木漏れ日通りのかげろう
その日は、気温が三十六度を超えるという炎天下にあった。真夏の正午過ぎ、和田文香は、吹き出す汗をハンカチで拭きとることもしなくなっていた。何度やっても無駄だと思ったからだ。
耐えがたい猛暑が襲い掛かり、嫌味な程に熱線を浴びせて燃える太陽を恨んだ。
アスファルトからは陽炎が揺らめき、視界を惑わせて嘲笑うようにも思える。勝手知ったる道ならば、適当な喫茶店に入り込んで冷えたアイスコーヒーで落ち着きたいところであったが、ここは碌に歩いたこともない土地だった。
文香は、今日、アルバイトの面接のために、普段利用しない駅で降りて、面接先のレストランに行ってきた帰りだった。
春からやっていたアルバイトは先週辞めた。原因は実に下らない話で、職場の環境、主に人間関係に疲れたためだ。住んでいるアパートの最寄り駅傍にあるスーパーで働いていたが、お局様とも言うべきオバサマのパートの理不尽な要求に応えられなくなってしまったのである。
仕事場は近く、時給も低くなかったので、そこに決めたのに、何かにつけて仕事を押し付けられるし、パート仲間で暗黙の了解的に作られたルールが文香を苦しめた。周りは中年のオバサンが多く、自分と近い年代の仲間が居なかったことも辞める原因になっただろう。
今度は若い人が働くアルバイトをしたいと考えて、文香は自宅からは離れた都市部のレストランでウェイトレスとして働く事を決めたのである。
アルバイト募集のサイトで若い人ばかり、という項目を重要視したが、給料も良いし、交通費は支給されるとのことだった。賄いも出るし、ここは自分の理想にバッチリだと考えた。
午前中の内に面接をするとのことで、文香は朝から蝉時雨の中、見知らぬ道を歩いて、面接を受けてきたのである。
面接自体はあっさりと終わった。面接をしてくれたのは三十代ほどの男性で、ちらりと店の様子を確認したが、十代らしき女の子が数名働いているのを確認できた。大学生か、はたまた自分と同じフリーターだろう。仲間を見付けられそうで、文香はとりあえずは希望通りの職場だと安心していた。
昼を過ぎて、空腹を感じた文香は、どこかで落ち着ける場所はないかと彷徨ったが、初めて歩く道には、ゆっくり出来そうな店が見付けられなかった。
熱波を受けながら、少しでも涼しそうな日陰を選び歩いていたところ、表通りから外れた少しばかり狭く侘しい通りに入り込んだ。
――涼しい。
狭い道に、ひゅう、と風が吹き抜けていった。
と――、空を見上げると、先ほどまで突き抜けるような青空が広がっていたように思うのに、今は灰色の雲が覆いかぶさるように敷き詰められている。
いつの間にこんなに曇ったのだろうと文香は少しだけ疑問を浮かべたが、それも直ぐにどうでも良くなった。
「あっ……」
思わず声を出してしまった。人通りが全くなかったから、誰にも聞かれなかったのが幸いだ。
薄暗い通りに面して、一件の喫茶店が静かに佇んでいた。黒檀のように黒い扉が艶やかで、看板にはこう店名が記載されている。
――『木漏れ日通り 喫茶:かげろう』――。
看板にはカップのイラストが細やかに描かれていることから、喫茶店で間違いないだろう。妙に味のある店構えに、文香は少し物怖じをした。いかにも常連が付いていそうな、隠れ家的印象だ。
それにしても、木漏れ日通りとは皮肉な名前だと、文香は少し笑った。
この通りにはまるで木漏れ日なんて差し込んでいない灰色の空が広がっているのだから。
ともかく、喉も渇いていたし、空腹と面接で疲弊した精神力を癒すために、ここで休憩していこう。そんな風に考えて艶やかな黒塗りのドアを押し開いた。
――かららんらん。
小気味いい音色が響き、見た目よりも軽い扉が開き、その喫茶店に入ると、すぐに香ばしい珈琲の香りが鼻孔に感じられた。
店内は基本的にはシックな印象で、テーブル席が二つ。奥にはカウンターがある。ジャズでもかかっていそうな雰囲気の黒で統一されている店内は、高級感があった。しかし、BGMなどは何も奏でられていない。しぃんとした店内には客も居ないし、カウンターも無人だった。
もしや入る店を間違えてしまったかと、文香は踏み入れた玄関で、暫し立ち尽くした。
「いらっしゃいませ」
不意にカウンターの更に奥のカーテンが揺らめき、そこから長身の男性が顔を出した。店の色に合わせてなのか、黒いエプロンを身に着けた短髪に眼鏡をかけている色白の青年だ。エプロンには『かげろう』と小さくプリントされている。
「もしかして、閉まっていましたか?」
誰も居なかった店内だったことから、文香は遠慮がちに訊ねた。
だが、店員らしき青年は、優しげな笑顔を浮かばせて「いいえ。おひとり様ですか?」と小さく首を傾げた。
文香は「はい」と顎を引きながら返すと、青年は「お好きな席にどうぞ」と会釈して、グラスを取り出した。
文香は、窓際のテーブル席に腰かけて、メニューを開いた。値段が気になったのだ。変に高い店だったら、珈琲一杯だけ頼んで出ようと思った。
しかし、珈琲は一杯三百円。他のメニューを確認しても、チェーン店よりは安めの設定だ。ほっと一安心していると、店員が冷えた水が注がれたグラスを持ってきて、「ごゆっくりどうぞ」と直ぐに下がろうとした。
「あ、すみません。ランチはやってますか?」
「はい。AセットとBセットがございます」
メニューを確認すると、本日のパスタにサラダと珈琲が付いたAセット七百五十円、Aセットの内容に、ケーキが付いているBセットの九百円だった。
フリーターの文香にはそこそこの値段ではあるが、無理な値段設定ではない。
「Aセットください」
「畏まりました。珈琲は、アイスでよろしいでしょうか」
「はい、本日のパスタってなんですか?」
「きのことベーコンのペペロンチーノです」
「ああ、良かった。ではそれで」
「お飲み物は、食後にお持ちしましょうか?」
少し考えたが、喉がカラカラだったので、文香は「一緒でいいです」とお願いした。それで青年は会釈をしてカウンターの奥に下がっていく。あのカーテンの向こうが厨房なのだろう。
今のところ、人の気配が彼以外しないのだが、一人で店を回しているのだろうか。それとも厨房のほうにコックがいるのか不思議なところだ。
見上げると、プランターが吊るされていて、鮮やかな緑が黒の空間に彩を与えていた。
なかなか雰囲気は悪くないが、少しばかり静かすぎるなと文香は思っていた。
汗をかいているグラスを手に取ると、ひんやりとして掌から体温を奪っていくのが心地いい。
カラン。
グラスの氷が鳴いた。冷ややかな音色が店に響くと、熱中症になりそうだった文香はあっという間に汗を引かせていた。
喉に水を流し込むと、ほんのりレモンの風味が体に沁み込んでいく。
「はぁ……」
恍惚とも言える溜息を吐き出して、文香はやっと一息ついた。
気持ちの余裕ができたので、窓から外を見つめると、やっぱり暗い。今が真昼間だとは思えないほどだ。
木漏れ日通り……。晴れた日なんかはその名に相応しい通りなのかもしれないが、これでは曇天通りがお似合いだ。
しかし、今日の天気予報は、一日快晴だと聞いていたはずだが、こんなに重苦しい曇り空になるとは思わなかった。あれだけ照り付けていた太陽の光がまるで見えない。
注文が来るまで、スマホでも眺めて時間を潰そうとした文香であったが、スマホの画面がどこを押しても真っ暗なままになっていることに気がついて、眉をよせた。
故障してしまったのだろうか。つい先ほどまでは正常に動いていたはずなのだが。
何度も弄ってみたところで、スマホは全く応えてくれなかった。早く修理に出さなくてはアルバイトの合否も確認ができない。あとでショップに持って行って点検してもらおう。もし、これで修理代など取られるのだとしたら、また生活が苦しくなりそうだ。
フリーターなんてやりたくてやっているわけではない。
アルバイトなんてできればしたくはない。しかし、やらなくては生活ができなくなるのだから、しょうがない。
文香は夢を持っていた。
人に伝えると、そんなの無理だと言われる夢。
――声優になる、という夢を。
週に一度、声優の養成所に通い、レッスンを受けるため、毎月高額の授業料を払っている。それに家賃と光熱費、食費だって生活を追い込むのだ。
声優になりたいから、勉強をしたくて養成所に通っているのに、まだアフレコなんて一度もやったことがない。レッスンは基礎的な活舌の稽古から始まり、課題として提示された台本で演技をしたり、エチュードをしてアドリブを鍛えたり、なんかをするばかりだ。
高校時代には演劇部に所属していて、部活動でもやっていたようなことを養成所でもしている。講師である先生は、一応プロの声優ではあるが、今は声優として活動をしているような人でもない。
今年で二十歳になる。十代が終わる。大人になるのだ。
一体いつまで、私はこんな風に夢を追っていられるのだろう。
「お待たせしました」
物思いに耽っていた文香の前に、サラダとアイスコーヒーが用意された。
サラダはシンプルなキャベツの千切りに薄くスライスされたキュウリとプチトマト。ドレッシングが塗されていてよくある洋食屋のサラダだ。
文香が無言でお辞儀をすると、店員は静かに立ち去った。そしてまた奥の厨房に引っ込む。
フォークを手に取って、プチトマトに突き刺すと、文香はそれを口の中に入れて奥歯で潰した。
ぷちゅりという弾力のあと、すっぱく甘みのあるトマトの味が広がる。冷えていておいしかった。
ドレッシングのかかったキャベツとキュウリも一緒にして口に運ぶと、夏バテしている身体でも受け付けやすいさっぱりした風味が空腹を満たしていく。
――とは言え、どこにでもあるサラダと言えばそうだ。
特に特徴もなく、定番、普通、無個性なサラダ。
日差しも入らない暗めの喫茶店で、一人、曇り空を見上げても、サラダは味気ないものだった。
両親の反対を振り切って、独り暮らしをしてでも夢を追おうと、高校を卒業してから直ぐに声優の養成所に通いだした。
それで一年が過ぎ去った。一度だけ養成所の昇級オーディションを受けたものの、プロにはなれなかった。それは同期で入ったメンツも一緒で、養成所の上にある声優事務所は、今年デビューが決まった新人として、まったく養成所とは関係ない処から引っ張って来た女の子を全面に押し出して、早速アニメのオーディションを受けさせているのだと言う。
文香もその新人の女の子を調べてみたが、何やらネットで動画を投稿していた『歌い手』らしい。演技なんてまるでしたことがないらしく、彼女のツイッターには、これから演技も頑張ります、と絵文字をふんだんに使った書き込みと顔写真が載っていた。
演技を頑張っている養成所の面々を無視して、演技をしたことがない女の子をデビューさせるのはどういうわけなのだろう。
――そんなのは、考えなくても分かる。
若く可愛い、アイドルを事務所は求めているのだと。ネットで声優業界の話を調べてみても、今は声優に演技力を求めなくなっているのだと言う。声優はアイドル化しているのだ。
だが、文香が目指すのはアイドル声優ではない。きちんと人の心感動させることができる女優になりたいのだ。
――それが『夢』なのだが。
夢はまるで先行きが見えない。本当にこのまま『頑張り』続けて報われるのだろうか。幼い頃に見たあのアニメの声優のような演技ができる女優になれるのだろうか。
見えない。まるでこの曇天模様のように。
「木漏れ日なんて……ないじゃん」
皮肉な笑みが浮かんでいた。ぽろりと口から滑り落ちた言葉のなんと捻くれていたことか。
もう二十歳になる。十代ではなくなってしまう。デビューするなら若ければ若いほどいい。特に女性は……。
目の前が暗闇に染まりそうだった。嫌な感情がぐるぐると回り出す。頑張っていれば、いつかは必ず夢が叶う。落ち込む前に、努力を続けるのだ。
「お待たせしました。本日のパスタです」
コトリ、と静かな硬質音がして、温かい香りが漂う。テーブルに置かれた白い皿にはこんもりと可愛らしく盛りつけられたペペロンチーノが、きらりとアーリオオーリオで煌めく。
お腹が空いているからこんなにネガティブなことを考えるのだ。しっかり食べて、また頑張ろう。バイトだって心機一転するのだから。
空腹を刺激するニンニクの香りが堪らない。
ランチを運び終えた青年は、今度は厨房まで下がらずに、カウンターの奥で静かに読書を始めた。客の前で堂々と文庫本を読む店員に、文香は今度のバイト先であんなことはできないだろうな、と密かに思った。
パスタは想像以上に絶品だった。喫茶店のパスタなんて大したことはないと勝手な偏見を持っていたが、このきのことベーコンのペペロンチーノは、舌に馴染む。一口目の存在感は強く、それでいて、舌にしつこく残り続けない味付けが好印象だった。
パスタの湯出具合も絶妙だ。アルデンテという言葉は知っているが、これがそういうものかと、教えられたような気分だった。
文香はあっという間に本日のパスタ『きのことベーコンのペペロンチーノ』を綺麗に完食したのである。
(おいし……、ここまた来ようかな)
しかし、昼時だというのに、まったく他の客がこない。これは本当に『隠れ家』になるかもしれない。『かげろう』なんて名前だし、もしかしたら幻なのかも、などとメルヘンチックなことを想像してしまう。
料理を食べきってから、アイスコーヒーを全く飲んでいなかったことを思い出した。
サラダと一緒に持ってこられたアイスコーヒーは氷が少し溶けていて、グラスの表面に水滴を作っている。ストローを差し込み、一口啜ると、冷え切った苦みが、胃の中に落ちていく。
暫し、ゆったりとした時間を楽しみたくて、アイスコーヒーを少しずつ味わっていった。
静寂な店内が、今は慣れたためなのか、居心地が良く感じた。音色は、僅かに響く程度の店員が読む、文庫本のページを捲る音だけ。
まるで時間がこの店内だけ停止しているかのようで、外の曇天模様も時間の経過を感じさせないのがいい。
やがて、グラスのコーヒーが量を減らして、ストローが露骨な吸引音を出すまでは文香は『かげろう』の空間を味わえた。
「すみません、ごちそうさまでした」
伝票を持ってカウンターまで行くと、読んでいた文庫本をそそくさと畳んで、眼鏡をかけなおす青年が「あ、はい」と恥ずかしそうにするのが可愛らしく見えた。
「美味しかったです。また来ますね」
「あ……ありがとうございます。でも、多分もう来られることはないかと」
「……?」
妙なことを言う店員だなと文香は思った。その怪訝な表情を読み取ったのか、店員の青年は最初に見せてくれたような笑顔を浮かべた。
「今日で閉店なんです」
「え……」
閑古鳥が鳴く店内。なるほど、と文香は事情が分かった気がした。
「ああ、でもまた別のところでお店は出しますから」
「そうなんですね。じゃあ、お店の名前も『木漏れ日通り』から変わるんでしょうか」
「いえ、変わりませんよ」
そう言う青年は、人懐こそうな笑顔を浮かべたままだった。
店の場所が変わるのならば、木漏れ日通りの名前を看板に描くのはちょっとばかり妙ではないだろうか。
「先行きが見えないのは、不安ですよね。こんな世の中ですし」
「そうですね」
美味しいパスタを出す喫茶店でも、こんな外れにお店を構えていては、人気を呼び込めないか。文香はこの青年の店員の言葉をそんな風に汲み取った。
若いようだが、店内は彼しかないない様子だし、彼が店長でありオーナーなのかもしれない。恐らく歳を取っていたとしても、三十かそこらだろう。この若さで自分の喫茶店を構えているのだから、大したものだと思えたが、やはり世知辛いのだろう。
「でも、お客様から『美味しかった』なんて言われて、まだまだ頑張れるなとも思えます。本当にありがとうございます」
「いえそんな。本当にパスタ美味しかったですよ」
自然に出てきた言葉だった。事実、美味しかったのでその感想を述べたという程度だ。
だが、相手の青年は本当に嬉しそうに笑顔を見せてくれた。
それこそ、その笑顔は木漏れ日に照らされたように、暖かみあるもので、文香は少しばかり頬を朱に染めた。
自分の何気ない応援が、人を喜ばせるなんて思っていなかった。
人の心に、木漏れ日を差し込ませたのだ。
それが、なんだか、文香には嬉しかった。
ああ、そうか。自分でもきちんと人の心に影響を与えられるのだ――。
それが、自分が求めていた夢の形だったなぁと、幼い頃に見たアニメをもう一度思い出させる。
声優への努力は続けてみよう。
でももっと、自分では気が付いていない方法があるかもしれない。
私の夢は、声優になることではなかった。私の言葉で、誰かを喜ばせたかったことだった。
手段はまだあるかもしれない。
そもそも、声優の台詞というものは脚本家が書いているのだ。だったら、脚本家だっていい。脚本家を目指して、頑張ってみるのも良いかもしれない。
他にもできることがあるならチャレンジをしてみようか。小説を書いてみたり、漫画を描いたり。絵本も面白いかもしれない。
文香は黒い扉を開いて、通りに歩み出た。
「あ……!」
雲の切れ間から差し込む陽ざしが、街路樹から零れ落ちていた。
『木漏れ日通り』はここにある。
やがて、彼女がとある賞を受賞して、少女向けファンタジー恋愛小説が書店に並んだのは、また別の話――。
今回の物語は、私の実体験をもとに描いたものです。
もしかすると、この喫茶店『かげろう』の物語を続けて描いていくかもしれません。
まだ続けるかは未定。好評ならオムニバスなヒューマンドラマを描きたいところです。