最愛
木々の葉のせせらぎの音、朝の音がする白い部屋の中で彼は目を覚ました。
体を起こし軽く伸びをする。背中の骨がぽきぽきと音を立てる。
手を置いてふと、何かが当たる。隣ですやすやと小さな寝息を立てる彼の妻だった。
彼はその顔を覗き込み、安らかに眠る妻の頬をそっと撫でた。
数分ほどそのまま静かに時は過ぎ、やがて彼が時計を見ると朝の九時になろうとしているところだった。
「・・・なあ、もう朝だぞ、そろそろ起きた方がいいんじゃないか?」
寝起きであまり出ない少し低い声を慣らしながらそう言って妻をゆする。
少しだけ煩わしそうに呻き声を数回漏らした後、寝転がったままゆっくりと身体を彼の方へ向けて目をゆっくりと開けた。
「・・・おはよう」
絞りだした声に彼は苦笑して彼女の頬に手を当てる。
「あぁおはよう。いくら仕事がないからと言ってもあんまり寝ていたら駄目だろ?、今日は二人でゆっくり過ごしたいと言ったのは君じゃないか」
言葉こそ多少責めているように聞こえるが彼の声音にそのような感情がこもっている様子はない。むしろ花でも愛でるかのような優しい声音だった。
「ごめんなさい・・・」
まるで叱られた子猫のように彼を見上げ、かけ布団で口元を隠す仕草に彼は呆れ、同時にとても愛おしくなっていた。
「君は・・・本当に媚びるのが上手いね」
「言い方がひどい」
不満げな顔をする妻の頭を軽く撫で男はベッドから降りる。
そのままスタスタと窓まで向かい、カーテンと窓を開ける。
窓から見える空いっぱいの岩肌がじんわりと鈍い灰色に光っていた。
その威圧感に彼は少しだけ肩をすくめる。
「・・・月はもっと美しいものだと記憶してたんだが」
彼は誤魔化すように苦笑を浮かべ。誰に投げたかもわからないような口調で吐いた。
「どんな美人さんでもイケメンでも、知らない人が急に顔を近づけてきたら怖いでしょ?」
「君だったらたとえ知らなくても嫌な気はしないな」
「そういうこと言ってるんじゃないの。もう・・・」
今度は妻の方が彼の軽口に呆れた表情を見せた。
「まあ、とりあえず朝食にしようか」
「うん」
返事とともに妻もベッドから降り、部屋を出る。
一階にあるキッチンは広く、この家を買った際に言った数少ないわがままによるものだった。
「いつも通りでいっか」
「いつものものしかないだろ?」
「そうだね、急に食材も貴重になってしまったから」
机に投げてあったリモコンを手に取りテレビの電源を入れ、トースターに食パンを入れダイアルを回す。
テレビではどこか遠くを見ているニュースキャスターが世界で起きる暴動、テロ、犯罪などを淡々と流すように喋っていた。
「こんな時にまで仕事してるとは・・・偉いねぇ、社畜の鑑だね」
「僕たちみたいなものだろ。きっといつも通りしてなきゃあの暴徒たちみたいにおかしくなってしまいそうなのさ」
テレビの映像の中に映る炎とスピーカーから刺さる悲鳴に彼は目を細めた。
「・・・人間としては、あの人たちのように自分の欲望のままに動くほうが正しいのかなって思うの」
「どうした突然」
「だって・・・」
大きな灰色の空を見たあと、確認するように彼の目を見て言う。
「・・・今日が、最後の日なんだから」
月の表面が若干鈍く光る。死を体現した巨大な球体。
詳しいことは分からず、ただ、自分たちのいる場所に月が落ちてくるということだけが分かっていた。
三日前、突然空からゆっくりと顔を出した灰色の岩肌が、人間たちの恐怖を一気にあふれさせ、社会というものを薙いでいった。
月があるのはこの日本のほぼ直上。落下予想は中国の東あたり。
少なくともアジア圏は消滅。衝撃による人類滅亡はほぼ確実視されている。
そんな安いSF映画のような設定がたった3日で自身の目の前にまで迫り、最後の日を作り上げていた。
「僕たちがこうしていられるのも今日の夜までってことか」
落下スピードからこの日が終わる十二時あたりに月は落下する。
「・・・ごめんね。急に」
「いいさ、それこそ普通の感覚なんだよ。冷静で恐怖を感じない僕のほうがおかしいんだ」
そう言いながら震える妻の手をそっと両手で包んだ。
「座ってて、今日は僕が作るよ」
彼は妻を座らせトーストや目玉焼きといったいつも通りの朝食を用意して紅茶を入れた。
そのまま二人はテレビで延々と流れるニュースをBGMにしながら静かに食事を終えた。
カチャカチャと二人で皿洗いをすませ長く低い三人がけのソファに肩を寄せながら並んで座る。
「・・・何をしようか」
「やっぱりいざいつも通りって考えると何も浮かばないね」
妻は天井を仰ぐ彼の顔を見てくすくすと小さく笑う。
「それじゃあ、お話でも」
お互いの仕事が忙しくて前より話す機会が減っていたことを思い出した彼はそんな提案をする。
昨日、一昨日は話せるような状況ではなかったし言葉よりも体を欲していた。
「お話?、昔話とかする?」
「別に桃太郎とかかぐや姫の話をするわけじゃないんだけど・・・え、聞きたいの?その歳で?」
「まだ二十代ですー」
「二十代も十分聞かねえだろ・・・」
話の腰が折れたことを察し、彼は妻の肩を抱き寄せる。
「別に思い出の話でもいいし、お互いのことでもいいから。最近ゆっくりとこうやって話すこと少なくなったろ?」
妻も静かに頷いて手を重ねる。
「・・・ねぇ、初めてあった時のこと覚えてる?」
「これまた月並みなのが来たな」
「いいじゃん、答えて」
「覚えてるよ。六年前、大学の選択講義で隣だったんだよな」
そのあと、友人に誘われた合コンでもう一度出会う。
「その頃恋愛とかの価値がいまいちわかってなかった私は、軽々と人に体を渡してて」
「最初に聞いたときはびっくりした」
そんなふうには見えなかった。そんな感想だった。
「あなたと付き合い始めてすぐは他と同じようにやるだけヤッて終わるものだと思ってた」
「生々しいね」
「事実だもの」
妻はてっきり自分のことを知っているものだと思って彼と付き合っていた。
しかし、それにしては矛盾な行動が増えていく彼に疑問が積もる。
「んで、結局我慢できなくて聞いちゃうわけだ」
『私とヤりたいと思わないの?』
彼は目を剥いて硬直する。
そのときにこいつは何も知らずに自分と付き合っていたのだと確信した。
「下心がなかったわけじゃないけど、僕は普通に恋をしてるつもりだったわけで」
「私もそこはそこがスタートラインだった」
その夜、彼女は自身の今までをほぼ包み隠さず話す。
彼は様々な表情を見せながらその話を聞くが、一度たりとも軽蔑したり見下したりする表情は見せなかった。
「そこからはまるで落ちるようで」
「なんで急に詩的なの?」
「やめて、言われると恥ずかしくなるから」
くすくすと笑う妻に彼は少し顔を赤く染めて目を逸らす。
妻はひとしきり笑うと息を整えまた彼に寄り添うように身体を預ける。
「私を救ってくれて、生きる意味を与えてくれてありがとう」
「僕も、一緒に死ぬことを許してくれてありがとう」
彼はともに死ぬ、又は自身の死を看取ってくれる相手を盲目的に探していた。
「・・・本当に、最初あなたが一緒に死んでほしいなんて言い出したときは何事かと思った」
「仕方ないだろ。僕が君に望むものなんて本当はあれくらいしかなかったんだ」
彼が学生時代に求めたのは存在意義と死に場所だった。
何ら不自由なく過ごし、自分自身すら見失った時、彼は自身の存在を証明してくれるものを欲した。
しかし、一般人からしてみればズレているとわかっていた彼はそれを人格の奥底に仕舞込み、いつか己の存在意義であり終着点ともなる人を探し続けていた。
「少し早すぎる気は過ぎるが、僕の夢は叶うんだ・・・君には、悪いと思ってるけどね」
「あなたが謝ったって月は止まらないし、私もあなたと死ぬことを受け入れたのだから、これでいいんだよ」
それぞれの依存という名の狂愛を確かめるようにお互いの身体に手を滑らせる。
そして一度、口づけをした。
それから紅茶を飲みながらお互いのことを深淵まで話す。
昼夜との食事を済ませそれ以外はずっとソファの上で互いの頭の中に遺書を遺すかのように語り続けた。
やがて薄明かりすら空から消え、大気が揺れるような音がゆっくりと響き始めた。
二人はゆっくりと顔を上げて気持ちを抑えるようにそっと息をつく。
「そろそろ行くか」
「・・・うん」
手を繋いだまま立ち上がり、二階の寝室、ベッドの方へ。
衣類を下着まで全て脱ぎ、ダブルベッドのシーツの上に全てを預けるように並んで寝そべった。
窓の外はゴウゴウと音を立て、遠くからは人の声が響く。
心なしか息苦しくなり、妻は彼の手首を強く握りしめる。
天井を見たまま静止していたが互いの存在を確かめるように顔を合わせ横向きに寝る。
二人にはもう世界の音は聞こえない。
互いの息づかいだけが耳に残る。
「怖い?」
「・・・ちょっとだけ」
指輪絡めてしっかりと握る。彼はそのとき、彼女の薬指にあるプラチナの輪を撫でるようにその存在を確かめた。
「でもね」
「ん?」
「あなたに置いていかれなくて良かったとも思うの。だって、人間って心中でもしなきゃ一緒には死ねないじゃない?」
「・・・そうだね」
多少の驚いた表情を見せたあと、力が抜けたように彼はフッと笑う。
段々と息苦しくなっていく部屋の中で二人はもう一度手に力を入れる。
「愛してる。今もこれからも」
「私も。あなたしか愛せないから」
抱いて、胸の奥に響く生命の音を感じて、最後の歌を聞く。
「どうかずっと一緒に」
「大丈夫、ずっと一緒」
世界が揺れる。
今、世界も人も終わろうとしていた。