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悪魔退治は放課後で2

作者: 浅井基希

『悪魔退治は放課後で』第一部はこちらです「https://ncode.syosetu.com/n3766fb/」


少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

(1)

「この頃、呼ばれる頻度が上がってる気がするんですけど」

 夏休みの終り頃。七緒と結は相変わらず学園長室に呼び出されていた。夏休みの開始頃は四、五日に一度だった呼び出しが、今では三日に一度になっていた。

 しかも今日は早朝――まだ朝の七時だった。

 前半は宿題に追われていたが、後半は悪魔退治に追われているような気がする。

 結に案内されて、地元の夏祭りには行けたけれど、これでは夏休みを堪能したとは言えない。

 夏祭りは楽しかったのだが、七緒は夏休み特有の謎の開放感をじっくりと味わえていなかった。

 現に今日は夏祭りを案内してもらったお返しに、結と一緒に地元のシネコン併設のショッピングモールに行こうと約束していたところだった。

 七緒はともかく、結はあまりそういう場所に行ったことがなく、楽しみにしていたような感じで、数日前から公式サイトでフロアガイドを見て準備もしていたのに――

 これが自分たちの使命だとわかっていても、友達と気軽に遊びに行けないのもどうかと思う。

「もうすぐ季節の変わり目だからねえ……暦の上ではもう秋だしさ」

 学園長がいつもの苦笑いで返す。

「……そういうものなんですか?」

 悪魔とはそんな花粉症みたいなものなのだろうか。学園に来て数ヶ月経つけどわからない。

 七緒もわからないまま馴染んでいる。自分でも不思議に思っていた。

「ここ数年の統計でも、気候の変わり目に悪魔が漏れ出す回数は多いらしいです」

 結が真面目な表情で七緒に衝撃の事実を告げた。

「じゃあ、そういうものなんだ……」

 納得出来るような出来ないような――でも結が言うならきっと間違いではない。

「そういうこと、いってらっしゃい」

 笑顔の学園長が手を振っている。相変わらず腹が立つくらい、にこやかで爽やかだ。

「では、行きましょうか」

 七緒にはもっと言いたいことがあったが、結に促されて地下通路へと向かった。

 

(2)

 相変わらずの地下通路を二人でのんびりと歩く。

 今日は制服ではなく、私服――二人ともデニムにTシャツというラフな格好だった。

 勿論、刀は剣帯で下げている。

「悪魔もさ、もう少し空気読んでくれたらいいのにね」

 雑談がてら、七緒はいつ出てくるかも知れない悪魔に無理な要求をしていた。

「空気を読んでくれるなら元から出てくることもないと思います……」

「それもそっか。早く終わらせて一緒に買物に行こうね」

 結の言っていることのほうが正しい。基本的に悪魔には言葉が通じない。

 七緒が一番最初に遭遇した悪魔は人間の言葉を話していたが、結に言わせると、とても珍しいことなのだそうだ。

「はい!」

 結は張り切って返事をしていた。


 地下通路内を少し進んだ場所、生体認証の扉前――奥にこの前新しく張った結界がある。

 当初こそ悪魔の出現は激減したものの、ほんの数ヶ月で出現の頻度が元に戻りつつあるのは何故だろう。強化するには予算が必要とのこと――正直、此処が街の治安にも関わるのなら、その辺りは最優先で予算を回して欲しいと七緒は思っているのだが、大人の世界は難しい。


「……ここまで、気配がなかったね」

 七緒が呟く。いつもならこの辺りに着くまでに漏れ出した悪魔が出てきているのだが、今日は道中で出くわさなかった。

「外に出てしまったとか、ないよね?」

「入口よりも外に出ると警報が作動するので、その可能性は無いと思います」

「じゃあ見落とした――っ!」

 七緒は一瞬、何かの気配を感じた。いつもと同じような――でも違う気配――結も何かを感じ取ったようだ、二人とも、右手が自然に刀の柄にかかっている。

 七緒は皮肉なことにこの数ヶ月で、悪魔の気配を察知できるようになっていた。

「何か、違う……気を付けて」

 その違和感は口に出ていた。確かに気配はあるのに目視ができない。

地下通路とはいえ、ちょっとした地下鉄の駅くらいの広さはある。小さいが、柱などの構造物もあり、悪魔がその影に隠れることもないとは言えない。

 それでもここまで細心の注意を払って進んできたはずだが――

 いつでも刀を抜けるように鯉口を切り、七緒は神経を研ぎ澄ませてその気配に集中する。

 物音一つ――微かな呼吸の音さえ大きく響く中で、悪魔は全く姿を顕さない。

 ――数分、悪魔の影が間近にあった。

「えっ――」

 二人が悪魔の姿を視認できたその瞬間、それは既に結の真横に迫っていた。

 大きな爪――鎌にも見える器官が振り上げられている。

 あまりに突然で、結の反応がほんの少し遅れていた。

 ――爪が振り下ろされる。

「結!」

 七緒は咄嗟に左腕を伸ばして結の身体を思い切り引き寄せて庇うように抱き込んだ。そして、結を抱きかかえたそのまま回転し、右手だけで後ろ手に薙ぎ払うように悪魔に向けて刀を抜いた。

 僅かに切っ先で斬り込めただけだったが、悪魔が小さな叫び声を上げる。

 悪魔の攻撃を寸前で躱せたようにも思えたが、結を庇った左腕の前腕部に鋭い痛みが走った。

「――くそっ!」

 仕方がないが、一太刀で深手を負わせられなかった。七緒は普段口にしないような悪態を吐く。

「な、七緒さん――!」

 七緒の身体から離れた結が珍しく慌てている。七緒の左腕から、少しの血が(したた)っていた。

 それでも腕は動くし、指先の感覚も失ってはいない。

 結には怪我はないようだ。それだけでも良かったと思う。

「大したことない! それより、次が来る――」

 決して油断をしていた訳ではない。いつもと何かが違うのはその前の段階でわかっていた。

 その違和感の正体――相手の強さが、今までの悪魔とは段違いなのだ。

 少しでも斬り込めたおかげで、全く刃が立たない相手ではないことはわかったが――

 躊躇っている暇はない、悪魔は間合いを詰めて、今度は七緒に襲いかかってきた。

 容赦なく振り下ろされる爪を刀で受ける。金属と、何か硬いものが擦れ合う音がする。

 ここから受け流して攻撃に転じたいが、七緒が思っていたよりも悪魔の力が強い――受け止めるだけで精一杯だ。

 間髪を入れず、結の助勢が入った。押合いで動きが止まっている悪魔に鋭い一太刀を浴びせる。だが、これもまた切っ先がかかっただけだった。

「な――」

 結が驚きの表情を見せた。これでも悪魔との実戦経験は結のほうが多い。比べたことはないが、スピードは七緒より速いはず――それなのに、(かわ)された。

「――落ち着いて」

 七緒が結に――自分にも――言い聞かせるように呟いた。

 確実に削ってはいるのだが、決め手に欠ける。一進一退の攻防は続いていた。


 しばらく戦っているうちに、相手が攻撃に出る際、僅かな隙が出来ることに気付く――

 また悪魔が腕を大きく振りかぶる――そこに隙ができた。

「――やあっ!」

 七緒は一気に相手の間合いに入り、反撃を喰らうのを覚悟でその喉元に渾身の突きを放つ。結も悪魔の逃げ道を塞ぐような位置取りで斬りかかっていた。


 断末魔が聞こえ、悪魔のその身体が消滅する――辺りにはもう気配はない。

「サポートありがとう。なんとかなったね」

 七緒が刀を納めて結に礼を言った。数ヶ月の付き合いしかないが、七緒が作戦を言わなくても結が察してくれたのは、少なくとも今まで共に戦ってきたおかげだと思った。

「七緒さん――ごめんなさい……申し訳ありません」

 結は怪我をしている七緒の左腕を取ると、堪えていた涙を流していた。

「謝ることじゃないよ。ほら、泣かない。手は十分動いてるし、傷も大したことないよ」

 血も止まっている――七緒はこれ以上結を心配させないように笑顔でそう続ける。

「だって……七緒さんは――私はお仕えする立場なのに……それなのに……」

 泣きながらでも結はハンカチを取り出して、七緒の傷口に素早く巻きつけていた。

「あのね、こういうのは協力関係。上とか下とかはないから」

 そういった価値感で生きてきた人に対して、急にそれを辞めろとは言えないけれど、重荷になって欲しくもない。結には出来るだけそんなしがらみから解放されて欲しいのだが――

「でも……」

 結は不満そうな顔で頑なに「はい」と言わない。

 これが結の良いところでもあるし、悪い――というか弱点のようなところでもあると思う。

「手当してくれてありがとう。戻ろう。ちゃんと報告しなきゃだね」

 七緒はわざと怪我をしているほうの左手で、結の頭を軽く撫でた。

 大丈夫だと思って欲しかったし、思わせたかった。

 結の髪の毛の手触りが好きなのもあるけれど――

 すっかり「お仕え」されているような気もしたけれど、それは今は言わないことにした。

「……はい」

 泣き止んでいた結が少しだけ笑ってくれていた。


(3)

「――成程。より強い悪魔か……早急に対策を考えなければいけないね」

 七緒たちの報告を受けた学園長は眉根を寄せて考え込んでいた。

 地下通路にはカメラが設置されているのでモニターで一部始終を見ていたのだろう、二人が学園長室に戻ってきた時から、普段の何処か軽い感じは消えていたのだが、思っているより七緒たちのことを大事にしてくれているのかもしれない――わからないけれど。いや、きっとそうだ。

「基本的にあの結界は手に負えないものを封じている。漏れ出るのは人間でも対処できる程度の、言ってみれば『弱い』とされる悪魔のはずなんだが、二人がかりでなんとかなるレベルか……」

 学園長は腕を組み、考え込んでいる。

「あの……七緒さんの傷の手当てを……」

 ずっと何かを言いたげだった結が、それでも遠慮がちに言う。

「ああ、すまない。学校指定の病院に行ってもらえるかな。午後からは予定が?」

 学園長は机の引き出しから病院の地図を取り出して、七緒に渡した。

「はい。出かけます」

 地図を受け取りながら、七緒は答える。

「え、七緒さん――?」

 結が驚いていた。七緒が思うに、結としては休んでいて欲しいのだろう。だけど――

「今日は買物に行くって約束してたでしょ?」

 七緒は結の顔を覗き込んで、笑顔でそう言った。

「でも……怪我が……」

 やはり、七緒の怪我の心配だった。

「だから大丈夫だって。全然痛くないし」

「でも、病院には行きますよね?」

 結が少しだけ、いつもの頑固さを崩した。

「うん。それから一緒に買物に行こう? 楽しみにしてたでしょ?」

 七緒も一歩譲って答える。本当は行かなくても大丈夫な程度の怪我だとは思うのだが――

「……はい」

 結は渋々という感じで返事をする。心配をしてくれるのは嬉しいけど、それで折角の楽しみを奪われるなんて、させたくないと七緒は思っていた。

「いってらっしゃい。楽しんで」

 学園長のいつもの笑顔だった。


(4)

 学校指定の病院に行くと、学園長が連絡を入れていたらしく、素早く診察してもらえた。

 一応悪魔に切り付けられているので、事情を説明するのが大変だとは思っていたが、その辺りの話も全て通っているので、淡々と消毒――の前に少しだけ傷口の組織を取られたが――防水テープで保護。という治療の流れだった。

 七緒の思っていた通り、縫う程の怪我ではなく、結もそれを聞いた時は安心していた。


 二人は病院からそのまま、ショッピングモール行きのバスに乗り込み、二人掛けのシートに並んで座る。

「私のせいです……」

 七緒も、結も、しばらく無言でいたが、ふと七緒の腕を見て結が呟いた。

「違うってば」

 隣に座っている結の顔を少しだけ覗き込んで七緒が言う。

「違わないです。お仕えする立場の人間が足手まといになるなんて……」

 結は目を合わせようとしない。拗ねたりしているわけではなく、ただ気まずくてといった感じだった。こうなると結が意地になるのはこの数ヶ月の付き合いで七緒もわかっているのだが、上手な解決方法をまだ見付けられていなかった。

「――結は、今日を楽しみにしてくれてたじゃない?」

 しばらくの思案の後で七緒が言う。

「……はい」

 現にフロアガイドを見て、どの順番で店を回るか――そういうことを事前に話し合っていた。

「じゃあ楽しもうよ。私も楽しみにしてたんだから」

「でも――」

「結が楽しんでくれないと、私も楽しめない。お仕えする人がそれでいいの?」

 それはまるで人質を取るような、とても卑怯な七緒の言葉だった。

 結がその関係性を気にするのなら、逆手にとってしまえば良い――それに、これくらいの言い方でないと、いつまでも結は気にする。七緒が思ってた通り、結は返事が出来ずに黙り込んだ。

「ね?」

 七緒は念押しでまた結を伺うように顔を覗き込む。

 勿論、さっきの言葉は本気ではないという意味合いでの笑顔をプラスしていた。

 言葉にして言わないと伝わらないとは思うけれど――

「――七緒さん」

 結がずっとそらしていた視線を七緒に向ける。

「ん?」

「やっぱり七緒さんが七緒さんで良かったです」

 そう言った結は、諦めたような笑みを浮かべていた。

「……意味がよくわからない」

 結は時々、こういうことを七緒に言う。多分褒めてくれているのだと思うが、何処かくすぐったい。七緒は照れ隠しでそう返す。

「私にはわかってます」

 結が答える。

「――じゃあいいや」

 答えになってないけれど、納得してくれたのならそれでいいと七緒は思った。


(5)

「さて、まずは腹ごしらえしよう」

 七緒はフロアマップを見て、フードコートを探す。予定していた順番とは違うけれど、イレギュラーの事態なのだからということで結も了承していた。

 フードコートには全国チェーンのたこ焼き店が入っていた。結に食べたことがあるかを訊いたら「ないです」とのことだったので、ちょっと遅い昼食代わりに二人で食べることにした。

「このお店のたこ焼き、出来立ては超熱いから気を付けてね」

 揚げ焼きのように仕上げてカリカリ感を出す製造法――美味しいのだが、迂闊に口に放り込むと確実に火傷をする。

「わかりました」

 結は慎重に、箸で持ったたこ焼きを吹いて冷ましている。

 その様子がとても可愛いと七緒は思った。

「どうしたんですか?」

 七緒の視線に気付いた結が、不思議そうに尋ねた。

「いや、可愛いなって――あ、いつも美人だなとは思ってるけど、今日はプラス可愛い」

 それは七緒から出た本心だった。

「――なんですかそれ」

 褒められ慣れてないのか、結は困った顔で居心地が悪そうにしている。

「照れないでいいよ?」

「……照れてないです」

 そう返す結の頬は少しだけ紅潮していた。


「次は服見る? どうする?」

「七緒さんが見たいならそうします」

「うん。私、服も見たいんだけど、っていうより、結を着せ替えたい」

 七緒が結と出会ってから数ヶ月になるが、制服姿の印象のほうが強い。しかも結の私服はシンプルなデザインの物ばかりなので、結には余計なお世話かも知れないけど、たまには華やかな姿を見てみたいと七緒は思っていた。

「え、ええ――?」

 結が珍しく慌てていた。


「結はこういう感じのも似合うねー」

 試着室からパステルカラーのワンピースを着て出てきた結を見て七緒が言う。

 結局七緒が押し切って服屋に行き、あれこれ着せていたのだ。

「でもこの服だと少し戦いにくそうですね」

 結はワンピースの裾を素材を確かめるように持って、まじまじと見てそう言った。

「こんなふわふわのワンピースにそこを求めちゃ駄目でしょ……」

 この服に刀を下げて――七緒も想像してみたけどミスマッチ極まりない。

「駄目ですか? 同じスカートでも制服は動きやすいですよ?」

 結は不思議そうにしている。

「確かにスカートなのに制服は動きやすい。なんで? ……ってそうじゃなくて。戦う時は戦う時、可愛い服を着る時はそういう時」

 状況に合わせて切り替えるのだ――と七緒は力説していた。

「でも、どういう時に着れば良いんですか?」

 もっともな結の質問――

「遊びに行く時とかデートする時とかかな?」

 思わすデートと言ったけど、結は一体誰とデートするようになるんだろうという疑問のような何かが、七緒の心を小さくかすめた。

「……じゃあ、買います」

 少しの思案の後に結が言った。あの説明で納得されるとは思わなかった。

「今度また、七緒さんと出かける時に着ます」

 結は七緒が嬉しくなるようなことを口にする。少し気恥ずかしい。

「私もお出かけ用の服買おうかな。結、選んで?」

 そう言って七緒は自分の好みの服を選び始める「服とかわからないです」という結を巻き込んでのファッションショーは、門限ギリギリに間に合うバスの時間まで続いた。

 帰りのバスの中で、結はいつもの笑顔に戻っていた。


(6)

「これは、この(よわい)まで生きてまた宗家にお目にかかれるとは恐悦至極」

 寮に戻って消灯までの時間で、結が実家にネットで映像付きの通話をしていたのだが、「どうしても七緒に挨拶をしたい」と言って聞かないという結の曾祖父と話をする事態になっていた。

「あ、いえ、そんな。私なんてまだまだ未熟な身ですのでご指導いただくことも多く……」

 深々と頭を下げた曾祖父に対して、七緒もPCのカメラの前でお辞儀をする。

 現代の技術を使っているのに、やっていることは古風だった。

「時に、結は宗家の支えとなっておりますかな?」

「勿論、助けられることばかりです」

「それは光栄なことで……この爺も安心して冥途に逝けます」

 画面の向こうでどう見ても九十代後半に見えない結の曾祖父――七緒には七十代に見える――が弱々しい言葉を力強く放っていた。

「いや、あの……もっと長生きしてください」

 七緒はそう返すしかなかった。

 年配の人の冗談は時々シャレにならないブラックさがあると思うのだけど、まさにそれだ。

「宗家の温かいお言葉。胸に沁み入りました。それにしても、惜しい――性別が(たが)えばお互い良い許婚になれていたかもしれないというのに」

「は――?」

 許婚――?

「――曾祖父様(ひいおじいさま)、そのお話は既になくなったことです。それに、もうすぐ消灯の時間です」

 結が会話に割って入る。

「あ、うむ……すまない。では、これにて失礼仕ります」

 可愛いひ孫の言葉には弱いのだろうか。画面の向こうで少しだけ困っていた。

「し、失礼します」

 結の曾祖父はまた深々とお辞儀をして画面から消えた。


 消灯時間になり、それぞれのベッドに入る。今日はなんだかんだで忙しい一日だった。

「そういえば、さっき許婚がなんとか言ってなかった?」

 寝る前の無駄話――今日は話したいことが沢山あるのだけど、午前中の話は結がまた自分を責めそうだし、ショッピングモールの話は長くなりそうだし――必然的に選ばれた話はさっきの通話でのやり取りしかなかった。

 七緒が結のベッドのほうに横向きになって話しかける。

「私が生まれる前に決まっていたことですが、どちらかの性別が(ちが)えば許婚になってたそうです。今の時代なので強制ではないですけど、初めて聞いた時はそうならなくて安心しました」

 結は自分のベッドの上で仰向けのまま、天井を見つめてそう言った。

「左様でございますか……」

 結の曾祖父と話していたせいか、昔風の言葉が七緒に感染(うつ)ってしまっている。

 ――しまっているという言い方はあんまりだけれど。

 それにしても、許婚だなんて、もし実現していたら面白い運命だったのかもしれない――

 しかし、それは相手が結だからそう思えてるのかもしれないので「そうならなくて良かった」という結の言葉は七緒には少し残念なものだった。

 なんというか、理由もなく嫌われたみたいで――

「でも七緒さんに会えた今は――そうならなくて残念かもしれません」

「え――」

 七緒と同じ感想が結の口から出てきた。

 驚いた七緒が改めて結の顔を見たら、結も少しだけ此方を見ていた。結と視線が合う。

「おやすみなさい」

 結は少しだけ笑ってから目を閉じた。見慣れてきたけど、相変わらず美人だ。

「……おやすみ」

 七緒は姿勢を変えずに、結の寝顔を見ていた。


(7)

 翌日。今日は学園長室への呼び出しもなく、七緒たちは穏やかな一日を送っていた。

 しかし、学園内の全クラブ強制活動の日だったので、午後からは部室に集まっている。

 基本的に集まっても何もすることがないので、雑談の場になっていた。

「でも、大したことがなくて良かったですよね」

 司がポテトチップスを食べながら、昨日の悪魔との戦いに結論を出していた。

「そうなんだけど、結が気にするんだよね」

 七緒も困り顔でペットボトルのお茶を飲む。この部活は設備やら消耗品のようなものが何気に充実している。

「……防げた怪我ですし」

 結が言葉の上だけでも自分を責めなくなったのは良いのだが、まだやはり気にしている。

「結先輩、こういうのは結果論ですよ。怪我するのがわかってたら、そもそも最初から悪魔退治に行かなきゃいいって話になっちゃいます」

 司が理詰めで結を諭している。その理屈が合っているのかはいまいちわかりにくいけれど、七緒には正論だと思えた。結果がわかっているなら、最初から何もしていないだろう。

「だよねえ」

 七緒が相槌を打つ。

「それは……そうなりますけど――」

 結は返答に困っていた。


「――随分楽しそうじゃない?」

 突然、部室の扉が開いて、入ってきた生徒が部屋を見渡していた。

 制服の半袖シャツのボタンを限界まで開いていて、もう少しで下着が見えそうなのだが、スタイルが良いので不思議とセクシーに見えて、高校生離れした雰囲気を醸し出していた。

 この生体認証の扉を開けられるのは部員のみ。ということは――

「あー先輩だー」

 司がのんびりと手を振っていた。

「先輩、お久しぶりです」

 結が椅子から立ち上がり、頭を下げる。

 この人が「先輩」と呼ばれている人なのか、と思った途端、先輩が七緒のほうを見た。

「……この子が新顔?」

 上から下まで、確認をするように先輩が七緒を眺める。

「はい。八瀬七緒です。よろしくお願いします」

 そういえば、七緒が剣術部に入って数ヶ月経つが、初対面だった。七緒も椅子から立ち上がり制服の襟を整え、丁寧に挨拶をした。

「うん。可愛い……」

 先輩は七緒を見て、何かに納得してそう言った。

 ――可愛い。七緒を見ての感想なのだろうか。七緒は自分を「可愛い」などと思った事はない。

「結ちゃんのクールビューティとは違った可愛さと凜々しさがあるじゃない! もっと早く言ってよぉ!」

 先輩は部室の中央にある会議用のデスクのスペースに突っ伏して、拳を打ち付けていた。それも、心から悔しそうにしている。

「あの――何を言ってるんですか」

 七緒は不審げに先輩の様子を伺う。のだが――

「でしょ? 七緒先輩、可愛い系ですよねー」

 司は食べ終わったポテトチップスの袋を律儀に折りたたみながら、先輩に賛同している。

「え、二人で何を……」

 褒められているとは思うのだが――いや、このやり取りは新人に対する通過儀礼みたいなものなのだろうか。

「七緒さんは、可愛い人ですよ」

 何故か結まで流れに乗ってきた。七緒は慌てて結を見たが、真面目な顔をしている。

「ええ!? 結まで……?」

 結が冗談を言うようには思えないのだけど、展開がいきなりすぎて七緒が追いつけない。

「司ちゃんは、なんでもっと早く言ってくれないの!」

 言いながら先輩はテーブルから顔を上げて司に詰め寄る。

 何がそこまでさせるのか、七緒には謎だ。――というかこの空間と会話の流れが謎だ。

「メッセージ送ったじゃないですか」

 司も司で何一つ動じることなく、折りたたんで小さくしたパッケージをゴミ箱に投げ入れた。

「え、忙しくて見てない……」

 先輩は慌ててスマートフォンを取り出してなにやら確認をしだした。

 そして、数秒後にまたデスクに突っ伏していた。

「だと思った」

 司が遠い目をしてそう言っていた。

 そういえばこの「先輩」は以前警察に捜査協力を求められていたはずだが、そっちの方面で色々忙しいのだろうか。七緒の想像だけど。


「そうよ、こんなことを話しに来たんじゃなかった」

 先輩はそう言うと、またテーブルから顔を上げた。

「わ、復活した」

 急な動きに司が少し驚いていた。

「その傷口にちょっとだけ残ってた謎の組織片をもらって高速培養して解析したんだけど」

 先輩は七緒の傷を指差して、サラッと高校生とは思えない謎の技術を披露している――

「突然変異の可能性が高い。この前のものから遺伝子情報がちょっとだけ変化してた。だからこの前新しく張った結界に引っかからなかった――と推測される」

 まだ断言は出来ない――先輩が急に引き締まった顔になった。

「突然変異……」

 七緒が確認するように繰り返した。

「そう。それで悪魔が強くなっていたのなら、その強さの悪魔には頻繁に遭遇しないはず。でも可能性の段階だから注意するに越したことはない」

 先輩は解説を続けている。

 油断は出来ないけれど、それなら大きな希望と安心感が持てる。

「で、その傷は縫わなくて済んだ程度。もし長袖だったら防げてたかもしれないのよね」

 更に先輩が続ける。

「この程度なら――多分ですけど」

 七緒は答える。確かに普段の制服姿なら、上着が切れるくらいで済んでいたかもしれない。

 もっとも、今は夏服なのでどちらにしても半袖だったが。

「そこで、私が結界師と大学とで共同研究したコンプレッションウェア」

「コンプレッション……?」

 なんだか七緒がまた聞いたことのない言葉――いや、それよりこの先輩は何者なんだろうという疑問のほうが大きくなってきた。高校生で個人的に大学と共同研究をしてるとは、一体どういうことなのだろう。あと、結界師と共同研究をする大学も謎だ。

 だが、それを言ったら高校生が警察に捜査協力の時点で謎しか残らない。

 とりあえず七緒が一番最初に解決できる謎は「コンプレッション」という言葉だった。

「アスリートが練習でピタッとしたタイツみたいなの着てるの見たことない? あれ。筋肉の動きをサポートするって言われてるの」

「ああ、見たことあります。ジョギングしてる人とかも履いてたり――」

「それ。筋肉のサポートに加えて、結界の効果も文字通り織り込んでるから、あれの対悪魔版みたいな感じだと思って」

 筋肉へのサポートは気休めだけど、結界が画期的なのだ――と先輩が熱を込めていた。

 衣服に結界を織り込むというのは今までになかった技術だが、共同研究でそれを可能にしたと力説をしている。七緒には全く原理がわからない。

「基本的には今までの悪魔に対してのものだけど、変異した種にもそれなりに効果はあるはず」

「つまり鎧というか防御出来る服みたいなものですか?」

「そういう感じ。結ちゃんのサイズは知ってたんだけど、観察で七緒ちゃんのサイズも大体わかったから超速(ちょっぱや)で送るね。じゃあ、そういうことで!」

 そう言い残すと先輩は慌ただしく部室を出て行った。滞在時間はほんの十数分だった。


「先輩ってああいう人なんだ……」

 嵐のような人だと七緒は思った。

 だけど、話していると賑やかだし、ある意味ムードメーカーみたいな存在――多分。

 知らないうちに身体のサイズを観察されていたのは驚きだけど。

「通常運転であんな人ですね」

 司が冷蔵庫からサイダーを出しながら答えた。

「ところで、先輩ってなんて名前なの?」

 七緒が二人に尋ねる。

「――さあ?」

 サイダーの蓋を開けて司が首を傾げた。

「そういえば……お名前がわかりません」

 結も不思議そうにしていた。

 良いのかそれで――七緒の素朴な疑問だった。


(8)

「今日は呼び出しもないし、穏やかに――」

 済みそうだと七緒が言いかけた瞬間、校内放送のチャイムが鳴った。

 黙って耳を凝らしていたが、案の定七緒と結の呼び出しだった。

「……七緒先輩。フラグ立てちゃ駄目ですよ」

 司がPCを立ち上げて、モニターを確認していた。

 結界自体には異常はないとのことだが、地下通路を撮したモニターには悪魔の影があった。

「はい……ごめんなさい」

 厄介なことは大体気を抜いた時に起きるもの。七緒は思わず謝った。

 しかし、これで二日連続――明らかに漏れ出すペースが短くなっている。

「行きましょうか」

 結に促されて、二人で学園長室へと向かった。


「二日連続ですまないね」

 学園長がいつもの苦笑いを浮かべていた。

「ということは、またですよね」

 七緒の言葉に学園長は頷く。

「先輩からの報告は聞いているが、くれぐれも気を付けて。あとサンプルも念のために採取しておいて欲しい」

 そう話す今日の学園長には、腹が立つ程の爽やかな笑顔はなかった。

「……行ってきます」

 七緒は結を連れて学園長室を出ていく。

 学園長まで『先輩』呼びなのは何故だろうと思いながら。


「七緒さんはまだ怪我が治っていません。なので今日は無理しないでください」

 いつもの地下通路の入口。生体認証の扉を開けて、いざ中へ――となったところで、結が立ち止まり、七緒に向けてそう言った。

「だから、そんなに大怪我じゃないから」

 七緒は苦笑いで返す。

 傷口にはまだテープを貼っているが、それも明日か明後日辺りで取れる程度のものなのだ。

「――私に七緒さんを守らせてください。いえ、必ずお守りします」

 結は右手を、心臓の辺りに当てて、自分の制服のシャツを軽く掴んでいた。

「でも……」

 とても心強い言葉なのだが、その奥に何か悲壮な決意を秘めているようにも思える。

「七緒さんに宗家の覚悟があるように、私にも橘内の覚悟と意地があります」

 そう言って七緒を見た結の目は――とても強くて、美しい。

 油断をすれば飲み込まれそうな、その決意を秘めた目に対して、七緒は何も言えなかった。


 無言のまま、二人で地下通路を進む。前回のことがあったので、より一層の注意を払って歩いていたのだが、明らかに複数の悪魔が居た。結も確実にそのことに気付いている。

 気配はいつもの悪魔と同じような感じ――だが、仮に突然変異した種が一体でも混ざっていたら、一人では確実に苦戦するだろう。

「結、ここは二人で――」

 確実に倒そう――と七緒が言う間もなく、結は目視できた一番近くの一体に向けて走り出していた。結にしては珍しく、周囲が見えていないように感じる行動をしている。

 七緒はすぐにサポートに回れるようにその後を追うのだが、結は相手の間合いに入った途端、一太刀で悪魔を文字通り斬り捨てた。容赦がないと思える程にそれは鮮やかだった。

「え――」

 その手際の良さに七緒は驚く。決して結を過小評価していたわけではない。

 これまで――七緒がこの学園に来るまでは一人で悪魔と対峙していたのだから、実力は確実にあるとわかっていたけれど、ここまで気配の違う結を見るのは初めてだった。

 今日の結は確実に、鬼神のように人を超えた何かを纏っている。

 残りの影が動き出し、結に向かって来るのだが、結は一歩も退くことなくゆっくりとその影に向かう。そして――舞うように華麗に刀を振るい始めた。

 七緒も一応、サポートができるように位置取りをしているのだが、今日の結はそれすら必要としていない。まさに独擅場と言ったところ――七緒が学園に来るまではこうだったのだろうか。

「最後です――」

 悪魔の気配が残り一つになった時に、結が言葉を発した。

 周囲が見えていないようで、しっかりと現状の把握もしているので、何かの怒りに任せてという風にも思えない。いや、何かに怒っているのかもしれない――

「気を付けてね……」

 七緒はそれしか言えなかった。一応いつでもサポートできるようにはしていたけれど。

 それにしても、今日の結の戦いぶりは圧巻だ。


「――終わりました」

 最後の悪魔を倒して、刀を静かに納めた結が七緒のほうを見たが、鬼神のような気配は消えていて、いつもの結だった。

「……みたいですね。ところで、何かに怒ってた?」

 今日の七緒に出来ることを――学園長に頼まれているサンプルを採取――しながら尋ねた。

「いいえ? ただ、今日は七緒さんをお守りしなくては――とずっと思っていました」

 結が笑みを浮かべる。いつも通りの――穏やかな――でも何処かに芯がある結だ。

 それでも七緒は何故か、結をあまり怒らせないようにしようと少しだけ思った。


(9)

 今日も無事にではないが、一日が終わろうとしていた。

 七緒はシャワーを浴びて、休むためにベッドに入ろうとしたのだが、結に引き止められる。

「何? どうしたの?」

「お話したいことがあるので、一緒に寝ます」

 結がそう言い切った。結は何処か思い詰めたような表情をしていて、七緒も結のその言葉を拒否することができなかった。


 狭いベッドでこうして二人で寝るのは久々だけど、隣にある結の体温がとても心地良いと思った。それにしても、話があると言っていたわりには、結は何も言わない。

「何か話があるって言ってなかった?」

 七緒は身体を結のほうに向けた。向かい合う体勢――何か少しくすぐったい気分になる。

 と、結は七緒の左腕の傷がある場所――テープで保護している――にそっと触れた。

「結?」

「……申し訳ありません」

 何度目になったかわからない言葉――それだけ大事に想ってくれているのはありがたいけど、それが結にとって変なプレッシャーになっているのではないかと心配になる。

 現に今日のあの戦いぶりは、そういう理由でもないと説明が付かない。

「もう大丈夫だって。ほら、テープも剥がれそうになってるし」

 七緒は自然に剥がれるまで貼っておけば良いと言われている傷口の防水テープを改めて見る。

 自分で無理矢理剥がしても良さそうなのだけれど、結が余計な心配をしても困ると思って一応言われた通りにしているだけのものだった。

「でも、七緒さんはこれから――その……」

 珍しく結が口ごもった。

「これから――何?」

「今後、結婚とかそういったものがあります。それなのに傷を負わせてしまって――」

「待った。待った、待った。その話はあまりにもズレてる」

 傷があるから結婚がどうのこうのとか、一体いつの時代なんだ。

 大体この程度の傷で敬遠されるくらいの相手ならこっちから願い下げ――七緒はそう話す。

「でも、今後もし――私を庇ってそれくらいの傷で済まなかったらどうするんですか?」

「その時は結が責任取ってくれたらいいよ」

「え……」

「冗談。でも、結を守れるんだったら、これ以上の怪我でも大したことない。私にだってそれくらいの覚悟はあるんだよ? だから今日みたいに一人で無茶しない」

 二人で居るのだから、助け合っていけばいい――七緒はそう続けた。

「でも、だって……!?」

 七緒はまだ反論しようとしている結の頭を両手で抱えて、その綺麗な髪をクシャクシャとかき混ぜた。髪が絡まりそうになるけれど、元がサラサラなのでそれほどではなかった。

「な、七緒さん!?」

 七緒は、結の制止も聞かずにしばらく髪を弄んでいた。相変わらず手触りのいい髪だった。

「少しは肩の力が抜けた?」

「……それより驚きました」

 突飛な行動に、結が困ったように七緒を見ていた。

「大体、結はこっちのことばっかり心配してるけど、結にだってこれからそういうイベントはあるんだからね?」

 七緒は言いながら、結の未来を想像する。結の隣に居る人はどんな人で、七緒の知らないどんな結を見ることができるのだろうか――その人が少し羨ましいと思った。

「私にはそういうイベントはないです。ずっと七緒さんにお仕えします」

 クシャクシャになった髪を軽く整えながら、結が拗ねたように返す。

「お仕えってそういう関係性はもう終わった話でしょ――って本気でそんなこと言ってる?」

「はい」

 即答だった。驚くくらいに迷いが一切なかった。

「じゃあ、結の隣に居るのは私なのかな……」

 結がずっと傍に居てくれる――だとしたら、嬉しいかもしれない。

 いや、そもそも結のそれは『家』の宿命みたいなものを引き摺っているだけなのだから、それで結の自由を奪ってはいけない――でも、本当にずっと隣に居てくれるのなら――七緒はきっと何物に代えても結を守るだろう。結がそうであるように。

「私の隣……ですか?」

 結が、不思議そうに七緒を見ていた。

「……なんでもない。おやすみ」

 ずっと隣にだなんて――してはいけない想像をしてしまったようで、七緒は落ち着かない気分になる。結に背中を向けて、無理矢理目を閉じた。


(10)

 早朝、目が覚めた七緒は、ベッドの上でのその体勢に自分で驚いた。

 どうやら夜中に、結のいつもの癖で知らない間に抱き付かれていたらしいのだが、寝苦しくて起きるどころか、結を抱きしめ返していた。

 今までは――といっても二、三回。いや四回ほど――抱き付かれる度、息苦しくて目が覚めていたのに、一体何がどうなって今回はこの状態になったのか、七緒にもわからない。

 結は七緒の腰に腕を回して、鎖骨の辺りに顔を埋め、安眠と言っていいくらいに静かな寝息を立てている。ちなみに今夜は七緒もよく眠れていた。

「ん――」

 慌てて結の身体に回していた手を離した七緒の身動ぎで、結の目が覚め――ない。

 まだ、安らかな眠りの中にいるようだ。

 それにしても、香水などを使っていないのに、どうして結はいい匂いがするのだろう――

 違う。そうじゃなくて、どうやってこの体勢から脱すればいいのかを考えなくては、誰かに見られたら――誰も見ないけど――いや、落ち着け。とりあえずそっと離れれば――そう思い、七緒は少しだけ身体を後ろに引いたが、結は追い(すが)るようにして七緒から離れない。

 狭いベッドの上ではどう動いても結の腕が解けなかった。もしかしたら、とっくに目が覚めているのではないだろうかと思うくらいには、しっかりとホールドされている。


 数分間の時間の無駄とも思える戦いに負けた七緒は、素直に結を起こすことにした。

「結、起きて――」

 七緒は結の肩に手を置いて軽く引き剥がすように結の身体を押す。

「んん――」

 結が起きて腕が解け、やっと身体が少し離れた。

 と、思ったら焦点の定まらない寝惚けた目で、七緒を見ている。

「七緒……さん……?」

 この様子ではまだ半分夢の中だろうか、それでも結は七緒を認識して名前を呼ぶ。

 それにしても、間近で見ると結は寝惚けていても綺麗な顔立ちをしている。

「……おはよう」

 七緒はとりあえず挨拶をして、結を伺う。

 窓の外はまだ夜から明るさを取り戻していないので、おはようには早い時間だったけれど。

「七緒さん、だ……」

 解けた結の右手が、七緒の頬に触れた。そのまま――何故か結の綺麗な顔が近付いてくる。

「うん。いや、ちょっと待っ――」

 これは確実にキスをしてしまう寸前のそれではないか。

 駄目だ――いや、相手が結なら駄目じゃないかもしれないけど――順番が違う。

 そもそもツッコミどころは其処じゃない。

 ありとあらゆることが七緒の頭を巡るのだが、どれもこの状況の解決にはならない。


 やがて――七緒の唇に、結の唇が触れた。


 結は柔らかく笑ってからそのまま、七緒の首元辺りに顔を埋めて再び深い眠りに落ちた。

 その腕はまた、七緒の身体にしっかりと抱き付いている。

 七緒は何も言うことができなかった。

 ショックだとかそういうことではなく、自分の中にぼんやりと存在していた一つの答えが導き出されたような感覚だった。

 それを確かめるように、七緒は結の身体をそっと抱きしめる。

 思いの外華奢な結の身体と、心地良い体温が腕の中にあり、その存在を愛おしいと感じている七緒の心が、その答えを証明していた。


 これは、恋なのだ――七緒は、結に友情以上の感情をいつの間にか抱いていた。


 それにしても、寝込みを襲うならともかく――いや、良くないことだけど――寝惚けている人に襲われるってどうなんだろう。という新しい疑問を七緒の中に残して。


(11)

「おはようございます」

 ベッドの上で微睡(まどろ)んでいた七緒は結の声で完全に目が覚める。

 時計を見ると、朝とも昼とも言えない時刻――

 二度寝をすると変な時間まで寝てしまう。しかも再び寝付くまでに時間がかかったので、余計におかしな時間に目が覚めてしまった。

 結は午前中の自主的な稽古から帰ってきたところだろうか、スポーツウェアを着ていた。

「おはよう……」

 七緒は挨拶を返すが、若干ぎこちない感じになったような気がする。

 結はいつも通りに見えた。寝惚けていたから覚えていないのだろうか――いつも通りだ。

「どうかしましたか? あ、やっぱり怪我が――」

 起き上がったはいいが、ベッドの上から動かない七緒を見て、結が心配そうに尋ねた。

 この様子――結は確実に早朝の出来事を覚えてない。

「怪我はもう大丈夫だって。ちょっとボケーッとしたかっただけ。あー朝ご飯食べ損ねた」

 七緒はそう言うと再びベッドに寝転んで、すぐに起き上がり、身支度を整えるために着替え始めた。結が覚えていないのなら、七緒もいつも通りにしなくては――

 これ以上結に重荷を背負わせないように、そう思った。

 結はこれから普通に恋をして、普通に結婚して、暮らしていくのだから。

 ――悪魔退治は別だとしても。


 寮で昼食を待ってる間に、七緒と結に宛てた荷物が届いた。差出人は大学の研究室。多分先輩が言っていた対悪魔用のコンプレッションウェアだろう。箱を開けると、想像通りの物が何枚も入っていた。本当にアスリートが着ているような、機能的なデザインの服だった。

 七緒は早速試着をしてみる。身体にフィットする力が少し強い。

 これが筋肉への効果なのだろうか――対悪魔への効果は、実戦で使わないとわからないのが一番の課題だと思うけれど、それでも心強いことには違いない。

「気のせいかもしれませんけど、動きやすいですね」

 結も試着してストレッチをするように腕などを動かしていた。

「七緒さん、お昼が済んだら道場で動きを試してみませんか? あ、もしよろしければ手合わせもお願いしたいです」

 午前中に自主練をしているのに、更に午後にも予定外の稽古――しかも手合わせをしたいだなんて、今日の結は何処か張り切っていると思った。

「うん。わかった。って、なんか今日調子良いね?」

 七緒は訊いてから「しまった」と思った――思い出されたら結を困らせてしまうのに。

「なんとなくなので覚えてないのですけど、今日は良い夢を見た気がしたんです」

 即答だった。結は絶対に覚えていない。

「……良かったね」

 あれを良い夢だと思ってくれているのならそれでいいと七緒は思った。

 何気にファーストキスだったけれど――


 結はこれから普通に恋をして――普通に結婚して――普通に――でも、普通ってなんだろう。


(12)

 昼食が済み、腹ごなしに二人で剣術部専用の道場へ向かう。

 部員が四人しか居ない――しかも二人はマネージャーなのに専用の剣術場があるのは、ありがたい話だと七緒は思った。本音を言えば結界とかにも予算を回して欲しいけれど。それはまた別の話になるのだろう。大人の世界は難しい。


 ほぼ真剣に近く作られている練習刀を持って、先輩から送られてきたコンプレッションウェアの着心地と、可動性を七緒と結、それぞれで確認する。

 気のせいかもしれないが、少しだけ動きやすいような感覚があった。

 今日は七緒がいつも使っている刀ではないのだが、それを加味しても刀の重さが腕の負担にならない感覚――面白いと思った。

「わりと良い感じかな。結はどう?」

「動きやすい気がします。服一枚でこれだけ変わるんですね」

 結は練習刀で素振りをしながら感心したように答えた。

「では、今から、手合わせをします」

 七緒は一度刀を鞘に納めてから、居合いの要領で結に刀を向けた。

「え、いきなりですか――っ!」

 そう言いながら、結は七緒のいきなりの攻撃を(しのぎ)で上手く受け、刀の軌道を逸らして流す。

 勿論、七緒のほうも本気ではなかったけれど、受け損ねればそれなりのダメージは確実な一太刀だった。それを上手く受け流せるのは流石と言うしかない。何故か七緒は嬉しくなる。

「……よくできました」

 剣術の場では七緒が上の立場なので、冗談交じりで少しだけ偉そうにしてみた。

「恐れ入ります」

 結は真面目に受けてそう返す。この辺りが、いかにも結らしい。

「お互い手加減少しずつで、行くよ」

 七緒は刀を持つ手を(ひるがえ)して、更に攻撃を加えた。

 それもまた上手く受け流し、結も七緒に反撃してくる。

 勿論、お互い本気になる一歩手前で、文字通りの鎬を削る手合わせが始まった。


 小一時間が経った頃だろうか、手合わせにしてはお互いに体力もそこそこ使い果たしたので、七緒がストップをかけた。

「手合わせに夢中になってたけど、今日呼び出しなくて良かったね……」

 一息吐いてから、七緒はしみじみと言う。これで呼び出されていたら面倒だったと思う。

「――逆に勢いでどんな悪魔でも倒せてたかもしれないですね?」

 結が少しだけ苦笑いをしながら返した。

「そうかもね。今日の結は調子が良いし、私も久々にしっかり手合わせができて身体が軽い」

 七緒はクールダウンをしながら、それに答える。

「今日は私からお願いしましたけど、七緒さんが良ければ、いつでもお付き合いしますよ?」

 結は一連の手合わせの動きをもう一度確認していた。

「――うん。ありがとう。その時はお願いするね」

 嬉しい言葉だけど、結を此方の都合で振り回すわけにはいかない。七緒は当たり障りのない返事をした。

「七緒さん――」

 そう言った結が、七緒を不思議そうな顔で見ていた。

「? どうしたの?」

 七緒も不思議そうに尋ねる。

「いえ、返事に少し間があったので、遠慮されているのかなと……」

 結の察しが良い――自分がわかりやすいのだろうか。

「そんなことない。とは言い切れないかも」

 七緒は曖昧に答えた。

「えっと、どっちなんですか」

 結は困惑している。

「この頃、結が色々大変なんじゃないかなって思うんだよね」

「大変――?」

 答えた結の表情は更に不思議そうになっていた。

「悪魔退治とか結の家のこととか、そこに私にお仕えするとか――それはまあ、今はもうなくなった関係性だけど、そういうのが重なっちゃうのは結の自由を奪うことになる。だからせめて私のことは気にしないようにして欲しいなって」

 口を吐いて出たそれは、七緒の本心だった。

「……私は別に自由を奪われている訳ではありません。此処に居るのは私の意志です。それに、宗家にお仕えするというのも、古い話ですし最初はそんなつもりはありませんでした。でも、七緒さんが七緒さんだから、そういう気持ちになったんです」

 そう答える結は引き締まった表情になっていた。

「それは、相手が私じゃなかったら例え宗家の命令でも拒否するってこと?」

「はい。嫌なら嫌だと言います。お仕えもしません」

「そう――結はそういう人だよね」

 七緒はそう言って笑う。

 寮で寝食を共にしているうちにわかったことだが、結は色々なものに流されているようで流されない。そういう強固な芯を確かに持っている。初めて会った時こそ、まだ何かに囚われている感じはあったけれど、それでも自分の意志はしっかりと持っていた。

「どうして笑うんですか」

 真面目に話しているのに――結がそう続けた。

「ごめん。なんか嬉しくて」

 結は自分の意志で七緒を慕ってくれている。『家』だとかそういったものに関係なく、一人の人として――それを考えると、不思議と嬉しくなる。


 七緒は、出来るだけ長く、結とこのままの関係で居たいと思った。


(13)

 あれから――悪魔が結界から漏れ出ることもなく、無事に新学期を迎えられた。

 三日に一回程度になっていた呼び出しも全くなかったので、逆に不安になるくらいだった――といっても、一週間ほど呼び出しがない程度だったけれど。

 結との関係は変わらず、良い友人でルームメイトといった感じだった。


 七緒たちは始業式が終わって部室に集まっている。

 今日は珍しく先輩も居たので、この前に採取していた悪魔のサンプルの結果を説明してもらうという、座学――というのだろうか――の場になっていた。

「最新のサンプルでも若干の遺伝子の変化が認められる――のだけど、その前の強い個体と決定的に違うのは、塩基配列の中にある特定の遺伝情報――仮にAとする――司ちゃん寝ないで」

 居眠りしている司を先輩が目ざとく見付ける――とはいえ部室には四人しかいないのですぐに見付けられるだろう。

「だって、難しいですもん。もうちょっとレベル落としてくださいよ」

 生物は苦手だと司が不満そうに答えていた。その意見には七緒も賛同したいのだけど、先輩が忙しい時間を割いて一生懸命説明してくれているので、口には出せなかった。

「それもそうよね。では、中学生くらいに説明するようにします。アルビノって知ってる?」

 先輩はあっさりと司の意見を採用していた。

「元々あるはずの色素がない動物――白いウサギとか白いカラスとかのことですよね」

 今まで真面目にノートを取っていた結が答える。

「それ。色素が作れないと言われている。そのメカニズムはまだ不明。要は突然変異。あの個体も突然変異と結論付け出来るデータが揃ったわけ」

 詳しく説明するとまた長くなるから結論だけを伝えると先輩が言った。

「あれについては以前も突然変異の可能性が高いって言ってましたよね?」

 七緒が尋ねる。あの段階ではまだ推測の段階だったけれど――

「そう。私の読みは正しかった。どうだ」

 先輩が清々しいまでのドヤ顔をしていた。

「対処法はどうすればいいんでしょうか」

 先輩のドヤ顔を物ともせず、結が質問を投げかける。

「えっ?」

 そう言ったきり、先輩が言葉に詰まっていた。

「対処法がないんですか?」

 七緒が聞き返す。

「二人なら倒せるでしょ? ってかこの前倒せたでしょ?」

 先輩は七緒と結を交互に見てそう言った。どうも先輩には想定外の質問だったようだ。

「まあ、そうですね」

 七緒は答える。手こずったが確かに二人で倒せた。

 少々の怪我はしたが、アクシデントに近いものだし結果的に軽傷で済んでいる。

「七緒さん、そこで納得しないでください。七緒さんは私を庇って――」

 結が椅子から立ち上がった。

「それはもう済んだことだって。怪我だってすぐ治ったでしょ」

「だって、もしまた突然変異の悪魔が出たら――」

「最近悪魔も空気読んでくれてるし、新学期の初日くらいは出な――」

 言いかけた途端、校内放送のチャイムが鳴る。案の定七緒と結の呼び出しだった。

「七緒先輩、フラグ立てちゃ駄目なんですってば」

 司が溜息と共に二度目の台詞を口にしていた。

「ごめんなさい……」

 面倒なことは大体気を抜いた時にやってくる。

 しかし、これは七緒が悪いのだろうか。わからない。


 学園長室。七緒と結をいつものように出迎える学園長が居た。

 先輩の「あの服着込んで行ってね」との言葉で、制服の下にコンプレッションウェアを着ていたので来るのに少し時間がかかったのだが、学園長は文句一つ言わないので逆に心配だった。

 今までに学園長が文句を言ったことはないけれど――

「ということで、また頼むよ。気を付けて。あ、結界師にはもうデータを送っているので、結界はもうすぐ強化される予定――今度は遠隔操作で済むので安心して欲しい」

 予算の許可が下りた。といつもの爽やかな笑顔で学園長がそう告げていた。


(14)

「じゃあ、行きますか」

 七緒が地下通路への扉を開けた。

「はい」

 結もいつものように一緒に歩みを合わせて着いてくる。

 最初の頃は結が先導していたのに、数ヶ月で立場が逆転しているのが、面白いなと思った。


「本当に悪魔って空気読んでくれないよね」

 慎重に気配を探りながら地下通路を進む途中、それでも雑談は出て来る。

 七緒は冗談交じりでいつもの軽口を叩いていた。

「結界が強化されれば――それでも漏れ出る悪魔は居るでしょうけど」

 でも倒せば良いだけですよ――結はそう続けた。

「まあ、そうなんだけどね。来年は受験とかもあるのになって」

 冬月学園には一応付属の大学もあるのだが、学部がそれほど豊富ではないし、所在地も高校から少し離れるので、この放課後の仕事はどうなるのか――

「それは考えていませんでした……」

 結が困ったような笑みを浮かべた。

「まあ結は成績も良いから何処にだって行けるよ」

 此処に縛られずに――七緒はそれを言いかけて飲み込んだ。結は縛られている訳ではない。

「何処にでも――でも、私はこれと言って興味のある分野がないです」

「それは、これから見付けようか。結も私も」

「そうですね。一緒に見付けたいです」

 結が七緒に向けて笑う。見慣れてはいるけれど、綺麗な微笑みだと思った。


 そして、やはり結には普通でいて欲しいと、七緒は強く想う。


 そのためだったら、自分が嫌われてでも――だけど、結の『普通』ってなんだろう?


(15)

 地下通路の気配が変わった。いつもの気配とは違う――だけど、覚えがあるこの気配は、突然変異した悪魔のものだ。それくらい、禍々(まがまが)しさがあった。


 やがて小さな影がその姿を(あら)わにする。七緒が視認できたそれは――

「ねえ、結。あの姿『誰』に見える?」

 七緒は相手のその姿を見て言葉を失っている結に、いつもの調子で尋ねた。

「……七緒さんに見えます」

 結はかろうじてその一言だけを返す。

「ありがとう――幻覚じゃなかったみたい」

 その悪魔は、七緒の姿をそのまま写していた。制服もそのままに、唯一違うのは、今日七緒たちが着込んでいるコンプレッションウェアの有無くらいか――それも、(もや)のようなものが悪魔を取り巻くと、すぐに同じ姿に変化していた。


「まさか自分の姿と戦うとはね……」

 七緒は静かに刀を抜いて正眼に構える。相手も、鏡のように同じ動きをしていた。

 結も挟み撃ちをするように少しの距離を取って、刀を構える。

 七緒は悪魔への踏み込みと同時に刀を振りかぶって、斬り付けた。悪魔は刀でそれを受ける。

 力では七緒が圧している。相手の動きを抑え込んだまま、次への攻撃――隙を探す。

 隣では結が悪魔に斬りかかろうとしていた。だが――

『結――』

 悪魔が不意に結の名前を呼んだ。七緒と同じ声で、同じ口調で――

「――!」

 一瞬、結の攻撃の手が躊躇(ためら)いを含んだ物に変わった。

 途端、悪魔が刀から片手を離し、隙を突くように結の喉元を掴もうと手を伸ばす。

 そのまま捕らえられた結が、強い力で地面に叩き付けられる。

 悲鳴にもならない結の呻き声が七緒の耳に届いた。

「結!」

 七緒は思わず駆け出して、結の元に向かおうとしたのだが、すぐに悪魔の刀に邪魔をされる。それは鋭い突きで、七緒の左腕の辺りを確実に狙ってきた。

 七緒はそれを寸前で打ち払った――ように思えたが、悪魔は実際の七緒よりも少しだけリーチが長かった。悪魔の持つ刀の切っ先が七緒の服を掠める。

 制服のシャツだけが切れていたが、内側の身体に鈍い痛みが伝わる。

「切られてないけど衝撃はあるんじゃん……言っといてよ……」

 七緒は苦笑いで独りごちる。この服が一枚なければ、確実に切り傷が出来ていただろう。

 それよりも、結だ――立ち上がろうと刀を杖代わりに地面に立てている姿が確認できたので、大きな怪我はない――多分。わからない。だけど、七緒は結を守れなかった。悔しい――

「この……」

 結の元に向かいたいが、悪魔に阻まれ近付けない。

 僅かな隙もなく、七緒に向かって刀を振るってくる。

 同じ姿をしている――おそらく同じ能力だ――というのに、受け止めるのが精一杯だ。

 ――違う。自分が焦っているということを七緒はうっすら認識していた。

「な……七緒さん……」

 立ち上がった結が此方を見て、その表情に困惑の色を浮かべていた。

 刃を交えている間に結と悪魔の立ち位置は変わり、どちらがどちらなのか――結には判断できない状態だろう。


『結、加勢を――』

 悪魔が結に囁く。

「来るな!」

 七緒は短く叫んで、自分と同じ姿をしている悪魔に斬りかかる。

 しかし、焦りを含んだ一撃は、いとも容易(たやす)く受け流されてしまう。

 七緒は悪魔から離れて大きな間合いを取った。

 「落ち着け」と自分に言い聞かせて悪魔との間合いを計る。


 ふと、一つの考えが七緒の頭を過ぎった。自分と同じ姿をしているなら、弱点も同じはず――

 一か八かで仕掛けるしかない――七緒は自分の弱点へ向けて、一太刀を浴びせた。

 それは、小さな頃に怪我をした右膝へ向けてのものだった。

 誰も知らない――七緒にしかわからない弱点。思った通り、悪魔の反応が少し遅れた。

 ここまでコピーされているのは気持ちが悪いとも思うけれど――

 右膝に刀が届く寸前、悪魔の持つ刀で受け止められた。互いの刀で、ほぼ互角に押し合う。

 ここに結の一太刀があれば圧倒的に優位に立てるけれど――それでは――

「七緒さん、加勢します!」

 そう思っていた瞬間、七緒の心を読んでいるかのような結の声が聞こえた。

『結! 今だ!』

 悪魔の言葉に呼応して結が走り出していた。

「来るなって言ってる!」

 七緒も叫ぶ。これは、賭けだ。結なら――今の言葉でどちらが本物かわかるはず。

 たとえ見分けが付いていなくても、結に斬られるのなら、不満はない。


 ――結の鋭い白刃(はくじん)は、悪魔を裂いていた。悪魔から小さな叫び声があがる。


 七緒は攻撃の手を緩めずに、追い打ちをかけた。

 もう悪魔の追撃はこない。やがて、悪魔のその姿が何も残すことなく、完全に消滅した。


(16)

「よく、本物がわかったね」

「……七緒さんなら、あの状況で絶対に『来るな』って言います」

 結はそう言うと崩れるように座り込んだ。

 最初の一撃がかなり強く影響している様子だった。

「はは――信用してくれてありがとう。なんとかなった……」

 七緒もその場に座り込んで、大きな安堵の息と共に呟く。

 疲労困憊――だが、かろうじて立ち上がって地上に帰るくらいの体力はまだ残っている。

「……七緒さん、大丈夫ですか?」

 結も同じような感じだろうか――だが、その場に座り込んで立ち上がれていない分、結のほうがダメージは深いかもしれない。

「そっちもね」

「……私は大丈夫です」

 そう言いながらも、結はまだ、立ち上がれていない。

 とりあえず二人とも無事――厳密にはそうではないけれど――なのは良かった。

 そして、やはりこの言葉を言う時が来たと七緒は思った。


 七緒は、立ち上がると、まだ立ち上がれていない結の隣に歩み寄り、座る。

 そして結の目を見た。

「……宗家として命令します。結はもう悪魔と戦わなくていい」

「聞けません――何故、いきなりそんなことを言うのですか」

 結は不思議な――というより戸惑いの目で七緒を見た。

「もう結には悪魔退治のこととかを背負って欲しくない。それを背負うのは宗家である私の宿命です。それなら結をこれ以上巻き込めない。ただでさえ私がそういうことを知らされてない間、ずっと戦ってくれてたんだから、今度は私。これは宗家としての覚悟です」

 七緒はいつもと違う口調で、ただ淡々と話していた。

 できるなら結と一緒にいつまでも、こんな日々を過ごしたい。

 だけど、それはこれからの結の自由を奪ってしまうことになる。

 ただでさえ、結は今まで一人でそれを背負ってきたのだから――

「でも、一人では――今だって――」

 これからも突然変異の悪魔が現れたら、一人では確実に勝てない。それは七緒も結もわかっていた。だが、手段が全くないわけではない。

「もうすぐ結界も強化されるし、私一人でも大丈夫だよ。だから結はこれから普通に――」

 なんて不器用なのだと七緒は自分でも思う。

 だけど、さっきのようなことから結を守るにはこれしかない。

「私にはこれが普通です。七緒さんの傍に居て、七緒さんと一緒に戦う。それが私の普通です。だから、そんなこと……言わないでくださ……」

 結が言葉に詰まって、涙を零した。

 本当に七緒は不器用だ。好きな人の泣き顔なんて見たくないのに――こうすることでしか守ることができないのだから、嫌になるほど不器用だ。


「七緒さん――?」

 結の手が恐る恐るといった感じで七緒の頬に触れる。いつの間にか、七緒も泣いていた。

 誰かに涙を見せるなんて、随分前に止めたはずなのに――

 結と離れたくない想いが、七緒に涙を流させていた。

 もう駄目だ、自分の気持ちに嘘は吐けない。

「――結の普通の中に、私がずっと居てもいい?」

 七緒は自分の頬に触れている結の手を取り、その目を真っ直ぐに見て、そう尋ねる。

 悪魔退治を生業とする家に生まれた七緒のこの言葉は、結の自由を奪うもの。縛り付けるもの。そして、危険の中に留めてしまうもの。

 ――それでも、離れたくない。傍に居て欲しい。

「ずっとですよ? 絶対ですよ?」

 結の涙が止まって、その言葉を確認するように七緒の手を握り返した。

「こっちも、言ったからには絶対離さないからね?」

 七緒は繋いでいる手に力を込める。結の手は、戦うための美しい手をしていた。

「覚悟してます」

 結が即答する。一切の迷いがない。

「どれくらい?」

 七緒が少し笑って訊く。結は七緒をしばらく見つめてから、一瞬目を伏せて思い切ったように七緒の唇にキスをした。

「――これくらいです」

 唇を離した結は少しだけ照れたような笑みを浮かべる。

「……じゃあ、今度はこっちから覚悟を伝えていい?」

「はい」

 七緒は結の制服の襟元を掴み、その唇にまた自分の唇を重ねた。


 二人がそれを確認するために、言葉は何も必要ない。

 これが、七緒たちの普通なのだ。


〈了〉




(Extra1)

「この前の悪魔、七緒ちゃんの血を参考にしたかもしれないのよね」

 いつもの放課後、いつもの部室。先輩が唐突に話し出した。今日は珍しく司は居ない。

「はあ……血ですか」

 すっかり体力を取り戻した七緒が、ペットボトルのお茶を飲みながら首を傾げる。

 七緒のドッペルゲンガーと戦って数日、先輩は戦いの様子を録画した映像を何度も見ていた。

 ちなみに結界はあの翌日に強化され、今週はまだ呼び出しがなかった。

「七緒さん、あの時の怪我じゃないですか?」

 結は打ち身程度で済んでいた。それでも数日は身体を動かしづらそうにしていたが、もう普段通りに過ごすことができている。

「一滴か二滴落ちたくらいで……?」

「遺伝情報を解析するにはそれで充分足りる量なのよね」

 真面目な顔で先輩が言う。科学の進歩は素晴らしいが、物騒な話だなと七緒は思った。

「サンプルがあればもっと詳しく調べられたんだけどなあー」

 ノートPCを閉じて、先輩が溜息を吐いた。

「あー……あの時はそんな余裕なかったです……」

 あの時は二人ともボロボロ一歩手前だった。サンプルの採取をする余裕は――

「でしょうね。いちゃついてたくらいだから」

 先輩が鋭い一言を放った。

「あれは……」

 七緒はそれ以上言葉を発することが出来なかった。

 地下通路は部室と学園長室でしっかりとモニターされているのだ。

 それをすっかり忘れてあの行動――思い出すと恥ずかしくなる。

 学園長も司も何も言わなかったけれど、この先輩は言う人だ。多分。

「いいのよ、二人を見てればわかるし」

 私もいちゃつく相手が欲しい――先輩が遠い目をしていた。

「で、その参考になったというのは」

 七緒が強引に話を戻す。

「そうそう、仮説だけど。結界から漏れ出た悪魔が、この世界で生き残るには、この世界の住人に擬態するのが最善。其処に七緒ちゃんの血――遺伝情報があった。私だったら超活用する」

 先輩はドヤ顔でサラッとマッドサイエンティストっぽいことを言っている。

「じゃあ、これからは怪我とかしないようにもっと気を付けないとなんですね」

 今まで黙っていた結が真剣な様子で言った。

「そう。それが言いたかったの。できるだけ怪我しない、それ大事よ」

 先輩なりの心配の仕方なのだろうか。先輩はかつてないほど真面目な表情だった。

「わかりました。気を付けます」

 結は決意も新たに、何か気合いを入れていた。

「でも、今度また遭遇したらサンプルお願いね。七緒ちゃんの遺伝情報欲しいのよね」

 先輩はまたサラッとマッドサイエンティストみたいなことを言っていた。




(Extra2)

 あれから幾日か経ったある深夜のこと。


「え……なんで……」

 七緒がベッドの上で自分に抱き付いて寝ている結を見て驚いたように呟いた。

 別に寝たはずなのに結が同じベッドに寝ている。しかもまた七緒に抱き付いている。

 ――というかあれから、一緒に寝ることは二人ともがなんとなく避けていたのに、寝惚けて潜り込んで来たのだろうか。どちらにしてもいきなりで七緒は驚いた。

「結、起きて。自分のベッドに――」

 肩を軽く揺すって、結が起きたのはいいのだが、また寝惚けた目で七緒を見ている。

「七緒、さん……だ……」

 寝惚けたまま、結は七緒に迫ってくる。

「って、待って――」

 そのままキスをされた。唇はすぐに離れたけれど。

「ちょ、……心の準備ってものが――」

 結の手が七緒の鎖骨に触れる。そのまま――その手が服の中に入り込んでくる。

 寝惚けているのに、どうしてこの前より行為がエスカレートしているのだろう。

 そんなことより、なんとかしてこの状況を――と思っていたら、糸が切れたように結が七緒の肩に顔を埋めて眠りに落ちた。

「……本当に寝てるの?」

 結からの返事はない。ただ七緒に強く抱き付いて安らかな寝息を立てていた。

「――もう。この天然」

 七緒は結の身体をそっと抱きしめる。

 盛大に寝惚けるのを天然というのかよくわからないけれど――でもこの感覚は心地良い。


 翌朝――ドアが開く音で七緒は目が覚めた。

「あ、おはようございます」

 結が爽やかに挨拶をする。朝の不定期なランニングから帰ってきた音だったようだ。

「おはよう……調子良さそう?」

 結は大体調子の良い時には早朝からのトレーニングをしている。

「はい。なんだか素敵な夢を見たような気がするんです」

 結は爽やかに言い切った。

「……うん。良かったね」

 やはり結は覚えていない。

 しかし、あまり遠くない将来に、現実になりそうな気がした。

 いや、寝惚けている結の行動も現実なのだけれど――

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