二十回目の……
空は良い。悩み事も詰まらない事も全て吸い取ってくれるような気がする。飛んでいる鳥たちが羨ましくて、空を飛んでみたいといつも思う。
「ま、できないけどな」
俺は仰向けになったままで呟いた。何で人間に生まれてしまったんだろう。そう思うにつけて、何もかもがつまらなくなる。
「空山君」
空と俺の間に割り込んできた影。逆光に目が慣れると、それが良く知る知り合いだと分かった。おしゃれメガネとひっつめ髪で童顔を隠そうとする作戦が見事に失敗している知り合いは一人しかいない。
「なんだ、甘美か」
「こら、せめて先生をつけなさい」
佐藤甘美の怒った顔はちっとも怖くない。昔から近所に住んでいて、幼馴染同然で育ったのに、今更先生なんて恥ずかしくて呼べるもんか。
「全く、またさぼりね?」
「うるさいな、いいんだよ授業なんてどうでも」
「良くないわよ。学生の本分は勉強なんだよ?」
母親か、お前は。昔はもうちょっと聞き分けのいい奴だったけどなぁ。
「何の用だよ」
「おさぼりさんのところに先生が来るといったら、ひとつしかないでしょう」
「なんだよ、連れ戻しに来たってのか?」
「当然です。授業をちゃんと受けないと、留年しちゃうんだからね」
「今更どうでもいいだろ。もう二学期も終わりだぜ」
「それでもです。真面目な態度を見せれば、先生方も許してくれるわよ」
ね、と笑う甘美の顔がむかついて、思わずほっぺたを引っ張る。
「ほひゃ、やへははいっへは」
パタパタと手を振る甘美。
「むー、教師に対して暴力を振るったわねぇ。お返し」
きゅっと抓ってくるけど、ちっとも痛くない。真っ赤な顔をして力をこめているのが丸分かり名だけに、それもまた面白い。
「もー、体ばっかり大きくなっちゃって、か弱い乙女には荷が重いわ」
ふうふうと息をつきながら、甘美は手を痛そうに振っている。
「もういいだろ、ほっといてくれよ」
「そうは行くもんですか。いっつもこんなところに一人で寝転んで。クラスのお友達も心配してるわよ」
「してるわけねぇだろ。てか、こんなところに来る甘美も甘美だ」
「私だってここの卒業生なんだから、昔は結構オテンバさんだったものよ」
「にしても、ここ、体育館の上だぜ」
かまぼこ型の屋根の天辺で寝転ぶのが俺は大好きだった。この学校で一番空に近いところだからだ。
「私も昔は良く登ったものよ。まあ、学生時代の話だけどね」
どんだけオテンバさんだ、こいつは。
「ねえ、降りようよ。下でみんな待ってるよ」
「待ってねえだろ。今、むちゃくちゃ授業中だぜ」
「分かってるなら授業に出ましょう。先生も一緒に行ってあげるから」
「いらねぇよ」
俺は寝返りを打ってそっぽを向いた。
「んもう、強情なんだから」
早くどっかいってくれないかな。そう思っていたら、俺の顔の前に小さな瓶が差し出された。
「はい、これ」
「何これ」
「水飴よ。白くなるまでネリネリしていいから、一緒にここから降りよ」
「言ってる意味が全く分からんが」
「ええっ、空山君は水飴を白くしない派?」
そういう派閥があること事態、今はじめて知ったが。
「無心でネリネリしてると、嫌なこととか全部忘れちゃうでしょ?ほら、ちゃんと割り箸もあるよ」
コンビニの袋に入った割り箸。爪楊枝が一緒に入っているから、あけるときに注意のやつだ。
「やらねぇって」
「えー、じゃあ、私一人でやっちゃうよ?いいの?」
「どうぞご自由に」
ばかばかしい。
「じゃあ、やっちゃおっと。後でやりたいって言っても駄目だよー。今のうちだよー」
あほらしい。もう無視を決め込んで、俺は再び空を眺めることにした。
鳶だか鷲だか、猛禽類の綺麗なシルエットが大空に円を描いていた。
「うふふ、ぐにぐにー。楽しいなぁ」
白い飛行機雲と黒いシルエットが交差する。
「ほらほら、だんだん白くなってきたよぉ」
円を描きながら、ゆっくりと小さくなっていくシルエットを、俺は無心で眺めていた。
「見てみて、もう真っ白だよ、ほらほら、すっごい美味しそう」
無心で眺めていたんだ。
「わー、ふっしぎー、何で白くなるんだろうねぇ」
無心で眺めていたいんだ。
「ねえねえ、何でかな、何でだと思う?」
制服の裾を引っ張られるのがいい加減うっとおしくなって、一喝しようとした途端だった。
「へくちっ」
甘美がくしゃみをした。まだまだ暖かいとはいえ、ここは高いところ。もう冬に近いこのごろでは寒いのも当たり前だ。
しかも、今振り返って気が付いたのだが、こいつはスカートにカーディガンを羽織っただけの格好でここに来ているじゃないか。全く無茶をする。
「えへへ、結構ここ寒いね」
「当たり前だろ、そんな格好じゃ」
「だって、空山君も……」
「ばーか、鍛え方が違うんだよ」
「そっか、強いんだね」
ポケットから出したハンカチで鼻を押さえながら、甘美はそういって笑った。
「……全く、困った先生だな」
俺は、自分の着ていた上着を甘美に着せてやった。
「あ……」
「風邪引くぞ」
「……うん、ありがとう。お兄ちゃん」
甘美は懐かしい呼び方をした。昔、彼女は俺をこう読んでいた。俺のほうが三つだけ年上だからだ。
「お兄ちゃんは寄せ。お前は先生で俺は生徒なんだからな」
「えへへ、ごめんね。久しぶりに優しくしてもらったら、なんか嬉しくて」
「馬鹿だな」
「うん、甘美バカだよ」
「甘美……」
「だから、こうして頑張って喋ることしか思いつかないの。お兄ちゃんの心が動きますようにって」
くしゃくしゃと頭を撫でてやると、嬉しそうに甘美が笑う。
なんだか意地を張っていたのがばかばかしくなった。確かに、いつまでもこうしていられるはずも無いんだよな。
「よし、降りるか」
「降りて……くれるの」
「ああ、甘美の勝ちだよ」
「やったぁ」
甘美は昔のように俺の首根っこに抱きついてきた。
「よし、卒業するぞ」
「うん、がんばろー」
立ち上がった俺に、甘美が白いものを差し出してきた。
「はいこれ、御褒美」
それは、綺麗に白くなった水飴だった。
「……これ、さっきくしゃみしたとき持ってた?」
「うん、持ってた」
「じゃ、いらね」
「ぷう、綺麗にできたのに」
そういって、甘美はぱくりと水飴を加えた。うえっ、食べやがった。
「どうだ?」
「うー、ちょっとしょっぱいかも」
やっぱりな。甘美は顔をしかめて水飴を口から引っ張り出した。
「ちぇ、うまくいったのになぁ」
「また作れよ」
「そうする」
歩き出した俺たちの横を一陣の風が吹き抜けていった。
「へくち」
身を震わせて、甘美はまたくしゃみをする。
「ったく、風邪引くなよ」
俺はそっと甘美の肩を抱き寄せてやった。素直に俺に体を預けてくる甘美。
「ねえお兄ちゃん」
「ん?」
顔を赤くしながら、甘美は俺を見上げた。その表情がかわいくて、俺の心臓が高鳴る。
「高校三年生、何回目?」
俺の心音は瞬く間に落ち着いた。
「水飴が白くなるのはな、空気が混ざるからだ。空気が均一に混ざっているほど白くなって、口当たりも柔らかくなる」
「ねえ、何回目?」
しつこいな。
「……二十回目だ」
今年で俺も三十八歳。若い者とも話が合わなくて、一人でこんなところに寝転んだりしていたけど、やっぱりそろそろ限界だよな。
昔は素直な妹みたいな奴だった甘美も立派な先生になりやがって。まさかこの学校に赴任してくるとは思わなかったけどな。
「卒業……しようね。この間、おばさん泣いてたよ」
「……はい」
空は良い。
鳥になって飛んで行きたいなぁ、どっか遠くへ。
おしまい
よくよく読めば、この女教師も結構イタイという二段構えのオチ。
くだらないといえばそれまでですが。




