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ペアチケット(2006)  作者: 瑞城弥生
5/11

 今日の予定は二回戦までだった。準決勝は三日後の最終日に予定されている。西岡の試合は同じ時間に行なわれていたから見ることは出来なかったけど、ほかの試合は観戦できた。仮に西岡に勝ったとしたら、次に当たるのは商業高校だろう。去年の準優勝校は、今年も絶好調のようだった。

 すべてのプログラムが終了してその日は解散になった。帰りのバスを降りてすぐ、千尋が打ち上げをしようと言い出した。


「打ち上げか、それもいいな」

「駅前のファミレスなんかどうでしょう」


 千尋の初勝利と、初戦突破を祝うのだから、反対する理由はひとつも無い。場所にも依存は無かったけど、僕には重大な問題が残っていた。


「ごめん香純。お金貸して」

「またかい。別にいいけど」


 千尋には気付かれないようそっと香澄に無心した。結局香澄に頼るしかないのは情けないことでは在ったけど、彼女はいつもどおり二つ返事で受けてくれたし、僕もすでに罪悪感なんか無いようなものだった。でもその時なぜか借金の総額が幾らになるのか気になった。


「結局いくら借りているんだっけ」

「コンピューター一台くらいかな」


 パソコン程度なら、一セットでも二ヶ月びっちりバイトすれば返せない金額じゃない。その程度なら心配ないと安心した。


「なんだ、そんな程度だっけ」


 僕がそう言ったので、香澄は驚いた顔をした。


「いやだな。学校の電算室にあるようなものだよ」


 香澄はにこりと笑ったけど、僕は青ざめた。電算室にあるコンピューターは、オフィス専用の汎用機と言われるやつだ。学校のは補助用のマシンだったから、それほど性能が高いわけではなかったけど、オプションなしの軽自動車が一台買えるほどの金額だと言うことぐらい僕でも知っている。どうやら簡単に返せる額ではないらしい。


 駅前広場に面する五階建てビルの一階にあるファミリーレストランはステーキ料理がメインだけれど、安い割にサービスが良くドリンクバーも魅力的だから高校生が良く利用する店だった。いつもなら空いている時間なのに、大会に参加した高校生たちが押しかけたため珍しく満席に近い状態だった。


「相席をお願いするかもしれませんが……」


 接客に出た従業員のお姉さんは、少し困った顔をしながらも、一箇所だけ空いていた八人がけに案内してくれた。そのお姉さんは先月入ったばかりの新人で、まだ接客さえぎこちなかったが、天然ぽいしぐさが人気で、彼女目当てに足しげく通うクラスメイトが何人か居るほどだった。

 他の席が先に空いたり、後から来る客の方が嫌がったりして相席になる事はめったに無いと思っていたから、僕らはそれに了解してテーブルについた。

 先ずは乾杯である。

 お代わり自由のドリンクバーを三人前だけ注文する。こういうとき飲み放題はありがたい。店の中は冷房が効いていたけれど、外から入ってきたばかりだったので、三人ともコールドのドリンクを注いで来た。


「では、初戦突破と関根千尋のデビュー戦初勝利を祝して――」

「かんぱーい!」


 のどを通り抜ける炭酸が心地よかった。


「ぷふぁー」


 オレンジジュースを一気に飲み干した千尋を見て、ビアホールのサラリーマンを思い出した。実際にビアホールに言ったことは無いけれど、テレビで宣伝しているような思いっきりのいいのみっぷりだった。


「まるでおやじだな」

「いいじゃないですか、お祝いですから。無礼講、無礼講」


 そんな台詞をはいている千尋がますます親父臭く見えてくる。むしろドラマに出てくる酔っ払いによく似ていた。香澄はと言えば、ストローを使って上品にアイスコーヒーを飲んでいる。並べてみると面白いほど違って見えた。


「関根さ、おまえ現役の女子高生には見えないぞ」

「それは悪かったですね。ではパフェでも頂きましょうか」


 千尋はわざと英語っぽく発音してから、机の角に立てかけてあるデザート用のメニューを広げた。


「なんで?」

「現役女子高生みたいでしょ」


 その発想がオヤジなんだとがさらに突っ込みを入れたけど、千尋は思った以上に種類の多いパフェを選ぶのに熱中していて、今度は聞ていなかった。

 結局、千尋は三十一種類あるメニューの中から、一番ボリュームのありそうなビックチョコレートパフェを注文した。そのパフェは、普通よりかなり大きなガラスの器にカラフルな果物なんかが溢れんばかりに詰め込まれていて、その上にチョコの掛かったアイスクリームとホイップクリームとさくらんぼが乗っている。真っ赤なさくらんぼはこういったデザートには付き物だった。


「おいしそう」

「食べますか? はい、あ~んして」


 千尋は悪乗りして、パフェの一番上に乗っているアイスクリームをスプーンですくうと香純の口まで運んでいった。


「いや、いい」


 香純に断られたスプーンが僕の元にシフトしてきた。


「では、星野先輩。あーん」

「いらねえって」

「そうですか……」


 仕方なくそのアイスクリームは本来収まるべき千尋の口に入っていった。甘いものは嫌いじゃないけど、食べさせてもらうのは恥ずかしかった。


「おいしいのに」


 大げさなリアクションを交えながら、千尋は一人でパフェを食べつづけた。かなりボリュームが在ったから、食べ終わるまで時間がかかりそうだった。僕はその合間を見計らって大会のパンフレットを取り出した。香澄もいつのまにか文庫本を広げている。

 次の対戦相手は西岡だ。大会の公式パンフレットには出場者の写真は載っていない。これで分かるのは出場者の学年と名前だけだった。攻撃担当が二年生の西条直子。防御担当はまだ一年生の三浦郁美。そしてメインマシンを担当するのが桐華京子(三年)だ。今朝駅前で会った三人組は彼女たちに違いないと確信した。しかしどの名前にも心当たりが全然無い。挨拶をしてきたのは一年生のタイをしていた。


「三浦郁美ね」


 口に出してみたがやっぱり思い出せなかった。彼女がどうして挨拶をしたのかも結局分からずじまいである。


「次は強敵ですね」


 いつの間にかパフェを食べ終えた千尋がパンフレットを覗き込んでいた。くちのまわりにチョコレートがついているのを発見した僕は、殴られないように注意しながら、そのことを彼女に告げた。

 試合は見ていないけれど、その結果は今回競技に参加していない別の部員に教えてもらった。連勝中の西岡は二回戦で北栄高校に余裕で勝利したようだった。報告によれば、西岡はしばらく相手に攻撃させておいてから、一気に反撃してあっという間に制圧してしまったらしい。試合時間は十分ほどかかったていたが、西岡は三分ほどしか攻撃をしておらず、圧倒的な力の差を見せ付けられた北栄高校の選手たちは試合後に、ただ笑って居るだけだったそうである。


「勝てるかな」


 実際に戦うところを見ていないのに、その話を聞いて少し弱気になってしまった。


「何弱気になっているんですか」


 それを聞いた千尋が、怒ったような口調で迫ってくる。


「いや、そういうわけじゃ……」

「大丈夫ですよ。西岡なんか私がちゃっちゃょとやつけちゃいますから」


 千尋はそういって胸をたたいた。今日は初試合ながらかなりいい感じに勝てたから、調子に乗っているようである。西岡と対戦しても、そう言ってられるのか疑問だったが、その言葉はうれしかった。

 多少弱気にはなったけど、優勝したいと言う気持ちはまだしっかりと残っている。


「この人って、あの三浦さんでしょう。天才少女プログラマーとか言われてたよね」


 西岡の名簿にある郁美の名前を千尋が指差した。

 そう言われてやっとその事を思い出した。北山知佳の事しか考えていない僕には、彼女の名前は全く意味のあるものではなかったから、すっかり記憶の片隅に追いやられていたようである。郁美は中学二年の時にプログラミングコンテストや電算大会を総なめにした天才だ。彼女と対戦したことは一度も無かったけれど、その実力は相当なものであるとは聞いていた。


「こんな人が出ているんだったら、勝てないですね」


 千尋はさっきとまったく反対のことをさらっと言ってのけた。やっぱり彼女には試合の勝敗はどうでもいいことなのだろう。

 郁美の腕は世間的に認められていたけれど、如月女学院の情報教育も世界一と言われているのだから、他の二人も相当強いに違いない。


「飲み物もらってくる」


 香純は二人の話を聞いていなかったかのように、パタンと文庫本を閉じて、飲み物を注ぐために席を離れた。僕は千尋と二人で広いテーブルに残された。こういう状況は、中学三年の夏休みに斉藤聖子と駅前の喫茶店に入って以来だった。部室でなら千尋と二人きりになる事はよくあったけど、今まで彼女を異性と思ったことはなかった。むしろ同姓の後輩のような気で接していた。それなのに今日はどういうわけか緊張してきた。映画のチケットと弁当の事だけでも、千尋の行動は今までには無いパターンである。千尋も何となく伏目がちで、やけに緊張してそわそわしていた。


「あ、あのですね」

「何?」


 どもりながら話し始める千尋に対して、なるべく平常心でいつも通りの対応を心がけたが、相手に伝わるほど緊張してるのが自分でもよく分かった。でも、千尋も同じく緊張してたから、僕の方まで気づいてはいないようだった。


「一度聞こうと思っていたんですけど、星野先輩って、深田先輩と付き合っているんですよね」

「はい?」


 その質問には正直驚いた。確かに香澄には金銭的に過剰なほど頼っているけれど、恋人とかそういう関係とは無縁である。香純のプライベートデータ―で知っているのは携帯電話の番号とメールアドレスだけだった。知り合って一年半になるけれど、部室でさえろくに話はしなかったし、学校の外では見かけても声をかける事は無かった。美人でスタイルもいいし、独特の性格は案外人気があったけれど、僕は彼女をそういう風に見たことは一度も無い。彼女も多分そうだろう。


「いや、ぜんぜん違うけど」

「本当ですか」

「うん。でも、どうして」

「いいえ、別に」


 千尋の瞳が一瞬うれしそうに輝いたが、すぐに目を伏せてしばらく黙っていた。なんだか押しつぶされそうな雰囲気に包まれた僕が、我慢できずに口を開きかけたとき、千尋が突然顔を上げた。


「先輩! 実は、わたし……」


 かなりの勇気を持って言いかけた千尋の言葉は、突然乱入してきたウェイトレスに遮ぎられた。


「すいません。相席お願いできますか」


 さっきのお姉さんだった。このタイミングで入ってくるあたり、やっぱり天然系に違いなかった。すでに夕食の時間帯になっている。レジ前で席が空くのを待っている家族連れの姿が見えた。平日でもこの店は結構客の入りがいいのだけれど、今日はいつになく見慣れない制服の高校生が多いのに戸惑っているようだった。


「いいですよ」


 あらかじめそう言う約束だったから、その申し出は快く受け入れた。そんなに長居するつもりも無かったし、ドリンクバーだけで粘っていたから少しだけ罪悪感を感じて居たのも事実である。


「いいよね」

「え? はい。よろ、いいんじゃないでしょうか」


 香澄はまだ戻ってきていないけど、一応千尋には了解を取っておいた。千尋は何故だかひどく動揺していて、受け答えがちぐはぐになっていた。


「ありがとうございます」


 ウェイトレスは頭を下げると戻っていった。僕は座る位置を少し奥に移してから、気を取り直して千尋との会話を再開した。


「で、なんだっけ?」

「もういいです」

「いやでも……」

「もういいんですってば!」


 千尋は怒ったように顔をそむけた。千尋が怒っている理由は分からなかったし、こういうときどういう対応をすべきかも知らなかったので、僕も黙ってジュースの残りを飲み干した。


「こちらで、お願いします」


 沈黙が苦しくなってきた時に、タイミングよくウェートレスが現れた。彼女がつれてきた客は、タータンチェックのプリーツスカートと深緑のブレザーを身にまとった女子高生で、今朝駅前で出会った三人組のうちの二人だった。タイの色から判断すれば、三浦郁美と、桐華京子の二人だろう。


「ちょっとあなた」


 二人のうち背の高い方――桐華京子が、戻ろうとしたウェイトレスの襟首を掴んで引き戻した。


「あんたね、こんなにダサいカップルと相席させるわけ?」

「すいません、混んでいますので……」

「わたしは嫌よ。別の場所に替えなさい。他の席に空きが無いならこの人たちには帰ってもらって」


 天然系のお姉さんにはその脅しはあまり効いていないようだったが、傍で聞いていた僕には少し怖いくらいだった。


「何よそれ」


 千尋は逆にその言葉にカチンと来たのだろう。身を乗り出して抗議をした。京子はウェイトレスを突き飛ばしてから千尋のほうへ振り向くと、鋭い目で睨み付けた。近くで見る京子の背の高さには圧倒された。


「あら、本当のことを言っただけよ。それとも何かしら、まさかそんな格好で、自分たちがイケテルなんて思っている訳じゃないでしょうね」


 如月女学院の生徒は他の学校の生徒に対して高圧的な態度を取ることが多い。彼女たちは自分たちが選ばれた人間だと信じていた。でも実際そうなのだから仕方がない。彼女たちは確かに優秀で、それ以上に権力を持っていた。だから誰もそれを咎める事など出来なかった。


「あなたたち、まさか高校生?」

「そうですけど、なにか」

「てっきり中学生かと思ったわ」


 確かに千尋は童顔でよく中学生に間違えられた。でもそれは彼女にとって禁句だった。


「何かむかつく。いやなら他に行けば」

「関根。言い過ぎだって」


 西岡の生徒とけんかは絶対しないこと。それは暗黙のルールだった。千尋の行動は無謀以外の何物でもなかった。後が怖かったので、何とか千尋をなだめようと声をかけたが、千尋には聞こえていない様だった。


「私たちが誰だか知っていて、そんな事言っているのかしら。そっちがどきなさい。さもないとなあなた、明日からこの町では生きていけない事になるわよ」


 相手もちろん負けてはいない。むしろ勢いさえついていた。彼女たちを連れてきたウェイトレスは、面倒になることを恐れてさっさとどこかに消えていた。他の客は興味深げに成り行きを見守っている。

 千尋はまったく引こうとしなかった。手が出るのも時間の問題だろう。そうなっては大変だ。僕が千尋を止めるために立ち上がった時には、千尋は腕を振り上げていた。

 千尋の平手打ちは見事だった。スナップも利いていたし、繰り出すタイミングも申し分なかった。普段なら、そのまま相手の頬に当たって大きな音を立てるはずだった。

 だけどその手は、難なく相手に止められた。

 相手の反撃が無かったのはラッキーだった。京子は左腕で千尋の平手打ちから身を守っていたが、しっかりと握られた右の拳は千尋の目の前に伸びていた。西岡では護身術として本格的な格闘技を取り入れていると聞いたことがあったけれど、実際に目にしたのは初めてだった。しかしその彼女の腕も、もう一人――三浦郁美に止められて、千尋の顔には届かなかった。


「京子さん。ここではまずいですよ」

「先に手を出したのはこいつだぞ」

「いいからやめてください。私はここで構いませんから」


 京子の腕から力が抜けた。千尋も郁美に促されて手を引っ込めると、静かに腰をおろした。千尋の悔しそうな表情を僕は今日、はじめてみた。


「ごめんなさいね」


 郁美は京子を千尋の隣りに押し込んでから、その向かいに腰をおろした。近くで見て初めて、彼女を見たことがあるような気になった理由がわかった。郁美は僕が憧れている北山知佳によく似ていた。部室で見つけた知佳の高校時代の写真にそっくりだった。郁美が隣に座ったものだから、僕は北山知佳といるような気がして緊張した。


「お詫びに何かご馳走しますね。お夕飯はまだでしょう」


 郁美はテーブルの端に置いてあった伝票を開いて、既に注文されたものを確認した。ドリンクバーが三つにチョコレートパフェがひとつ。誰が見ても夕食の注文はしていないと明らかだった。


「あら、もう一人いらっしゃるんですね」


 伝票には注文した人数が書いてある。郁美はそれを見て判断したのだろう。


「あ、はい。今ドリンクを取りに行ってるんですよ」

「そうですか。では、どうぞお好きなものを頼んでください」


 ウェートレスに持ってこさせたメニューを開いて二人の前に差し出した。


「結構です」


 それを千尋は郁美につき返した。さっきから全くテンションが下がらない。それどころかますます攻撃的になっていた。如月女学院の生徒は金持ちのご令嬢ばかりだから、他人の食事代を払うぐらいどうって事はないのだろうけれど、千尋にとってはそう言うのが許せないに違いない。


「ご馳走になる理由が無いし」

「あら、お詫びだって言ったでしょう。京子さんにも悪気は無いんですよ。ここは一つ水に流してほしいと思いまして。それに、別の理由もあるんですよ」


 郁美は千尋の勢いにも怯んだりしなかった。


「硬い事言わずに食事くらい付き合ってくださいな。大勢で食べた方が絶対においしいですから。い

いでしょう、星野直樹さん」


 突然フルネームで呼ばれたから驚いた。郁美は千尋と話をしているたから、僕はメニューを見ていて、二人の会話を聞いてなどいなかった。


「どうして名前を知っているんです」


 まだ自己紹介はしていないはずだった。でも大会参加者であれば公式パンフを見てそのくらいは推測できる。僕だって、京子と郁美の名前を知っていた。

 それとも以前どこかで会っただろうか。千尋が話したと言う選択肢は無かった。


「さて、どうしてでしょうか?」


 彼女は意地悪くそう言ってから、窓の外に視線移した。

 外はもう暗い。

 丸い月が夜空に綺麗に光っていた。


「郁美さん?」


 何時の間にか香純が飲み物を注いで戻ってきた。鏡のような窓ガラスに映った香澄は何故だか震えているようだった。


「久しぶりですね、香純さん」


 名前を呼ばれた郁美は、楽しそうに香澄の方を振り向いた。


「どうして、あなたが、ここに?」


 香純は一つずつ言葉を区切った。彼女には珍しく動揺していた。


「お食事に来たんですけど、相席になってしまいまいました。折角ですからご一緒に召し上がりませんか? 香純さん」


 二人がどう言う関係なのか僕はとても気になっていた。優しく声を掛けている郁美に対して、香純は一方的に恐れていた。それより、香澄が三浦郁美の知り合いだった事の方が衝撃だった。そんな話を今まで一度も聞いたことが無かった。


「い、いいえ、わたしは帰ります」


 持っていたドリンクを乱暴に置いて、香純はすぐに店を出て行った。僕らに何も言わずに出て行ったことも意外だった。


「なによ、あの子」


 香純の行動は明らかにおかしかった。あれほど取乱した彼女を見たのは初めてだ。彼女の心を乱しているのが、隣に座っている知佳似の美少女だと言うことは分かる。


「久しぶりに会えたというのに、香純さんたらなに恥ずかしがっているのかしらね」


 郁美がけらけらと笑った。隣にいる北山知佳のそっくりさんは、準決勝の対戦相手であり、一年生にして防御のポジションを獲得した天才である。


「香純と知り合いなんですか」

「同じ中学だったのよ。ほら」


 郁美は窓の外を指差した。


「あそこに見えるやつ」


 道路を挟んだ向かい側に、三階建ての小さな学校が建っていた。職員室と思われる部屋と、部活が行われている体育館だけに辛うじて明かりが灯っている。

 如月女学院は保育園から大学院までそろっていて、そこで純粋培養されるものだと聞いていた。だから郁美が区立の中学校を出ているのことが不思議だった。

 香澄は中学時代のことをまったくといっていいほど話さなかったけれど、彼女にコンピューターをはじめるきっかけを与えた後輩というのは郁美の事に違いないと確信した。


「あなたたち次の対戦相手よね。南高校の関根千尋と星野直樹でしょう。まあ、がっかりさせ無い程度にがんばってね」


 京子がぶっきらぼうにそう言った。


「この方は桐華京子さん。三年生よ」

「あ、名前は覚えなくていいから」


 桐華京子はコンピューター機器の市場を独占しているトーカ情報産業機械と言う大企業のご令嬢で、将来は社長になるらしい。学校のマシンも自宅で使っているマシンもトーカ製だからトーカのマシンは嫌いじゃない。それだけに次期社長となる京子があまりにも高飛車なのは残念だった。


「どうして分かったんですか」


 その疑問に答えたのは郁美だった。


「香純さんが南高校に行ったことは知っていましたし、今日は大会初日でしょう。それににおいがするですよ」

「におい?」

「そうプログラマでしょ、あなたたち。それもかなりの腕だと思いましたけど」


 においというのはたぶん比喩だろう。そんなものでプログラマーかどうかなんて分かるのだろうか。それでも、郁美に腕を評価されたことはうれしかった。


「まさか、ニュータイプ?」

「んなわけないやろ」


 彼女のボケは西岡の二人には通じなかったようである。仕方ないのでそのボケに突っこみを入れてやったが、本当はボケなんかではなく、マジで言っているかも知れないと、突っ込んでから考えた。


「お似合いですね。お二人はお付き合いしているんですか」


 千尋とのやり取りを見ていた郁美が、突然そんなことを言い出した。


「そ、そんなんじゃありません」


 とっさに否定してから、千尋は慌てて目を伏せた。僕は逆にあきれてしまった。男と女が居るだけで、すぐくっつけて考えるのは気に入らなかった。


「なに言ってんですか、三浦さん」

「あら、違うんですか。あんまり仲がよかったのでつい。ねえ、京子さん」

「そうだね」


 興味なさげに京子が答えた。見た目からして、彼女はそういう話に無関係のような感じがした。


「いやだなあ、ははは……」


 とにかく僕は、その話は笑ってごまかす事にした。そういう関係では無いんだけど、郁美たちが来る前の千尋の様子を思い出して、僕は少し戸惑っていた。


「ところでさ、郁美はエビフライでいいんだよね」


 真剣にメニューを見ていた京子が、話の流れをぶった切ってくれた。そのときは彼女にすごく感謝した。


「そうね。そうしましょう。あなたたちは決まりましたか。何になさいます?」

「私はステーキにします。これ」


 千尋はあくまでも西岡の人たちに張り合う気なのか、間髪入れずに店で一番高いメニューを指差した。


「ぼくも同じでいいよ」

「どっちと?」


 郁美が意地悪な視線を向けてきた。千尋はにらみを利かせている。不用意に答えたことに後悔したがもう遅かった。別にどっちが食べたいと言うわけでもない。単に選ぶのが面倒くさいだけだった。だからどっちのメニューでも僕はよかった。


「それじゃ三浦さんと同じで」


 礼儀としてはそれで正しい訳だけれど、その選択は千尋の気持ちを逆なでする結果になった。目の前で手を合わせ、許してくれと懇願したが、思いっきり無視された。


「京子は?」

「わたしはいつも同じたから」

「じゃあ決まりですね。ボタンを押してもらえます」


 千尋が乱暴に目の前の釦を押した。

 すぐにウエイトレスがやってきた。


 あんな風に香澄が帰ってしまったのに、郁美はすこぶる機嫌がよかった。彼女は休みなく僕たちに話しかけてきたけれど、京子との対決した後遺症で機嫌の悪かった千尋は、その様子をちらちらと伺いながらも、決して会話に入ろうとはしなかった。


「対戦が楽しみですね」

「本当ですよ。でも今回はうちが勝ちますよ」


 郁実と話していると北山知佳と話しているような感じがしてうれしかった。郁美のコンピューターに関する知識は膨大で、それについて話をしていると楽しかった。向かいの席でふてくされて座っている千尋のことはすっかり忘れてしまっていた。


「でも貴方たちでは勝てないわ」


 それまでトーカマシンの性能に関するコメントをするだけだった京子が、突然口を挟んできた。


「それ、どういう意味?」


 ろくに返事もせずに黙っていた千尋がここぞとばかりに言い返す。京子に対して敵対心が剥き出しだった。


「言葉通りよ。あなたたちに勝ち目は無いんだから。みっともない負け方だけはしないように頑張って頂戴ね。分かる? つまらない相手とはこれ以上戦いたくないのよ」


 勝てるなんて思って無いけど多少なりとも意地はあった。はいそうですかと簡単に引き下がる事は出来なかった。


「でも、負けるわけにはいかないんです」

「あら、どうして? 彼女の前だからって格好つけなくても良いと思うけど」

「そんなんじゃ在りません」

「何か特別な理由でもあるのかしら」


 勝ちたい理由は確かにある。でもここで言うべき事では無いように思えた。


「個人的な事ですよ」

「そうなんですか。でも無理です」


 今度は郁美が口を開いた。彼女の笑顔はとても可愛かったが、その言葉はとてつもなく重かった。その時僕は死刑を宣告されたかのような衝撃を受けた。分かっていることであっても、知佳と同じ顔に言われるとショックだった。


「いま、なんて言いました」

「無理だ。と言いました」

「何を根拠に……」

「それは難しいですね。でも、わたしの方にも理由はあります」


 郁美は食後の紅茶を口に運んだ。それはセルフサービスにもかかわらず、郁美が無理やりウェートレスに持ってこさせたものだった。彼女もやっぱり西岡の権力を躊躇することなく行使する人だった。


「何ですか、その理由って」

「ここの紅茶が安物だからですよ」


 郁美は少し難しいと言う表情をしてから、もう一度それを飲んだ。


「冗談です。私も個人的なことですから」


 彼女はその上、僕のまねをした。


「宴もたけなわですけど、ここでお開きにしましょうか」


 郁美はまるでその理由を話すことから逃げるように、すべての伝票を持ってレジへと向かった。彼女は最初に僕たちだが頼んだドリンクバーの分もまとめて払うつもりのようだった。


「あの、それは自分で払いますから」


 千尋は何とか自分たちの分は取り戻そうと郁美を追った。ここで借りを作るのが嫌だったのだろう。でも、郁美は伝票を返してはくれなかった。


「貧乏人は素直にご馳走になりなさい」

「なんですか、えらそうに!」

「何言っているのよ、わたしはあなたと違って偉いのよ」


 あくまでも自分で払うと食い下がる千尋の前に京子が立ちはだかっていた。ウエイトレスが事の成り行きを面白そうに眺めている。


「関根さんには、この次お会いしたときご馳走していただきましょう」


 睨み合った二人がお互い手を出そうと構えたとき、郁美がその間に割って入った。二人ののど元には何故か百円均一のシャープペンシルが突きつけられていた。如月女学院のご令嬢が持っている文房具としては、まるで似合っていなかったけど、彼女の身のこなしには感心した。


「落ち着けよ千尋。今日は素直にご馳走になろう。な」


 一文無しの身の上としては、ご馳走してもらうことにまったく持って異存は無い。むしろ歓迎すべき事だった。香澄はさっさと帰ってしまったから、この場は千尋に納得してもらうのが一番だろう。


「そうしてくださいな、千尋さん」

「分かりました」


 のど元に凶器があっては断るわけにもいかないだろう。とりあえず今回は諦めて、郁美の言うとおりにしてくれるようだったけど、千尋の気持がそれで治まるはずは無い。思ったとおり乱暴に扉を開いて、千尋は先に店を出ていった。


「元気な人ですね」

「ええ、元気だけがとりえですから」


「ご馳走様でした」


 支払いを終えて出てきた郁美に、千尋は無愛想なお礼をした。


「でも、試合では手加減しませんから」


 一回の食事で買収されても正直困るが、そこまで敵対心をあらわにしなくてもいいと思った。フリーキングマッチは試合であって戦争ではないのだから。


「そうですね。楽しみにしています」


 郁美が握手の手をさし出したが、千尋はそれに答えることなく、黙ったまま郁美をにらみつけていた。


「そうですか、では、またお逢いましょう」


 長い髪を掻き上げて、郁美は駅と反対の方へ歩き始めた。郁美の髪からシャンプーの香りが漂ってきた。京子はちらりとこちらを見たけれど、何も言わずに郁美の後をついて行った。

 郁美たちが角を曲がって見えなくなると、千尋は僕の腕を掴んで走り出した。


「おいちょっと」


 商店街を走り抜けて駅へと向う。今朝使ったベンチの前で千尋はやっと足を止めた。大きく深呼吸をしてからベンチに座る。既に真暗だったけれど、ベンチの部分だけがスポットライトを浴びたように明るかった。


「先輩」


 彼女はうなだれたままで、その声は少し震えていた。


「悔しいです」


 ひざの上で固く握っている千尋の手に、水滴が落ちた。


「無理なんて事、無いですよね。私たちだってがんばれば勝てますよね」


 千尋はそう言ってゆっくりと顔を上げた。

 彼女は泣いていた。

 涙を流して泣いていた。


「先輩……」


 たぶん郁美の言った通りなのだろう。西岡にはどうやったって勝てないのだ。でも、こうして悔し涙を流す千尋を目の前にして、そんな弱気でいるわけには行かなかった。

 だからもう一度決意を固めた。

 何としても勝つ。


「絶対に勝ちましょうね」


 千尋は僕の腕を掴んでそう言った。


「ああ、もちろんだ」


 僕は力をこめてそう答えた。


 家に帰れるほど落ち着いた千尋を見送ってから、僕は壊してしまった自転車を持って帰ろうと公園に立ち寄った。不思議なことに自転車は跡形もなく消えていた。動くはずの無いベンチの手すりに頑丈なチェーンを使って止めておいたのに、そのチェーンごと無くなっていたのだ。ベンチが動いた様子は無いから犯人はチェーンを切って持って行ったに違いない。世の中にはたいそうな物好きがいるものだと感心した。安物だったし、すでに粗大ゴミと化してしまっていたから、すぐに諦めて家に向かった。


『家に届けてあげようか』


 瑞希の言葉が頭の中を駆け抜けたが、彼女がそんなことをするとは思わなかった。


「お兄ちゃん、自転車どうしたの」


 家に戻るなり妹の晃子が玄関から飛び出して来た。


「どうしたって、なにが」

「自転車だよ。あのぼろいママチャリ。見知らぬ小学生の女の子が家まで届けてくれたんだよ」


 慌てて倉庫に駆け寄ると、公園にあるはずだった自転車が、朝と同じ場所にあった。前輪はきちんと丸い形をしているし、フレームもまっすぐに直っていた。


「これどうしたのよ、お兄ちゃん。朝乗っていったんでしょ」

「いや、何も」


 きっと瑞希に違いない。前輪を交換し、フレームを直したとしたら本体が買えるほどのお金がかかる。新しい自転車に変わったのかとも思ったけれど、サドルの部分に見慣れた傷が残っていた。そして籠の中には公園でつないだはずのチェーンキーが入っている。切断した形跡なんか何処にも無かった。


「ケーキも貰ったんだよ。三丁目のケーキ屋のなんだよね。おいしいんだってあそこのケーキ。早く食べようよ、兄貴が帰ってくるの待っていたんだからさ」


 晃子は上機嫌で家に戻って行った。

 自転車を直した上に、お土産まで持ってくるとは不思議な少女だ。僕はポケットに突っ込んであった彼女のハンカチを取り出してから空を見上げた。

 月がきれいに輝いていた。

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