が目を覚まさなかったら何をしたのか想像してみた。惜しい事をしたと思った反面、後のことを考えると怖くなった。実際言い訳の言葉も見つからない。瑞希に助けを求めて振り向いたが、彼女の姿はもう無かった。

 郁美は起き上がって座りなおし、枕にしていたブレザーを羽織って髪を直した。


「私に何か御用ですか」

「あ、うん。実は聞きたいことあるんだ」


 僕はまっすぐ郁美を見たけど、寝起きでまだとろけてしまいそうな瞳に引きずり込まれそうになったから、慌てて彼女から目をそらした。


「何でしょう。誕生日とか血液型ですか。そう言えばメールアドレスもまだ教えていなかったですね。」

「それは知りたいかも……」

「はい」


 郁美はメールアドレス入りの名刺を僕に投げてよこした。それには誕生日と血液型が書いてあった。


「ありがとう。って、そうじゃなくて、昨日言った事覚えてる?」


 郁美は少し考える仕草をしてから小さく頷いた。


「貴方たちが私たちに勝てない理由についてですね」

「そう。それ」

「それを聞いてどうするつもりですか」

「そいつを克服すれば勝てるかなって」


 郁美は笑った。


「理論的にはそうなりますね。でも、私がそれを教えたら、私たちが不利になると思いませんか」


 自分の弱みを敵に教るやつなどいない。僕はそんな基本的な事さえ忘れていた。


「敵に塩を贈るっていうのは?」


 それは確かに有名な言葉だけれど、使い方は間違っていたらしい。それでも郁美はその意図を理解してくれたようだった。


「ほんとうに面白い人ですよね。上杉謙信は結構好きなんですよ。いいでしょう、あなただけにそっと教えてあげます」


 郁美はベンチを立って近づいた。目の前でかがんだ彼女の顔との距離は、二十センチも離れていない。


「でもそれが、論理的な理由でなかったとしたら、あなた、どうします」


 彼女はゆっくりと顔を近づけた。息がかかるほど接近した状態はある意味拷問だ。握った手のひらが汗ばんでくる。昨日と同じシャンプーの香りがした。


「その理由はですね……」


 両肩に郁美の両手が乗せられた。彼女の口が僕の左の耳元に迫ってくる。


「実は私が北山郁美だからです」


 僕はその時、視線の先に千尋を見つけた。彼女の位置から見れば、郁美と抱き合っているように見えるだろう。


「千尋」


 そのときは何故だか、千尋の誤解を解くことしか考えていなかった。郁美の言葉はもうどこかに消えていた。


「ごめん。話はまたこんど」


 郁美を押し戻して立ち上がり、千尋を追って走り出した。思ったより足が速くて追いつくことは出来なかった。バス停のベンチ前まで来てやっと千尋を捕まえた。苦しめそうに息を吐いて立っている千尋の腕をつかんだとき、彼女はやっぱり泣いていた。


「関根?」


 こんなときどんな言葉を掛ければ良いのか分からなかった。第一どうして千尋が泣いているのか分からなかった。さっきの相手が郁美だと、千尋は気づいているはずだ。対戦相手と個人的に仲良くしていたのが気に入らないのだろうか。ちょっとだけやばい気持ちになったけれど、今回は試合に勝つための情報収集が目的だから、まずは誤解を解くべきだと考えた。


「さっきのはだな」

「そりゃ、北山さんは綺麗だし、明るくて気さくだし、多分金持ちだし、西岡に行くんだから家柄も、頭もいいですよね」

「そうじゃなくて」

「いいんです、無理しなくても」

「ちょっと待てよ」


 何か言おうと口を開くたび、その言葉はことごとく千尋に遮られた。何を言っても彼女の涙を留めることはできなかった。


「本当に、お似合いですよ」


 完璧に誤解した千尋はそういい残して走りだした。捕まえようと手を伸ばしたが、千尋の腕を掴み損なってよろめいた。追いかけようと再び立ち上がった時、既に彼女の姿は見えなかった。

 東屋に居るとメールしたから、千尋が来たのは仕方が無い。だけどあんなところを見られるとは思わなかった。それでも誤解しているのは確かだから、とにかく千尋を捕まえて説明しようと何度も電話をしたけど、彼女は一度も電話に出てはくれなかった。

 仕方ないからそのままベンチに座って何気なく駅方面へ向かう道路を眺めていた。この施設はそれほど利用客が居ないからバスも一時間に一本しか通らないし、抜け道ではなく行き止まりになっているから車もほとんど通らない。時々風に揺られる樹木と空に浮かぶ雲だけが観察する対象だった。

 しばらく風にそよぐ木々の姿を見ていたら、木の間から見覚えのある少女が現れた。瑞希はゆっくり僕の方へ歩いてきて、何も言わず隣にすわった。


「何かあったの?」

「いや、別に」

「女の子を泣かしちゃダメじゃない」

「見てたのかよ」


 バスが目の前でとまった。それには誰も乗ってなかった。


「おまえ三浦さんと知り合いなのか」

「知らないよ、あんな娘」


 東屋で会った時、郁美の名前を言っていたから、てっきり知っていると思ったのに、本人は即効でそれを否定した。


「でも、名前を知っていたじゃないか」


 瑞希は覚えが無いとでも言いたげに小さく首を傾げていた。


「そうだっけ? でも、わたしはみんなの名前を知っているから」

「それってどういうことなんだ」

「たとえば星野直樹さん」


 僕はまだ彼女に名乗った覚えは無かった。でも名前ぐらいなら幾らでも調べる方法は存在する。

「誕生日も知っているよ。もちろん血液型だって分かるんだよね」

 そういえば彼女は、僕の自転車を家まで届けてくれた。ついでに持ってきてくれたケーキも数もちゃんと人数分そろっていた。

 とても人間業とは思えなかった。

 そもそも自転車と激突して怪我一つしていないのだから、人間ではないのだろう。


「お前、何者なんだ」

「それはナイショ」


 彼女はそう言って椅子から飛び降りた。


「もう女の子を泣かすんじゃないよ」


 小さく敬礼をして、瑞希は目の前のバスに乗り込んだ。ほぼ同時に扉が閉まり、バスは駅に向かって走っていった。一体何をしに来たのだろう。


「吉野瑞希」


 彼女の名前をもう一度繰り返したとき、吉野愛里という人物を思い出した。北山知佳と同じく国の基幹システムを設計したプログラマーの一人である。顔も何処となく似ている気がした。


「まさかな」


 午後から予定していたミーティングに出席するため、次のバスが来るのを待った。別にやることも無いんだから瑞希と同じバスで駅に向かえばよかったのに、千尋が次のバスに乗るためやってくることに少しばかりの期待をしていた。千尋が現れなかったのは、バス停に僕が居るからかもしれないと思ったから、次に来たバスに乗り込んだ。そのバスには講演会に参加していた電算部のメンバーも乗り込んできたから、瑞希のことも千尋の事もしばらく考える暇が無くなった。


 ミーティングはあらかじめ借りてある会議室で行なうことになっていた。部長から部室に残っている人を呼んでくるように言われたので、一人で電算部の部室へ向かった。

 もしかしたら千尋が戻ってきているかもしれないと期待して扉を開けたが、部室には香澄しかいなかった。彼女の事だから午前中も会場に行かないで部室にこもっていたのだろう。香澄はスクリーンセーバーを眺めていた。彼女は何かをしているのではなく、ただ黙ってそれを見ていた。


「よ!」


 部屋に入っても気づいてくれなかったから、香澄の隣に座って手を振った。


「ミーティングはじめるって」

「あ、うん。昨日ごめん。お金大丈夫だった」

「三浦さんがご馳走してくれたんで助かったよ」

「そう、それはよかった。それであの人、何か言ってた?」


 郁美と香澄の間には複雑な関係があるようだと思えたから、あの場で昔話は聞けなかった。香澄の過去には興味があったけど、昨日はそれどころではなかったし、今も実際自分の事、と言うか千尋の事で手一杯だった。


「いや、べつになにも」


 実際、郁美は何も言わなかった。ほとんどがコンピューターの話だったし、どちらかというと郁美は香澄のことなんか完全に忘れていたように思えた。


「わたしあの人にこれを教わったの」


 香澄がモニターを軽く叩くと、その振動でスクリーンセーバーが解除され、千尋好みの壁紙が現れた。例のアニメのキャラクターがモビルスーツの前で笑っている。


「あの人のことは嫌いじゃないんだ。でも一緒にいるととてもつらいの」


 香澄が自分のこと話してくれたのはこれで二度目である。彼女は他人に関心が無いようだったし、自分の事を聞かれるのを極端に嫌がった。彼女はいつも一人でいた。教室で友達と話しているのを見たことも無い。


「無理なんだってさ」


 僕は郁美に言われた言葉を香澄に聞かせた。彼女ならその理由を分かると思った。


「なにが?」

「西岡に勝てない理由を知っているんだろう」


 いたずらにキーボードを叩いていた香澄の人差し指が動きを止めた。僕は彼女を責めているような自分の声に驚いて、言い直した。


「いや、知っていたら、教えてくれないか」

「彼女は特別だから」

「なんだよ、その特別って」


 香澄はその問いに答えずに、自分が使っているのと別のマシンの電源を入れた。冷却用ファンが唸り始め、ハードデスクの回転音とともにバイオスが起動する。OSの読み込みを始めてすぐに、香純がものすごい速さでキーボードを叩きはじめた。ドライバーの読み込みがスキップされ、サブシステムモードと書かれた画面が現れた。

 このマシンにはストロベリーシロップというOSが組み込まれている。あるアマチュアプログラマーがほとんど一人で作り上げ、ネットの有志らにより改良が加えられこたものである。市場のほとんどを独占しているトーカ製のパソコンでも問題なく稼動する汎用性と、フリーという経済性のおかげで人気があった。トーカでも公式なOSと認めていたから、当然学校の授業で使うパソコンにも搭載されている。

 僕はプログラミングを覚える課程で、このOSについてはかなり詳しく勉強したつもりだった。でもサブシステムモードがあることは知らなかった。そんな話はどんなマニアックな掲示板に書かれたことは無い。


「何だよこれ」

「いわゆる裏メニューよ」


 画面にはいくつか見なれないメニューが並んでいた。香澄はその一番下にあるスタッフと書かれた項目を選択した。

 画面の中央に現れた文字を見た瞬間、東屋で聞いた郁美の言葉を思い出し、そしての意味を理解した。


『オリジナル・プログラマー 北山郁美』


 そこには英語でそう書いてあった。

 このOSが初めて世に出たのは今から三年前の桜の咲く季節だった。その時の事はよく覚えている。しかし開発者はあくまでも「名無し」を通していた。だから余計に格好よかった。これが真実だとしたら、その開発者は当時まだ現役の中学生だったのだ。しかも一年生である。とても信じられない事だった。

 これでは勝てるはずが無い。

 驚きと共に絶望感が襲ってきた。

 電算大会で使われているOSはすべてストロベリーシロップだった。大会の関係者でさえ、この事実を知らないだろう。


「これは……」

「ばれたら大変よね。でもこのコマンドを知っている人は世界でも十人だけ。この部分のソースは暗号化されているし、誰も解読しようなんて考えないどうでもいいモジュールに組み込んであるから、その十人以外の人が見つけることは不可能よ」


 何百万本も市場に出まわっているこのOSに対して、十人というのはあまりにも少ない数字だった。しかもその一人が目の前にいる香澄なのだ。


「でもね、私の知らないモジュールもこの中には沢山あるの。だから彼女には絶対に勝てないんだ。

この中は彼女の庭も同然だから」

 郁美は他人が知らないOSの内側を熟知している。その上で走るプログラムの最適な動かし方も解かっているのだろう。そしてその弱点も。

 彼女はやっぱり天才なのだ。

 天才には敵わないと確信した。

 でもただ一つ疑問が浮かんだ。


「なあ、どうしてあの人は北山でなく三浦なんだ」


 香純は何事も無かったよにサブシステムメニューを閉じリブートをかけた。


「北山は旧姓だとおもうよ。理由までは分からないけど、中学入学前に苗字を変えたって誰かから聞いの」


 誰も知らないようなところに古い名前を刻んで置くと言う事は、それが彼女に取って重要な意味を持つことに他ならない。北山郁美。それが彼女の本当の名前だとしたら。


「まさか!」


 北山知佳には一人娘が居るはずだった。年齢は僕の一つした。普通に進学していれば高校一年生のはずである。


「そうだよ。あの人はあんたの大好きな北山知佳の一人娘だよ」


 最初に感じた印象はやはり間違いではなかった。若い頃の北山知佳にそっくりなのは当然のことだった。


「ミーティンク始まるんじゃないの」

「ああ、そうだった」


 香澄が電源を落とすのを待って、彼女と一緒に部室を出た。


「関根来てたか?」

「見てないけど……。一緒じゃないの?」

「うん。そっか、じゃあ今日は来ないかもな」

「何かあったの」


 何かがあったのは事実だけれど、香純に話してよいものか悩んでしまった。単なる痴話げんかと思われるのも癪だったし、郁美と東屋で話した事も香澄に言うべきでは無い気がしていた。


「いや、別に。ちょっとな」

「喧嘩とかしないでよ。勝てるものも勝てなくなるから」


 そのときの香澄の言葉が、妙に僕の心に引っかかった。


「なあ、俺たち勝てるのか」


 香澄は黙っていた。


「どうなんだよ、深田」


 僕はまた彼女を責めていた。

 郁美と互角に争えるとしたら南高校には香純しかいない。香澄が勝てると言ってくれれば、その可能性はゼロでは無いと信じることが出来そうだった。


「勝てると思っていなければ、そう信じていなければ、勝つことなんて出来ないんじゃないかな。私はそう思うけど」


 郁美に負けはありえない。その理由は理解できた。そしてその理由に対する対抗策は、何一つ無いように思えた。


「思っただけじゃ勝てないだろう」

「そんなこと無いんじゃない。大切なのは努力と根性よ」

「ふざけんな」


 その時僕は大きな声を出していた。香澄はそれでもまったく驚いたりしなかった。


「ごめんだめん。でもそんなに難しく考えないで良いと思うんだ。本当は私だって……」

「え?」

「いや。勝ち負けより重要なことがあるんじゃないかと思ってさ」


 突然香澄が立ち止まった。そこには会議室の扉があった。


「早く仲直りしたほうがいいとおもう」


 そう言って香澄は会議室に入っていった。遅いと言う罵声が飛んでくる。二人っきりでで何してたんだとからかう声がする。

 千尋はやっぱり来ていなかった。

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