闘争あるいは逃走
半長靴の男は、松野が瞬時に後退りするのを見て、言い知れぬ不安を感じたようだ。
そして男は目撃者の視線の先に、己の爪先へと黒目のみをゆっくり向けた。
そのうちに、みるみる男の血の気が引いていくのが分かった。
顔面蒼白となり脂汗が吹き出すさまは、まるで火を灯してしばらく経った百目蝋燭を想起させる。
恐らく男は一仕事してきた後なのだろう。
お世辞にも武陽中心部の治安はいいとは言えない。
終戦から数年。未だ、一人歩きするのも憚られるような場所だ。
路地裏に入れば、犯罪の一つやふたつ起きていても不思議ではない。
松野は、瞬きをする程の間に、この場から抜け出す為の思考を巡らせた。
目の前の「正体不明」は、今の顔色を除けばかなり精強そうに見える。
立っ端※<1>や胸板、胴回りの厚さも相当なものだ。
<今走り出せば、相手は確実に追ってくるだろう...背を向けて無防備な姿を晒すのは得策ではないな...>
一瞬思案した後に彼は右足を引き、若干前に上半身の体重を移し前傾姿勢となる。
片足を下げたのは、正面から見た身体の投影面積を減らす為だ。
<やるのか。やらないのか。お前次第だよ>
二人は終始無言であったが、目の前の小男が戦闘態勢を取ったことから、「半長靴」も相手が逃げない事を察して腹を決めたと見える。
夜の帳の下りる頃、人っ子一人通らない、寂れた路地裏には件の男二人が対峙していた。
※<1>...身の丈、身長や物の高さのこと