一
朝目覚ましが鳴らなかったのは、スイッチを入れ忘れたからでも、時間の設定を間違えたからでもなく、単純に電池が切れたからだった。カーテンの隙間からは太陽の光が漏れているのに、目覚まし時計の短い針は三の数字を指していた。その時僕は、自分の置かれた現状を理解できてはいなかった。待ち合わせに間に合うかきわどい時間になっていることに気づくまでおよそ十五秒、僕は時計と睨めっこをしていたのだ。
「やべえ、寝過ごした」
慌てて飛び起き服を着替えて部屋を出た。持って行くべき物を昨日のうちにかばんに詰めておいたのは正解だった。階段を駆け下り食堂に足を踏み入れると、妹の晃子が朝の連続テレビ小説を見ながらバターロールをかじっていた。
「また遅刻?」
「うるさいな。余計なお世話だよ」
「目覚ましのセット忘れたんでしょ」
「ちげーよ。電池が切れたんだよ」
晃子は中学校の陸上部に所属している。秋の全国大会に向けて毎日欠かさず朝練があるためいつも早起きだった。高校受験を控えているにもかかわらず、春の地区大会で新記録を出したりしたから、先生方も張り切って引退させてくれないらしい。全国大会でいい成績を修めることが出来たなら、陸上で推薦をもらえるそうだ。長距離が得意らしいが、ただ走るだけの何処が楽しいのか、完全に文科系の僕には理解しがたい事だった。
「直樹、ご飯は?」
台所から母親の声が聞えてきた。晃子のお弁当を作るため毎日早起きしているのだ。中学校は完全給食を実施しているけれど、朝練に参加すると昼まで腹がもたないらしい。部活が終わって授業が始まるわずかな時間に二回目の朝ごはんを食べるのが習慣になっていた。一日四食も食べているのにぜんぜん太っていないのは、それなりに運動しているからに違いない。
「これでいい」
食卓に一個だけ残っていたバターロールを口の中に放り込んだ。マーガリン入りのバターロールは晃子の大好物で、時々お小遣いををはたいてまで買っているのは知っていた。
「ちょっと、それ、私の!」
「わりい。こんど買って返すって」
「えー、兄貴金もって無いじゃん」
今月の小遣いは新刊のコミックを買うために消えてしまったし、頼みのバイト代も来週まで入らない。そのバイト代さえ、貰ったとたん一夜にして消えてしまうのだ。慢性的に貧乏なのはコミック、ゲーム、パソコンパーツ等の購入が原因だとわかっているけど、数少ない楽しみを減らすつもりは全くない。晃子にもかなりの金額を借りたままで、まだ返していなかった。だからバターロールひとつを買うお金さえ無い事は、お見通しのはずである。
「どうかしたの?」
「兄貴が私のバターロール盗った」
母親が出てきたら面倒くさいことになりそうだったし、いまは一秒でも無駄に出来なかったから、僕はそそくさとその場を逃げだした。
待ち合わせ場所までは、自転車を使えば二十分も掛からない。急いで出発しようと物置を空けたとき、僕は重大なミスに気づいてしまった。
「自転車、無いじゃん」
昨日は雨だったしかなり風も強かったから、僕はいつも通学に使っている自転車を学校の自転車置き場に置いてきてしまったのだ。とても自転車に乗れるような天気ではなかったから、置いてきた事自体は間違いではなかったけれど、今日寝過ごしたことは予想外だったのだ。自転車が無ければ間違いなく遅刻である。遅刻した人は部員全員に夕飯を奢ると言う約束をしてしまったから、是が非でも約束の時間までにたどり着かなければならなかった。
倉庫の中には晃子の通学自転車と父親のスクーターがあるだけだ。中学は遠くにあるから晃子は自転車通学である。彼女の自転車を使えば後が怖い。かといってスクーターも無理である。そもそも僕は免許を持っていなかった。
諦めて物置の扉を閉めたとき、物置の壁際で古いママチャリを発見した。それは母親が車を運転するようになってから使っていない安物だった。もう何年も雨ざらしになっていたから、全体的に赤茶色に変色している。鉄の部分は当然だったが、ステンレスの部分でさえさびがまわっている。チェーンの油はすっかり洗い流されていて、ペダルを回したとき乾いた金属音が聞こえてきた。ブレーキは一応利くようだったし、内装式の変速器も壊れていないから、駅まで乗っていくぐらいは大丈夫だろう。本来なら点検と整備をしてから乗るべきものだとわかっていたけど、時間が無いことを理由にそのままサドルにまたがった。サドルに含まれていた雨水がズボンに染みて気持ち悪かった。
駅までの道は少し急な下り坂になっていてかなりのスピードが出てしまう。自転車に乗るまで予想外に時間が掛かったから、かなりやばい時間になってしまった。何とか時間に間に合わせようと僕は力任せにペダルを踏んだ。
交差点ごとに立っている赤い逆三角の標識も、三十とかかれた丸い奴も意図的に無視して坂を下った。だんだん視界が狭まって、周りの景色がただのラインに変って行く。顔にあたる風には朝露が混じっていて少し冷たかった。
坂を下りきって交差点に差し掛かったとき、僕の目の前に突然「何か」が現れた。猫や犬よりも大きかったけど、熊よりはかなり小さかった。そんな漠然とした大きさは認識できたけれど、それが何であるか理解するより前に、僕はしっかりと目を閉じていた。
反射的に後輪のブレーキをかける。
甲高い音が二回鳴った後、「ぶちっ」と言う不吉な音が聞こえてきた。
後輪のブレーキワイヤーが切れてしまったのだ。わずかな時間マイナスの加速度を得ていたはずの自転車は、すぐにまた加速をはじめた。きっと錆びていたからに違いない。あるいは既に切れていたんだろう。
しかしそのまま突っ込むわけにも行かなった。相手が何であれぶつかるわけには行かないのだ。後ろのブレーキがダメならば前のブレーキに頼るしかない。だけどこのスピードで前輪をロックしたら確実に一回転してしまうはずだ。そう考えている間に、僕の右手は強くブレーキを握っていた。
だけどすでに手遅れだった。
ブレーキによってロックされると同時に、前輪は壁のようなものにぶつかった。
ものすごい衝撃が両腕を伝わってくる。
自転車の後輪と同時にふわりと体が浮きあがった。
そして今、僕は空を飛んでいる。
空中で一回転したのだろう。
勇気を出して目を開けると、空は何時になく晴れ渡っていて、薄っすらと昼間の月が浮かんでいた。
次の瞬間背中から地面にたたきつけられた。体全体に痛みが走る。幸い頭を打たずにすんだのは、体育で習った柔道の受身のおかげに違いない。運動は嫌いだけれど、格闘技は身を守るためには有効かも知れないとそのとき思った。
「大丈夫?」
ぶつかる瞬間に目を閉じていたから、そう言われるまで誰かが近くにいることに気付かなかった。目を開けると、僕の顔を覗き込んでいる少女がいた。少し幼さの残る彼女の顔はかなり整っていたけれど、綺麗というよりかわいいという感じだった。
「あ、うん。大丈夫」
思わず彼女に見とれていた僕は、背中に痛みを感じたおかげで、どうしてこんな道の真中に寝転んでいるのか思いだした。
痛みを堪えて立ち上がると、僕は事故現場に戻ってみた。交差点の中央からやや駅よりの停止線と平行に、前輪のひしゃげた自転車が転がっている。後輪はからからと音を立てて回っている。ブレーキのワイヤーはやっぱり切れていた。
僕は次に自転車とぶつかった物体を探し始めた。この自転車の状態から判断するとかなり強い衝撃でぶつかったはずである。生き物であれ、自動車であれかなりの傷を負っているに違いない。熊だった無傷かもしれないけど、ぶつかったのはかなり小さな塊のはずだった。たとえば目の前の少女のような……。
「僕は一体何にぶつかったんだ?」
半分は独り言で、半分は彼女に問いかけるようにして、僕はもう一度周囲を見回した。少なくとも僕の見える範囲には、該当する物体はこの少女しか存在しない。彼女は肩幅まで両足を広げて腕を組んだまま僕を見ていた。身長は百四十センチ位で、髪はかわいくポニーテールにまとめていた。多分小学校の五年生だろう。それを証明するアイテムはもっていなかったけど、なんとなくそんな気がした。
「あなた、案外と運がいいわね」
けれど少女の話し方はずいぶんと威圧的で、その点に於いてのみ小学生とは思えなかった。
「えっと、何で?」
目覚し時計の電池が切れ、自転車は学校に在って使えず、代わりの自転車はブレーキのワイヤーが切れたため得体の知れないものにぶつかり全身打撲。一体僕の何処に運のいいことがあるというのだろう。
「覚えてないのね。いいわ、教えてあげる。あなた、私にぶつかったのよ」
思った通りぶつかった相手は目の前に居る少女だった。それなのに彼女は傷一つしていないし、服に汚れも付いてなかった。自転車はかなりのスピードが出ていたはずだから、物理の法則に従えば、彼女だってかなりの距離を飛ばされたはずである。質量は明らかに僕の方が明らかに大きいのだ。彼女は「かなり飛ばされたけど軽かった分無傷だった」あるいは「格闘技をマスターしていて完璧に受身が出来た」とか考えれば考えられないことではないけど、どれもぴんとこなかった。それに、あの自転車の前輪のへこみ具合を考えたら、相手もかなりの強度を持っているに違いない。僕は彼女が嘘をついているのだと即決した。
「嘘だろ」
「本当よ。私、生憎と頑丈なの」
それはもう頑丈とか言うレベルを超えている。彼女の言葉が真実だというのなら、彼女は人間ではなくロボットだ。でも、見た感じそういった違和感を彼女から感じることは出来なかった。外見だけなら人と見分けのつかないような高性能アンドロイドもすでに市販されてはいるけれど、小学生モデルなんか聞いたことがない。それに彼女はそういったものとは何か違う感じがしたのだ。
「ところでそれ動くの?」
彼女は無残に壊れた自転車を指さした。前輪はすでに円の形をしていなかった。楕円と言うより、抽象的な曲線になっている。フレーム自体にもかなりひずみが出ているのが解った。乗れといわれても無理だったし、この状態たら直すくらいなら新車を買ったほうが断然安いに違いない。もともと使っていない自転車だったし、こうなったらもう粗大ゴミ以外の何者でもなかった。だから簡単に諦められた。
「ダメだなこりゃ」
「どうするつもり?」
「どうせ駅に行くだけだから、あとは走って行くよ」
駅までは残り二キロぐらいだ。歩いても二十分とかからないだろう。それでも待ち合わせの時間までにたどり着くのは無理だった。途中で事故にあったと言えばいくらか言い訳にはなるかも知れない。
「じゃあ、それはどうするの」
彼女には転がっている自転車の方が気になるようだった。
「そうだな、そこの公園にでも置いていくよ」
無理して駅まで持って行っても邪魔になるだけだったから、粗大ゴミと化した自転車は近くの児童公園に置いて行くことした。帰りに拾っていけばいい。
「家に届けてあげようか」
「いいって、べつに」
その申し出は嬉しかったが、彼女の身長では持っていくには大きすぎるし、家の場所を教えるのも面倒だった。それに悪いのは僕の方だ、彼女に何かをさせるのは気が進まなかった。
こんなぼろぼろの自転車を持ち去る物好きはいないと思ったけど、念のためにチェーン式の鍵で公園のベンチに固定した。その作業を、彼女はじっと眺めていた。
「ちょっと待って。怪我してるみたい」
作業が終わって立ち上がり、服についた土埃を払っていると、彼女が僕の左腕をつかんで服の袖を捲り上げた。腕には擦り傷があり、薄っすらと血がにじんでいる。さっき転んだときに擦ったのだろう。少女は自分のハンカチを取り出すと、傷を覆うようにそれを括り付けた。
もう夏だというのに、彼女の手は雪のように冷たかった。
「はい終わり。今度から気をつけなさい」
「あ、ありがとう」
見知らぬ女の子に傷の手当てをしてもらうなんて経験は初めてだった。冷静な振りをしていたけれど、僕はすごく緊張していた。だから御礼を言う声さえ震えていた。
彼女は軽く手を振って、駅と反対側に歩き始めた。
「そうだ。君、名前は?」
後でお礼をしようとは考えていなかった。ただ、名前を聞いておきたかった。
彼女は足を止めただけで振り向かなかった。
「あのさ、わたしには関係ないんだけど、貴方急いでいるんじゃ無かったの?」
そう言われて時計を見ると、待ち合わせの時間はもうとっくに過ぎていた。
「瑞希。吉野瑞希よ」
そう言って少女は振り返った。その表情が何だかとても大人びて見えた。
「ああ、さんきゅう」
僕は左手を大きく掲げてから駅に向かって走り出した。瑞希のハンカチが風に吹かれてはためいた。
「ああ、そうだ」
ハンカチを返す為に連絡先を聞こうと振り返った時、瑞希はもう見えなかった。