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月へのスパート  作者: 深町貴弘
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月へのスパート <下> ~運命が変わる時、いつも月に向かって走っていた~

 9月3日、この日は日曜日であり、陸上部は、県を越え山の中にある田舎町でのロードレース大会に参加した。これが、私にとって足の怪我から復帰してからの最初の試合だった。天気はとても良く、都会を離れ山の上のほうにある田舎町でのレースであったため、自分が住んでいた街よりもだいぶ涼しく感じられた。レースをするにはなんとも助かる気候だった。私は男子5000Mのロードレースへの参加だった。レースが始まり、皆が一斉に走り出した。最初の1000Mまでは、先頭集団の中で私はなんとかペースを保ちながら走り続けた。初めて走る場所は山道のカーブや急な坂ばかりであり慣れない感覚だった。その分、初めて走るコースに対して新鮮な気分を感じていた。しかし、私にはこれまでの相当なブランクがあったため、2000Mを過ぎたあたりで案の定バテてしまった。ペースはすっかり落ちて、走る度に迫ってくる登り坂にとても苦労した。そして、4000Mを過ぎた地点で、私は右足の靴の紐がほどけていることに気が付いた。一旦、止まって紐を結び直そうとしたが、残り1キロを切っておりなんとか持ちそうであったため、そのまま走りきってゴールした。久しぶりに感じた疲労感だった。とてもきつく感じレース後はしゃがみこんでしまった。レース中に靴の紐がほどけてしまうことはプロの陸上選手にとって致命的なことである。そんな当たり前のことすらできなかったことに対して、私は自分自身の弱さと甘さを痛感した。勿論、順位は下位のほうでありタイムもぼろぼろだった。それでも、このロードレース大会は、私にとって実に貴重な復帰戦となった。

 

 9月は、私自身、練習に最も打ちこんだ1カ月だった。陸上部長距離はいよいよ駅伝に向けた本格的な練習に取組み始めた。毎年、この時期から瀬野市の市街地を出て田舎町の方へ向かい、上り下りが激しい山道でのロード練習を行った。毎回、ロード練習を行う度に、松永先生がトヨタの黒のハイラックスサーフを運転しながら、走っている選手の横を車で走った。先生は車の中からメガホンを使って1人1人フォームやピッチについて指摘した。常に先生から監視されたようなこの練習メニューは選手達にとって精神的にもきつかった。私は、スタミナが全盛期に比べてだいぶ落ちており、私の最大の武器であるスパートも復帰してからなかなかすぐには本領発揮とはならなかった。松永先生は私に対して練習後は両足のアイシングを欠かさず毎日行うようにと言っていた。

 一般的に、高校駅伝の仕組みは、男子が42.195キロメートルを7区間に分けて走り、女子が21.0975キロメートルを5区間に分けて走る。男子は1区が10キロ、3区と4区が8.0975キロ、2区と5区が3キロ、6区と7区が5キロである。女子は1区が6キロ、2区が4.0975キロ、3区と4区が3キロ、5区が5キロである。11月に開催される県大会の男女それぞれの優勝校は、12月に京都で開催される全国高校駅伝大会へと出場できるのだ。

 9月8日、放課後、私は職員室に行き、服部先生に数学の質問をしに行っていた。

「先生、微分が分からない」

数三の微分の定義などが複雑で私には理解できなかった箇所がいくつかあり、先生は裏紙に図を書くなどして丁寧に説明をしてくれた。

「あぁ、そういうことか! なんとなく理解できたよ。先生ありがとう!」

「大丈夫か? ここが理解できないと2次試験は厳しいぞ」

服部先生は少し上から目線で話すような厳しい口調で言った。

「やっぱり数三は難しいよ。才能も大事なのかな?」

私は素朴に服部先生に問いかけた。先生はしばらく黙ったあと私に返事をした。

「お前、本気で大学を受験で選ぶのか? 正直な話、佐藤は受験で選ばなくても陸上の推薦で大学に進学するのもありだと思うんだ。お前は勉強をしに大学に行くのか? それとも陸上で活躍したいのか?」

「陸上で活躍したい。大学に入ったら箱根駅伝を目指して頑張りたいと思う」

「お前が行きたい国立大に入ったところで、多分箱根には出られないだろう。あそこは陸上部がそこまで強くはない。それだったら箱根によく出るような強豪な私立大を目指したほうがいいんじゃないか?」

私は服部先生の指摘に対して、何とも返す言葉がなかった。数秒間、自分で何かを考え先生に質問した。

「ねぇ、先生は、なんで数学の教員になったの?」

「数学は答えが1つしかないから俺は好きだ。だけど、人生にいろんな答えがある。いろんな選択肢があるからな」

「確かに、数学は世の中のたくさんのことに利用されているからね」

「俺は数学の問題を解くのが好きなだけだ。別に、数学を活かした科学者になろうとか、電機系のメーカーに勤めようと思ったことは1度もない。数学の教員という仕事がこの世の中にあるから、俺はこの仕事をしているだけだ」

「なるほど…」

私は、先生が言った内容の本当の真意を理解できなかった。

「佐藤、お前は、今、何が1番大事なのか迷っている。当然ながら、足の怪我も治って、秋の駅伝大会も頑張らなければならない。そして、大学受験も控えている。清少のことも気になってしょうがないだろう」

「はい。先生、俺、正直どうしていいか分からない。何を優先すべきなのか…」

「大事なことは信念を貫くことだ。お前にとって何が1番大事なのか。俺が数学の教員にしか興味がないと言ったが、それは、世の中に数学の教員という仕事は必ず存在するからだ。無くなるということはまず無い。その仕事自体が世の中から無くなったときに考えればいいだけだ」

「先生、どういうこと?」

私は先生の目を真剣に見つめて質問した。

「もし、本気で陸上をずっと続けたいのであればもう勉強はしなくていいから陸上だけを頑張れ。勉強してまで大学に行きたいのであれば、陸上は諦めて大学でも自分の目標をもって勉強を頑張ることだ」

服部先生は、そう言いきった後、無言で私の目を見ながら1度だけ首を縦に振った。

「先生、わかったよ。とりあえず、今から陸上の練習に行ってくる」

私は、服部先生が私に対して何を言いたかったのか、職員室を出て何度も何度も考え直したが、やはり意味を理解することができなかった。私はそのまま陸上の練習を開始しにグラウンドへと向かった。


 9月17日、大村競技場でトラックレース大会が行われた。数日間、雨が降り続きこの日も小雨が降っていた。私は5000Mのトラックレースへの参加だった。レースが終わり、携帯を見ると1通のメールが届いていた。紗英からのメールだった。「お疲れ様。今日、修くんの試合を観に来ました。駐車場の噴水の前で待ってます」私はメールを見て驚いた。急いで、控え室でジャージ姿に着替えダッシュで大村競技場の駐車場へ向かって走った。小雨だった雨はほとんど止んでいた。走って大村競技場の駐車場に着くと、そこには車椅子に座った紗英がいた。

「紗英!?」

「修くん!」

紗英は私の顔を見て笑顔になった。私は車椅子に座っていた彼女を抱きしめた。

「わざわざ観に来てくれたの!?」

私は少し興奮気味で彼女に言った。

「うん! どうしてもね、修くんの走る姿を観たかったの。私、感動しちゃった! 修くん、もう完璧に昔の修くんに戻ったね!」

紗英はとても嬉しそうな表情だった。

「お前、ここまでどうやって来たんだ? 具合は大丈夫か?」

「お母さんと車で来たの。ねぇ、修くん、今から一緒に病院まで来てくれる?」

私は紗英と一緒に紗英の母親が運転する車へと乗り込み、私達は瀬野病院へ向かった。車はインターに入って高速道路を走った。車の後ろの席に座って外の景色を眺めていると、さっきまで止んでいた雨が今度は強く降り出してきた。

「紗英がね、どうしても試合を観に行きたいって。だから、先生に無理言ってここまで来たのよ」

紗英の母親が私に優しく話しかけてくれた。車の中では時折、その日の試合の話や、学校での話などをしていた。約50分かけて、私達は瀬野病院まで着いた。病院に着くと雨は本降りになっていた。

「佐藤君、紗英のこと少しお願いね」

紗英の母親がそう言って病室を出た。私は紗英と2人きりになった。

「修くん、今日の走り本当にかっこよかったよ。修くんの走りを生で見れて本当によかった」

「ありがとう」

私は彼女に微笑んで言った。

「あと、何回観れるか分からないから…」

紗英が小さな声で呟いた。

「どうした? 何かあったの?」

「あのね、MRIの結果があまり良くなかったの。前より腫瘍が大きくなってた」

「そうなのか?」

私は不安げな表情で紗英の顔を見つめた。

「明日から、治療も少しずつ増えていくって。私、ちょっと怖い…」

紗英は少し怯えたような声をしていた。

「諦めたらダメだぞ! 良い時も悪い時もある。陸上と同じだ。だからまたこれからも治療頑張ろうな! 俺、ちゃんといつでも傍にいるから!」

私は励ますように紗英の両手を強く握った。彼女は軽く頷いただけだった。

「修くん、今夜雨だね。九月の満月楽しみにしてたのに。一緒に見れなくて残念」

「しょうがないよ。元気だして」

紗英が一瞬間を置いた。

「ねぇ、修くん、私、きっともうすぐ死ぬんだね」

私は紗英の言い放った言葉を聞いて愕然とした。そして、急に怒りが込み上げてきた。

「お前、何バカなこと言ってんだよ!」

私は思わず叫んでしまった。

「死ぬなんて言うな! お前、レース中にそんな弱気見せたことないだろ!?」

「修くんに何ができるっていうの? じゃあ、医者にでもなって私の病気を治してくれるの?」

紗英は感情的になって今にも泣きだしそうだった。私はそんな彼女の姿を見てなんと反論してよいか分からなかった。

「紗英、ごめん。本当に申し訳ない」

何度も紗英に謝った。彼女は何度も鼻をすすっていた。

「ごめんなさい。修くんは何も悪くないの。でも、私は幸せだよ。だってこんなに修くんと一緒にいれるんだから」

私は、ずっと下を向き病室の床を眺めていた。病室内は何分間も沈黙が続いた。部屋の時計の針の音が僅かに聞こえるだけだった。

「紗英、すまん。ちょっとトイレ行ってくる」

私は紗英にそう言って荷物を持って病室を出た。そのまま、廊下を渡り病院のトイレを通り過ぎて階段を下り、病院の出入口の外に出た。私は、出入口の天井の下に座り込み1人泣いていた。私にとって、紗英の余命がたとえどれくらいであろうと、彼女がこの世からいなくなることなど受け入れることができなかった。「ごめん。今日、お母さんの具合が悪いみたいだから先に帰るよ。また明日の夕方来るからね」私は彼女にメールを打ってそのまま瀬野病院から歩いて帰った。傘を持っておらず体中が雨に濡れた。母の具合が悪いなどというのは勿論嘘だった。何もかもが嫌になって1人でいたかった。私は自宅へと着き、台所のテーブルには母が遅番のために夕飯で作り置きしてくれた鯵のフライが置かれていたが食欲など全く無く、部屋で濡れた体をタオルで拭き着替えだけしてそのまま一人寝てしまった。

 

 9月も下旬となり、私はだんだんと前年のタイムと同じレベルで走れるようになってきた。自分のタイムが良くなる一方で、紗英の症状は日に日に悪くなっていった。紗英は声を出すのに数秒間もたつき、日によっては、体の一部を自由に動かせない時があった。彼女の体は神経が徐々に機能しなくなってきており、自分1人の力で外に出ることがだんだんと厳しくなっていった。

 9月23日、私は大橋整形外科に行った。この日が大橋先生に右足の怪我の様子を診てもらった最後の日となった。いつも通り右足の脛のレントゲンを撮り、診察室に入って先生から症状についての説明を受けた。

「足の具合はどうですか?」

「もう走っても痛くはないです」

「それは本当によかったです。骨には、まだかすかに線が入っています。とは言っても、もう気にすることはないでしょう」

先生は落ち着いた様子でカルテに症状等を記入しながら私に言ってきた。しばらくすると、先生が一瞬喉を鳴らして私に話しかけてきた。

「私は整形外科医であって精神科でも何でもないですが、佐藤さんにアドバイスがあります」

「えっ? 何でしょうか?」

私は突然の先生からの言葉に少し驚いた。

「それはね、大切なものを失っても、行く先々、気持ちがブレない心を持つことです。大切なもの、大切な人、なんでもそうです」

「ブレない心ですか?」

「そう。ブレたら駄目です。なぜなら、私は貴方によく似た患者さんを知っています」

「それって誰ですか?」

大橋先生は一瞬間を置いて答えた。

「清少紗英さんのお父様ですよ」

「紗英のお父さん!? 先生、紗英の父親も大橋先生に診察を受けていたんですか!?」

「そうです。彼は怪我をして以来、リハビリで私のところへよく通院されました。彼からもいろいろな話を聞きましたよ。娘の紗英さんのことも。そして、佐藤さんのこともよく話してくれました。二人のことを話している時はいつも嬉しそうな表情をしていました」

私は驚くとともに不思議な気分になった。

「そうだったんですね! なんか先生にはなんでも知られているようで恥ずかしい気分です」

「清少さんのお父さんもね、最初リハビリに来た時は気持ちが落ち着いてなかった。当たり前ですね。彼は大事な右足を失ったのですから。彼は義足を付けてから歩行練習で私の病院にリハビリに通院していました」

先生は眼鏡越しから優しそうな目で私の顔を見ていた。私の心を感じ取っているようだった。

「彼はリハビリを続け、それまで失っていた希望を少しずつ取り戻していったようです。貴方も同じ。怪我で走れないことに焦っていた貴方は清少さんのお父さんとそっくりでした。今、貴方はまさに復活しようとしています。これまでの半年間のことをよく胸に刻んで、これからの人生歩んでいってください」

私は、大橋整形外科から自宅へと帰っていた。運命とは一体何なのか、いろいろと自分なりに考えていた。それにしても、まさか紗英の父親が大橋先生の病院で足のリハビリを行っており、紗英だけでなく私のことも話題にしていたと考えると本当に不思議な気持ちでいっぱいになった。私は、紗英の父親には1年半程会っていなかった。紗英のお見舞いに行き、稀に、彼女に父親は元気にしているのかを尋ねていたが、あまり明確な返事をもらえることがなかった。

 

 10月1日、この日は日曜日で陸上の練習はお休みだった。私は朝8時頃に起きて家で洗濯物を外に干していた。爽やかな秋晴れであった。母は既に仕事に出かけており家には誰もいなかった。特に何かをする予定も無く、ただ携帯電話をいじっていた。すると同じタイミングで紗英からメールが届いた。「修くん、今日、私の父がお見舞いに来てるの。修くんに会いたいって」私は、急いで準備をして瀬野病院へと向かった。瀬野通りを1人走っていた。午前10時に病院に着いた。院内の敷地に植えられていたイチョウの木が段々と黄色くなりはじめていた。秋の深まりを感じた瞬間であった。私は病室へと向かい部屋のドアをノックして中へ入った。すると、そこには紗英の父親が、紗英が寝ているベッドの前に座っており、私に気が付いて振り向いてきた。

「お父さん、こんにちは! お久しぶりです!」

「おぉ、佐藤君か! 久しぶりだね!」

紗英の父親が元気そうに私の肩を触って私を歓迎してくれた。私も思わず笑顔になった。

「紗英さんに会いに来てたんですね?」

「あぁ、紗英が倒れた話を妻から聞き、私も何度かお見舞いに来ていたんだ」

紗英の父親はとても紳士的な方だった。

「紗英、具合は大丈夫?」

私は紗英のところへ行き彼女の手を掴んだ。彼女の右手がほんの少しだけ震えていた。

「私は、大丈夫だよ」

30分程の間、私達3人は病室内で紗英の病気の話や学校の話、陸上の話などをしていた。そして、私は紗英の父親に2人で話しがしたいと言われ、病室を出て病院の1階のロビーのソファに座り2人で話をした。ほんの少しだけ、紗英を1人にしたまま病室を離れるのが不安だったが、すぐに女性の看護師さんが紗英の病室に来て一緒にいてくれたので、ホッと一安心できた。

「佐藤君には本当に何から何まで感謝している。2年前に、君と紗英が出会ったからこそ、紗英も私も救われた。そして、紗英がこんな風になったのは全て私のせいだ。すまない!」

「お父さん、僕は何もたいしたことなどしてないですよ。それにお父さんが僕に謝るようなことなどありません」

私は苦笑いして答えた。紗英の父親は表情を少し暗くした。

「佐藤君、正直、紗英は厳しい状態だ。これは私の勝手な願いだ。強要はできない。だけど、もしよかったら紗英が元気なうちに、たった1度でいい、紗英と一緒に走ってやってくれないか?」

私は紗英の父親の言葉に何と返事をしてよいか分からなかった。

「私も妻も、何度も元気になるまでは走るのはダメだと言ったんだ。そんなことしてまた倒れたら、もう2度と助からないって。だけど、あの子は聞こうとしなかった。もし、紗英が後悔することがないのであれば、私はそれで構わない。あの子のためだ。君は紗英を助けてくれた。そして、私をも助けてくれた。私は父親ながら情けない」

紗英の父は目に涙を浮かべていた。そして、少し穏やかな口調で遠くを見つめるようにして語りだした。

「あの子は小さいときから月を見るのが好きだった。月に向かって走り回っていたんだ。「パパ、どこまで走ったらあの月まで着くかな?」なんてことを言っていたな…」

「とても、可愛らしいですね」

小さい時の紗英を想像して私は思わず愛おしい気分になった。

「佐藤君、君は、決して私のような弱い人間になってほしくない。私はご存じの通り、こんな足の状態だ。生きる希望を失って何もかもが嫌になりダメな時期があった。けれど、紗英が高校生になって再び走りたいと言って頑張るようになったのは全て君のおかげだ。そんな、紗英の姿と君の姿を少しずつ親として見ているうちに、私は自分自身が情けなくなった。そして、その話しを大橋先生にしたら、先生は教えてくれた。人はいかなる辛い時でもブレたらいけないと…」

「お父さん、お父さんも大橋先生のところに診察を受けに行っていたんですね?」

私は思わず、紗英の父親に大橋先生のことについて詳しく知りたくて質問をした。

「あぁ、あの先生はなんでもお見通しだ。まさか佐藤くんも足の怪我で同じ病院に通っていたなんてね。これも何か運命的だな。私は大橋先生からブレたらいけないとお叱りを受けてから、もう1度人生を頑張ろうと心に決めたんだ」

1時間くらいいろんなことを紗英の父親と話した。病院の1階のロビーのソファに座っていると常にたくさんの医師や看護師、そして患者さんが行き通う光景が目に入っていた。紗英の父親は私と話し終わってから、そのまま1人で病院を出た。右足に義足を付けていたが杖なしでゆっくりと歩いていた。病院を出て行く時の紗英の父親の後ろ姿がとても寂しそうに見えた。私は紗英の父親が外に向かって歩いていく姿を見届けたあと、紗英がいる病室へと戻った。

「パパと何を話したの?」

紗英が目を丸くして言ってきた。

「紗英の小さい時の話などをしたよ。走るのが好きで可愛かったって言ってたよ」

「恥ずかしい」

紗英は照れくさそうな様子だった。

「紗英、お父さんに、俺と一緒に走りたいって言ったの?」

「えっ? パパったら修くんにそんなことまで言ってたの?」

「あぁ、お前の願いだって言ってた。決して走れなくてもいいよ。もし、10月の満月が綺麗に輝いていたら、少しでいいから、俺と一緒に月に向かって歩いてみよう」

「修くん、私嬉しい。ありがとう」

紗英は目に涙を浮かべていた。

「お父さんは紗英のことをすごく大事に想ってるんだなって思ったよ」

「私はね、パパが好きよ。修くんは私のパパそっくりなの」

紗英はベッドの毛布で口と鼻を覆って隠しながら話した。よく見ると、額の周辺が赤くなっていた。

「修くんは、もし、大切なものを失ったりしても、ずっと変わらず修くんのままでいてね。約束だよ」

「あぁ、約束する!」  

私は病室で紗英をずっと抱きしめていた。日が暮れるまでずっと紗英と一緒にいた。紗英の父親がなぜ右足を失って義足であり、紗英の父親がなぜ私に感謝をしていたのか。それは、この年から遡って2年前、私と紗英との出会いが全ての始まりであった。

 

 2004年、私は瀬野高校に入学し清少紗英と出会った。彼女とは同じクラスであったが、特にお互い話すような関係ではなかった。私は入学当初から既に陸上部に所属していたが、紗英はこの時まだ陸上部に所属していなかった。当時、紗英のことで強く印象に残っていることは、やたら足が遅かったことである。学校の体育の授業などで100M走などを走る時も一際目立って遅かった。

「あいつ、足遅いな。トロ子だよ」

男子達は紗英のことをからかうようにして彼女にあだ名をつけていた。  

高校に入学してから半年経った、2004年の10月半ばの出来事だった。私は、この日の夜、自主トレを自宅の下の公園で行っていた。公園は1周1200M程のロードレースができるような広い公園であり、夜中にジョギングをしていたのだ。

「うわーっ、綺麗だなー!」

ジョギングをしながら夜空を見ていると、とても綺麗な満月が輝いていた。私は、そのまま月に向かうようにして公園を出て住宅街の細い道を抜け、気が付くと、瀬野通りに出て通りの歩道を走っていた。瀬野通りから見える満月は、10月が一番見頃なのである。私はそのまま歩道をまっすぐ月に向かって走っていた。すると、目の前に多田川が見えてきた。川の陸橋の上を走ると、なんとも壮大な景色だった。遠くには夜景が綺麗に輝き、川の上は建物などが無く視界が広くなるため、この満月がより一層綺麗に輝いて見えた。

「よし、月に向かって最後は全速力で走ろう!」

私は心の中で叫び、多田川の陸橋の真ん中の位置あたりから満月を見ながら全速力で走りだした。私はこの時、この満月に見惚れていたに違いない。多田川を渡り終えれば、その先にある大きな交差点まで約100Mほど緩やかな下り坂となるので、最後のスパートをかけようとしていたまさにその瞬間だった。

「わっ!?」

私は一瞬何が起きたのか分からなかった。気が付いたら歩道の上で転んでいた。月を見ながら走っていたので足元に気付かず足をつまずけてしまったのだ。多田川の陸橋の段差のところで足をつまずけて転倒した状態だった。履いていた靴の紐が完全に緩んでいた。

「なんだよ、こんなときに絆創膏なんか持ってる訳ないよな…」

両方の手の平の下のほうを擦っておりかすかに血が出ていたが、それよりも右足の膝下あたりを1番強く擦っていた。履いていたジャージのズボンをまくり上げると、案の定、膝の周辺から血が滲み出ていた。決して、走れないほどの痛みではなかった。私は、橋の上に座り込んだまま少し痛みが引くのを待った。そして、引き返して瀬野駅近くのドラッグストアまで歩いて向かった。

「ついでに、傷薬も買っておくか」

私は店内で絆創膏と傷薬を探していた。この店は瀬野駅のロータリー沿いにある大きなドラッグストアであり、実は、この店では、当時万引きが多発していた。そのほとんどの商品が女性用の化粧品だった。防犯カメラだけでは店の構造上人物が特定できなかったらしい。しかし、防犯カメラの映像から私が通っていた瀬野高校の生徒が犯人であるとの噂が広まっていた。どうやら制服の特徴などで的を絞られていたのだ。そのため、警察からも瀬野高校には指導が入っていた。学校の全校朝礼などでも注意喚起がなされ、クラスごとにも担任からの警告が生徒達へと直接伝わっていた。

「また、生徒による万引きが昨日あったということだ。ここ1カ月で数件確認している。お前達の仕業とは信じたくない。とにかく、そういうことをやっているのならすぐに辞めろ。分かったな!」

担任の服部先生が生徒達に釘を刺した。そんな服部先生の言葉が脳裏をよぎった瞬間だった。私は店内でどこかで見覚えのある女性を1人見かけた。その女性は私服姿であり、濃い緑色で膝くらいまでの長さのワンピースを着ており、その上に黒のカーディガンを羽織っていた。靴は茶色のショートブーツのようなものであった。

「清少?」

私はその女性が紗英だと気付き、とっさに彼女に声をかけようとした。普段絡みがなかった関係とはいえ偶然にも街中で同じクラスの子がいれば、せめて挨拶くらいはしようという気持ちで私は彼女の後を追った。彼女は私に気が付くことなく化粧品棚の前で立ち止まった。すると、あろうことか、彼女は棚に置いてあった商品の一部をそっとカバンの中に入れたのだ。私は、あの紗英が万引きするところをこの目で目撃してしまった。

「おい、清少!」

私は紗英に向かって大きな声を出した。すると、彼女は私の存在に気付き、目が合った瞬間、一瞬固まったように立ち竦んだ。そして、私が紗英のもとへ近づこうとすると、彼女は走って逃げ出した。

「おい、待てよ!」

私は紗英を必死で追いかけた。彼女はひたすら走って逃げ続けた。私は信じられない光景を2つ見たのだ。1つは紗英が万引きをした姿を見たこと。そして、もう1つは、あの清少紗英がまるで別人のように速く走っていた姿を見たことであった。それまでに私の知っていた紗英の走りではなかった。

「あのトロ子め! あいつは一体何者なんだ!?」

私は心の中で鬼のように叫んだ。だが、しばらく走っているうちにとても不思議な感覚になった。私と紗英は満月の夜に、まるで月に向かうようにして瀬野通りを走っていた。再び、多田川の陸橋のところまで差し掛かった。陸橋を少し渡ったところで私はようやく彼女を捕まえた。

「捕まえたぞ!」

私は紗英を後ろから強く抱きしめた。彼女が逃げないようしていた。その時の彼女の鼓動は高まっていて、息が荒くなっていたのを覚えている。数秒間、時間が止まったような感覚だった。すると、彼女は私を振り切ろうとした。

「離してよ! 佐藤君には関係ないでしょ!?」

私は紗英の身から両腕を離し、私の方へ彼女を振り向かせた。

「関係なくねーよ! お前、なんで万引きなんかしてるんだよ!?」

紗英は黙りこんだ。私は許せないという気持ちもあったが、それ以上にどうしてという感情のほうが強い気持ちだった。紗英はしばらく下を向いたままだった。私は彼女の目を見て話しかけた。

「お前、なんだあの走りは? 体育の時間の時とは別人じゃないか?」

すると、紗英は睨んだようにして私の顔を見てきた。

「私だってね、本気を出したらこのくらい走れるのよ! バカにしないで!」

一瞬、紗英の気迫に負けたような気がして私は黙り込んでしまった。数分経って、紗英は彼女の携帯電話で彼女の母親を呼び出し、私と紗英と紗英の母親と3人でお店に謝罪をしに向かい、彼女が盗んだ商品もお店に返した。万引きは紗英と紗英の仲が良かった瀬野高校の女子生徒が数名行っていたという事実が分かった。この時だけは学校への報告だけでお店側から許してもらえた。後日、彼女達は担任、学年主任、教頭等に説教をされ、次に同じようなことがあれば退学及び少年院へ収監されるという条件のもと誓約書を書かされ、この件は無事に済んだ。それ以来、瀬野高校の生徒による万引きが発生しているという噂は消え去った。

 紗英の母親が、車を瀬野駅のロータリーの中でハザードランプをつけながら停めていた。その車の中で、紗英の母親と紗英は1時間ほど話をしていた。おそらく説教などであると思われるが、私はロータリーのバス停のベンチに1人で座って紗英を待っていたため、どんな会話をしたのかは分からなかった。既に22時を過ぎ、ドラッグストアもシャッターを閉めていた。バスも全て運行を終えていたため、ロータリーには数台の送り迎えをしていた乗用車とタクシーが行き来するだけだった。ベンチに座っていた間少し肌寒かったのを覚えている。そして、やっと紗英が車から降りてきた。紗英の母親も私にお礼と謝罪をして、そのまま紗英の母親だけ1人車で帰っていった。その後、私と紗英はバス停のベンチに座り2人で話をした。しばらくお互い無言のままだった。私はなんだか緊張していた。紗英もまた緊張した様子だった。

「お前、どうしてコソコソ隠れた生き方してるんだよ?」

私は素朴に紗英に話しかけた。紗英が私の目をチラッと見て開き直るかのように答えた。

「だって、高いんだもん。欲しかった化粧品。お小遣いでは足りないし」

彼女はそう言って私から目をそらした。私は彼女のこの返答に対して怒りを覚えた。そして、私はベンチから立ち上がって紗英を見下し怒鳴りつけるように言った。

「俺が聞いてるのはそんなことじゃねーよ!」

「えっ!?」

紗英はとても驚いていた。目を丸くして固まったまま私の顔を見つめていた。彼女は、それまで強がっていた態度から急に怖気付いた。

「どうしてあんな走りができるのに、普段、体育の授業なんかまるで運動音痴みたいなふざけた走りしてたんだよ!?」

私はずっと紗英を睨んだように見ていた。

「確かにな、万引きは犯罪だよ。良くないよ。絶対にダメだ! もう2度とあんなことするな! だけどな、俺が本当に許せないのは、そういう卑怯なことをやって見つかったら全力で走るくせに、肝心な大事な走りをいい加減にするお前が俺は腹立たしいんだよ!」

私は自分の思いを全てぶちまけるようにして彼女に言い放った。しばらく2人の間に沈黙が流れた。私は立ったままじっと紗英の顔を見つめていた。紗英は私の目を見ては時折目をそらし、それが何度か続いた。なにか躊躇っている様子だった。すると、彼女は少し落ち着きだした。そして、全てを告白するかのようにゆっくりと語りだしたのだ。

「私は中学生のときまで陸上部だったよ。でも高校に行ったらもう陸上はしないって決めてたの」

私は紗英の全てを知りたかった。全てを打ち明けてほしかったのだ。彼女の言葉に対して、何か深い意味があるのだろうと悟り、それまで彼女に対して怒っていた感情から急に愛おしさを感じるようになった。

「ほら、黙ってないで教えてよ。清少のことが気になってしょうがない。何があったのか、ちゃんと聞くから」

私はゆっくりとベンチに座り紗英の方を見た。

「佐藤君、あのね、私、あの時、逃げ切る自信があったの。それなのに、あんなに早く迫ってくる佐藤君が私怖かった…」

紗英は少し声を震わせていたが、やがて顔を赤らめ恥ずかしそうに話しだした。

「でもね、捕まえられた瞬間、胸がドキドキしてたの。だって、男の人に後ろからあんなに強く抱きしめられたの初めてだったから…」

紗英の恥ずかしそうな表情を初めて見た。この時、私は確実に彼女のことを強く意識していた。

「私はね、本当は走ることが好き。だけど、もう陸上はしたくなかった。陸上なんかしたって幸せになんかなれない。そう思ってたの」

紗英が中学生で陸上を辞めたのは紗英の父親が原因だった。彼女の父親は現役の社会人マラソンランナーだった。東証一部の大手企業に勤めており優秀な会社員だった。ところが、紗英が中学3年生になった春に、父親は車の運転中に交通事故に遇った。その影響で右足の太ももより下の部分を失ってしまったのだ。それからというものの、紗英の父親は、それまでの真面目な性格とは打って変わって、まるで人が変わったかのようになってしまった。怪我をする前までは、ほとんど酒も飲まない性格だったのに、怪我をして以来、酒に溺れていった。紗英の父親は生きる希望を失っていたのだ。

「私は、父の姿を見て陸上選手になりたかった。父が大好きだった。でも、毎晩飲んだくれになって、仕舞には母以外の別の女と飲み歩くようになっていった。そんな父が大嫌いだった。父みたいにはなりたくなかった。だから、私は陸上という夢や希望は全部失ったの」

「そうか、辛かったな。いろいろ思い出させてしまってすまない」

「ううん、平気」

私はもの思いに耽るような気分で夜空を見上げた。そして、落ち込んでいた紗英を見て、ふと声をかけたのだ。

「なぁ、清少、陸上部に入れよ。一緒に走ろう!」

「えっ? でも、私、走れる自信が無い。もうフォームだって昔みたいに綺麗じゃないし。それに、うまくやっていけるか分からない」

「大丈夫。俺が1から教えてやるから」

紗英は少し困ったような表情をしていた。私は自分の左手をそっと紗英の前に出して言った。

「ねぇ、右手出して」

「えっ?」

紗英は少し躊躇いながらも右手をそっと前に出した。そして、私は彼女の右手を自分の左手でしっかりと繋いだ。人生で初めて女の子と手を繋いだ瞬間だった。

「さぁ、立って! 俺に付いてこい!」

「えっ? ちょっと… 待って…」

私と紗英はベンチから立ち上がった。そして、私は彼女と手を繋いで走りだした。少しずつゆっくりと。とても幸せな気持ちだった。この時、私は彼女に恋をしていた。

「ねぇ、恥ずかしいよ!」

紗英はとても恥ずかしそうに私と手を繋ぎながら走って付いてきた。いつまでも彼女と手を繋いでいたい。彼女をどこまでも連れていきたい。一生、彼女を守ってあげたい。私はそんな高揚感に浸った気分だった。紗英は初めのうちはとても緊張した様子だったが、次第に表情が笑顔に変わっていき、私と楽しそうに走っていた。2人は手を繋ぎながら瀬野通りを多田川方面へと走った。まさに、私と紗英は満月に向かって走っていたのだ。

「ねぇ、佐藤君!」

「どうした!?」

「私の名前「紗英」っていうの! だから、紗英って呼んで!」

「あぁ、よろしくな紗英! 俺の名前は「修」だ!」

「素敵な名前。ねぇ、私、修くんを信じて付いていってもいい!?」

「もちろんだよ! 紗英、このまま俺に付いてこい!」

2人は瀬野通りをしばらく走り続けた。紗英が少し息を切らし始めていた。

「紗英、大丈夫か!?」

「大丈夫。平気。ねぇ、私達、あの月に向かって走ってるみたい!」

「そうだな! 瀬野通りから見える満月は本当に綺麗だぞ!」

「私、月に向かって走るのが好きなんだ! このまま走り続けたら、あの月まで辿り着けるかな!?」

「あぁ、きっと辿り着けるさ! 最後に全力で走ろう! あの橋を越えたらイオンの交差点のところまでダッシュしよう!」

「はーい!」

紗英の返事はまるで小さな子供のようであった。多田川の橋の上から見える遠くの夜景、ヘッドライトをつけて走る車、河川敷、様々な風景に私達は目を配っていた。顔に当たる風が少し冷たかった。全長300Mある橋を渡りきったところで私は紗英に声をかけた。

「紗英、準備はいいか!?」

「うん。OKだよ!」

紗英が明るく返事をした。

「いくよ! よーい、どん!」

ずっと繋いでいた手を離した。そして、2人は全速力で走った。私と紗英は月に向かって全速力でスパートをかけた。そのまま2人は大きな交差点の手前でゴールしてかがみこんだ。

「うふふふ」

ふと気が付くと、紗英が傍でクスクス笑っていた。

「あれ? どうしたの? 何がおかしいんだよ?」

私は息を切らしながら恥ずかしい気分になった。

「だって、月まで辿り着けるなんて本気で言うから。私、可笑しくなっちゃった。修くんって、面白い人なんだね」

「お前なぁ、最初に月まで辿り着けるか聞いてきたのは紗英のほうだろ? そういう気分だよっていう意味で返事したんだよ」

私は紗英の前でかっこつけていた。私は走り終わった後のほうが緊張していたのだ。とても初々しいやり取りだった。高校1年生ながら、このままずっと紗英と一緒に居たいという想いで溢れていた。次の日も学校があったため、そのまま2人は歩いて帰り、私は彼女を家の近くまで見送った。

「送ってくれてありがとう。ねぇ、修くんと連絡先交換したい。メールアドレス教えて」

「あぁ、もちろん! ちょっと待ってね。なんか不思議だな。同じクラスでもう半年以上経つのにお互い連絡先すら知らなかったんだもんな」

2人は携帯電話の赤外線通信を使ってメールアドレスを交換した。

「今日はありがとう。修くんのおかげで素敵な1日だったよ。また明日ね。おやすみなさい。バイバイ!」

これまでの高校生活で私が見たことのないくらい、紗英が笑顔だったのを覚えている。私も笑顔で手を振って彼女を見送った。とても幸せな気分だった。輝く満月を見ながら胸がドキドキしていた。自宅へ着くと紗英からメールが届いていた。「修くんへ。はじめまして。清少紗英です。今夜は私にとって運命の満月の日。これからよろしくね!」私は、部屋で1人眠りに就くことができずに紗英のことばかり考えていた。体中が熱っていた。そして、明け方の5時頃になってようやくいつのまにか眠っていたのだ。

 紗英との出会いから数日後、彼女は正式に陸上部に入った。それまでは彼女の笑った顔などほとんど見たことはなかったが、少しずつ普段からも笑顔でいることが多くなり、私と接するようになってから、以前と比べて明るい性格になった。様々なドラマが繰り広げられた高校生活の中で私たちは常に一緒にいた。彼女は高校2年生になってからアルバイトも始めたのだ。

 

 2006年10月15日、私は陸上の練習を終え、自宅の部屋で一眠りしていた。紗英が競技場のトラックを走っている夢を見た。まるで、その夢で起こされたかのように私は目を覚ました。「今から病院に行く。今夜、一緒に瀬野通りを歩こう!」まさに、時が来たというような感覚で私は紗英にメールを送った。送信ボタンを押した瞬間、私は家から飛び出し紗英がいる瀬野病院まで走って向かった。夜20時を過ぎ外はすっかり真っ暗だった。先週と打って変わって急に風が冷たくなった。紗英からのメールの返信は来なかった。そんなことはもうどうでもよかった。紗英のいる病室へ急いで向かいドアをノックして部屋の中へ入った。

「紗英!」

「修くん」

紗英は私の方に身体を向けながらベッドの上に座っていた。彼女はグレーのパーカーを上に来て、下は黒のジャージ姿だった。頭には鬘をつけ、その上から白のベースボールキャップを被っていた。私は紗英のもとへ駆けつけ彼女を抱きしめた。

「修くん、待ってたよ。会いたかった。私、修くんが今夜来るって信じてた」

「俺もお前に会いたかった。具合は大丈夫か?」

「平気。ねぇ、走ってきたの? 修くんの体暑い。私ね、手が震えてうまくメール打てなかった。打つのに時間かかるから。でも、それより先に修くんの方がきっと来るの早いだろうなって思ってた」

紗英の体も暑く感じた。少し呼吸が荒い感じだった。彼女は鼻にかかったような小声で私のもとで囁いた。

「今日ね、橋本店長がお見舞いに来てくれたの。娘さんも一緒に来てくれたんだよ」

「そうか、よかったな。みんな、紗英のことを応援してるよ」

「ほら、見てこれ。店長の娘さんが作ってくれたの」

紗英の枕元には千羽鶴が飾ってあった。そのすぐ隣には、紗英と橋本店長と店長の娘さんの3人の似顔絵も飾られていた。その絵にはとっても大きな満月も描かれていた。紗英はとても幸せそうな表情をしていた。

「修くん、私の靴をとって」

紗英は、病室のテレビの横に置いてあったアシックスの靴を指差して言った。

「履かせてほしい。あっ、その前にね、修くん、私の右足の靴履いてみて」

紗英は私の顔を見つめながら笑顔で言った。

「アホか、お前サイズ24だろ? 俺、27だぞ」

私は苦笑いして言った。

「でも、紐を外したら履けるって。ほら、早く」

紗英は小意地悪するように小声で囁いた。まるで、少女のいたずらのように。そのいたずらのような笑顔がとても愛おしかった。私は紗英に言われるがまま、しぶしぶ無理やり彼女の靴を履いた。足が全部靴の中に入りきらない状態で少し斜めにかかとが浮いていた。

「いやー、厳しいな。っていうか、かかとが浮いてるし足先も曲がってるよ」

紗英がクスクスと笑っていた。私はそんな彼女を再び抱きしめた。

夜の21時、病院内の廊下はとても静かで、2人はゆっくりと病院を出た。

「ねぇ、私のipod忘れてない?」

「あぁ、ほら、ちゃんと持ってるよ」

私は紗英の白のipodを忘れずに持って自分のズボンのポケットに入れた。紗英が途中で音楽を聴きながら歩きたいと言っていたからだ。彼女と腕を組みながらゆっくりと瀬野通りを歩き始めた。満月が私たちを明るく照らしていた。

「寒い…」

紗英が凍えたように言った。瀬野通りの交通量はまだ多く、学校帰りや会社帰りの人々が行き通っていた。私たちは、肩を寄せ合いながら腕を組み、体をお互いしっかりと密着させ一緒に歩いた。紗英は少し前かがみ気味になっていた。夜の冷たい風で木の葉が揺れ、2人は緩やかなカーブに差し掛かった。すると、木の葉でしばらく隠れていた満月が再び見えてきた。とても綺麗ではっきりと遠くに見えた。私たちはまるで月に向かうように歩いていた。

「待って」

紗英はそう言うと突然立ち止まって、じっと私の顔を見つめてきた。少し泣きそうな顔をしていた。不意にも私は力が抜けてしまった。その瞬間、あろうことか、紗英は急に私の腕から身を離して走りだしたのだ。

「おい! 紗英、待て! 走るな!」

私は全速力で必死に紗英を追いかけた。紗英は左足を少し引きつるようにして走り続けた。

「修くん、私を捕まえて!」

私は、真剣に強ばった表情をしていたのだろう。紗英と出会った2年前と同じだった。そして、100M進んだ先の多田川の陸橋の上でようやく紗英を捕まえ強く抱きしめた。

「お前、バカ野郎! また倒れたらどうすんだよ!」

私は紗英を後ろから強く抱きしめたまま怒るようにして言った。すると、紗英は震えだした。やがて、彼女の泣く声が聞こえてきた。

「修くん、私、病気で死ぬのが怖いよ…」

紗英が大声で泣きだした。震える彼女を後ろから抱きしめたまま彼女の頭を優しくさすった。私もただ、涙だけがこぼれていた。

「怖がらなくていいぞ! 俺が守ってやるからな! 絶対に! 紗英、大丈夫だぞ!」

ただひたすら、紗英を励ましていた。泣いている小さな子供をあやすようにしながら。

「修くんと出会った時、修くんは私を助けてくれた。私の生きる道を与えてくれた。だから、あの時みたいに救ってほしかった。もし、修くんがここで私を捕まえてくれたら、私の病気もきっと治るって思ったから走った。だから… ごめんなさい…」

私達は溢れんばかりの涙をこぼしていた。私は、紗英を抱きしめたまま私の方に身を振り向かせ彼女にキスをした。夜空に輝く満月の下、多田川の橋の上で私と紗英は熱い口づけを交わした。人生で忘れることができない口づけだった。紗英が私の目を見て言ってきた。

「ねぇ、最後に一緒に走って。あのイオンの交差点のところまで。手を繋いで。お願い」

私はどう答えてよいか分からなかった。しかし、紗英の気持ちを素直に受け止めようと思った。

「あぁ、分かった。そのかわり、ちょっとだけだぞ! ゆっくりしか走らないからな!」

私は目をこすり涙声で言い放った。

「約束する」

紗英は泣きながら頷いた。私は左手で紗英の右手をしっかりと繋いだ。そして、2人はゆっくりと手を繋ぎながら走りだした。紗英は引きつるような左足を我慢していた。いつ倒れても支えることが出来るように彼女の背中のあたりを繋いだ手で押さえるようにして走った。夜の空は澄み切っていて、満月の明かりが今までの人生で観てきた中で1番明るく感じた。顔に当たる風が冷たかった。私と紗英は輝く満月に向かって手を繋ぎながら走った。そして、多田川の橋を越えイオンの交差点のところまで着いた。紗英はそのまま下にしゃがみこんだ。

「修くん、ありがとう」

「紗英、大丈夫か!? 歩けるか!?」

「大丈夫。心配しないで。私、大丈夫だから」

「無理するなよ。頼むから」

「平気。ねぇ、歩いて帰ろう。タクシーなんか呼ばないでよ」

紗英はなんとか立ち上がったもののよろけていた。そして、何度も地面に倒れ込むような状態だった。

「ダメだ! 無理だよ! タクシー呼ぶから、ここで一緒に待とう!」

「嫌だ! 歩くの! 歩いて一緒に帰る!」

私は体が震えていた。紗英がいつ倒れてもおかしくない恐怖心でいっぱいだった。彼女はもはや私に対する返答などではなく独り言のようにただ言葉を発していた。それでも、紗英はどうしても自らの力で私と一緒に歩いて帰りたかったのだ。

「大丈夫。歩ける。歩いて修くんと帰るの。ねぇ、音楽聞いて帰ろう。そのほうが元気でるから」

「あぁ、分かった。分かったから。辛かったら必ず言えよ!」

私は紗英のipodをズボンから取り出した。イヤホンを片方ずつ私と紗英のそれぞれの耳に付け腕を組みながら歩いて帰った。紗英は流れてくる音楽の鼻歌を歌いながら必死で歩いていた。目が虚ろであり、途中、紗英は何度も立ち止まり地面に座りこんだ。私はその度に、彼女を抱え込み立たせた。何度も諦めかけたが、紗英の意思を尊重し私達はそのまま瀬野病院まで必死で歩き続けた。イオンの交差点の所から約1時間半かけて、ようやく病室まで着き、私は紗英をすぐにベッドに寝かせた。

「紗英、着いたよ。おつかれだったな。具合悪くなったらすぐに言えよ! ずっと傍にいるから!」

紗英の息は少し荒かった。

「ありがとう。私は大丈夫だよ」

私はずっと彼女の傍にいた。とても心配だった。そのまま落ち着いたのか、紗英はすぐにベッドの上で眠ってしまった。時折、少し苦しそうに体を動かす姿が不安であり何度も彼女に声をかけていた。深夜2時を過ぎて紗英が目を覚まし私に囁いてきた。

「まだ起きてたの?」

「心配で寝れるわけないだろ」

「寝ていいんだよ。私はずっとここにいるから」

紗英が震えたような右手で私の右の頬を優しく触った。手がとても冷たかった。私は涙がこぼれてしまった。

「修くん、泣かないで」

「泣いてなんかいない」

「修くんが泣くと私も悲しくなるよ」

「大丈夫。一緒に寝ような。俺も寝るから」

「うん。ありがとう」

紗英は、ただ、大丈夫だから安心して私に寝てくれと言うだけだった。彼女は安心して再び眠ってしまった。そのまま深夜を過ぎ、日が昇る前の早朝まで私は眠ることができなかった。

 

 10月18日、夕方の18時、陸上部は練習を終え解散前のミーティングを行っていた。

「いよいよ、県の駅伝大会まであと20日だ。正直、3年は男子も女子も最後になるだろう。あとは、各自で秋の練習と調整を大事にするように。いいか、みんな後悔だけはしないように。そして、あとは清少のためにもだ」

松永先生が厳しい表情で言った。同時にサングラスの裏で目に涙を浮かべていた。陸上部のみんなも涙をこぼしていた。やはり、紗英が大会に出ることが絶望的だったからである。正直、女子に関しては、紗英がスタメンで走ることが出来れば、県内での優勝候補にあがり、ほぼ確実に12月に開催される京都での全国大会に出場できた。男子に関しては、全国大会への参加はほぼ不可能であった。駅伝になれば、個々の戦いではなくチームでの戦いとなり、瀬野高校よりも強い高校が県内に5校以上存在したため全国大会への出場は厳しかった。それでも、当時の私にとって京都は憧れの場所だった。

 

 10月20日、16時に授業が終わった。携帯電話を見ると、紗英の母親からの着信が1時間程前に残っていた。ホームルームを終え、私は中庭へと行き紗英の母親の携帯電話に折電をした。コール音が鳴っている最中に空を見上げていた。空はどんよりと曇っていた。

「もしもし」

「佐藤君。急にごめんなさい。学校の授業は終わった?」

「はい、今から練習に行くところです」

「お願いがあるの。今から病院まで来て紗英と会ってほしいの!」

「えっ? 今からですか?」

「練習があるのに、無理を言って本当にごめんなさい。紗英はもうだんだん何を言っているか分からなくなってきている。だから、貴方に会ってほしい!」

「わかりました! すぐ行きます!」

電話での紗英の母親の声は震えていた。私は急いで紗英の病院へと走って向かった。夕方の16時半頃に病院に着いた。日の入りがだんだんと早くなる時期であり少しずつ外は暗くなりかけていた。私は病院の5階まで階段を駆け上がり、紗英の病室まで小走りで向かった。そして、ふとなぜか、一瞬病室の前で立ち止まった。深く深呼吸をしたが、なかなか落ち着かなかった。右手が震え出し病室のドアを開けることができなかった。そのまま2分くらい過ぎた。すると、紗英の母親がドアを開け病室から出てきた。

「佐藤君!」

紗英の母親が少しビックリしたような表情で言ってきた。顔が少し強張っていた。

「お母さん、紗英に会いに来ました!」

「ちょうど良かった。来てくれてありがとう。ちょっと部屋を出るから、その間、紗英のことお願いね」

紗英の母親はそう言って部屋を出ていった。紗英の母親の後ろ姿を見て、私は不安な気持ちになってしまった。そして、急にいてもたってもいられない気持ちになり、勢いよく病室の中へ入った。すると、ベッドに仰向けに寝ている紗英の姿が見えた。寝ているのか起きているのか分からない状態で目は半開きだった。

「紗英?」

私は紗英にそっと近づき話しかけた。

「修くん…」

紗英がゆっくりと私の顔の方を見てきた。目を必死で開きながらじっと私を見つめていた。かすかな小声であり少し聞きとりづらかった。顔は青白く目が潤っていた。

「私ね… 18歳に… なったら… 修くんと… ドライブしたい… 免許を… とりにいきたいな… 車で一緒に… お出かけしたい… それまでに… 生きて… いられるかな…」

「馬鹿なこと言うな! 当たり前だろ! 紗英のお誕生日、県の駅伝大会の日だ。終わったら必ず一緒にお祝いしような!」

「修くんと… ドライブしてね… 途中で… 修くんを… 車から降ろすの… そして… 修くんは走って… 私は車を… 運転して… 勝負するの… 修くんの… スパートよりも… 速い車でね… 修くんを… 追い抜いて… 笑ってやるんだ… だって… 修くんの… スパートは… 全国一だって… 私… 信じてるから… 修くんに… 勝てる人なんて… 絶対に… いないんだから…」

「紗英、俺、必ず区間賞取るから! 俺と一緒の大学に行くんだろ! 大学でも一緒に陸上するんだろ! 俺が箱根駅伝出れたら応援しに来てくれるんだろ! 免許もとって一緒にドライブしよう! 約束だぞ! 紗英、頼むからずっと俺の傍にいてくれ… お前を愛してる…」

私は泣き叫びながら紗英を強く抱きしめた。紗英も目から涙をこぼしていた。

「でもね… 修くん… 私ね… お願いが… あるの…」

「どうした!?」

「私が… どんなに… 離れて… いっても… 必ず… また… 捕まえに… きてね… ずっと… 離さないで… 抱きしめて… いて…」

「離さないよ! 絶対に! お願いだ! 紗英、頼む! 離れないで! 紗英… 紗英…」

「修くん… 私は… 修くんが… 私を… 捕まえに… 来て… くれた… から… 私… 幸せ… だったよ… あり… がとう……」

最後の力を振り絞って紗英が言葉を口に出した。目は半開きのまま私のほうをずっと見ており、次第に、彼女は言葉を発せなくなった。そして、目から涙を流しながら静かに瞳を閉じていった。私はずっと紗英を抱きしめていた。夜が更けて深夜となり時計の針は1時、2時とただ時間だけが過ぎていった。紗英は目を閉じたまま仰向けで寝ていた。夜が明けて朝を迎えた。やがて、彼女は目をつぶったまま動かなくなった。

 午前8時頃、医師や看護師が病室に入ってきた。医師達はすぐに紗英の容体を確認し、彼女は人工呼吸器を付けられ、ベッドの横には心電図が置かれた。病室内はとても緊迫していた。お昼頃になって、ようやく病室内は落ち着き、ずっと仰向けのまま彼女は綺麗な顔で目をつぶったままだった。紗英の母親と父親も眠ったままの紗英の様子をそっと見守っていた。私が紗英の手を握ると、かすかに反応して私の手を握り返してくれた。だが、数日経つにつれ、紗英の容体は急変し全く反応しなくなった。病室に行くたびに、心電図の音だけが小さく鳴り響いていた。私は、毎日、学校の授業と陸上の練習が終わった後に、病院へ駆けつけていた。毎日、紗英の母親と連絡を取り合っていた。紗英の意識はまだあるという言葉を聞くだけで、毎回なんとか気持ちを落ち着かせることができた。病室では、眠ったままの紗英を見て、その日にあった出来事をいつも彼女に向かってそっと話しかけていた。

「紗英、また明日来るよ」

私はそう言っていつも病院を後にしていた。病院を出るたびに、胸が痛くはかない気持ちでいっぱいだった。

 

 10月29日、県の駅伝大会前の最後のトラックレース大会が大村競技場で行われた。この日、天気は曇りで風も冷たかった。私は14時からの5000Mのトラックレースへの参加だった。ここは、6月に紗英が倒れる直前に最後にレースで走った場所だ。紗英は最後のレースにアシックスの靴で試合を走ることができなかった。私は彼女のアシックスの靴を会場に持って来ていた。その靴の中にはピンクのお守りが2つ、それぞれ右足用と左足用に入っていた。両足の靴をトラックのスタートラインの内側の芝生の上にそっと置いた。私はしゃがみこんで、両手で紗英の靴を掴みながら10秒間くらい目をつぶった。私の目から一瞬涙がこぼれた。私はすぐに涙を拭いウォーミングアップを開始した。レース前の緊張感などもはや何もなく、ただ、ひたすら目の前のトラックを走り抜けることに集中していた。レースは順調に進み無事に走り終えた。私は13分58秒という自己ベストのタイムを打ちだした。試合が終わった後、私はすぐに紗英の病院へ向かった。夕方の18時半頃に病院へと着き病室へ入った。部屋には私と紗英の2人だけだった。

「紗英、ただいま。なぁ、今日、俺が走っていた姿見えていたか? 走っているときに、まるで紗英も走っているかのようにアシックスの靴も跳ねていたよ」

私は全く動くことなく目をつぶったままの紗英にそっと声をかけた。その時だった。反応するはずのない紗英の目からかすかに一滴の涙がこぼれた。これが紗英との別れの合図だった。私は彼女の手をずっと強く握りしめていた。何度も紗英の名前を呼んでいた。そして、紗英は私の腕の中に包まれたまま天国へと旅立っていった。

 11月3日、紗英の告別式が行われた。紗英の家族や親族、学校関係者など200名近く集まっていた。秋のすっきりとした晴れの日だった。誰しもが命の尊さを儚く感じていた。棺桶に入れられた17歳の紗英はあまりにも綺麗な顔をしていた。どうしてじっとして動かないのか。なぜ笑ってくれないのか。なぜ私のことをからかってくれないのか。悲しいはずなのに涙があまり出なかった。私は、紗英のアシックスの靴の中にピンクのお守りを2つそれぞれ片足ずつ入れて、その靴を棺桶の中に入れようとした。

「待って! お願い! その靴は棺桶に入れないで! 「修くん」の最後のレースまで持っていてほしいって。天国には持ってこないで「修くん」に渡してって。紗英からのメッセージだよ」

紗英の母親が手でハンカチを顔に当て涙を流しながら私に頭を下げて言った。私はこらえていた涙が溢れんばかり出た。紗英の告別式を終えた後、私は家へ帰るために葬儀場に停めてあった私の母の車に母と一緒に乗り込んだ。

「修ちゃん…」

「お母さーん!」

私は車の中で母に抱きついて大声で泣いた。まるで小さな子供のように。もはや、恥ずかしさなど全く無かった。この悲しさを表現できるのが母しかいなかったのだ。

「修ちゃん、紗英ちゃんは必ず修のことを天国から見守ってくれてるから! 貴方が辛い時はいつも! これからの人生頑張って生きなきゃだよ!」

母は力強く涙声で私に言った。私と母は大粒の涙をこぼしていた。この時は、母の温もりを感じた。私が泣き止むまでずっと私のことを力強く抱きしめていてくれた。まるで、幼い時に感じたとても懐かしいものだった。

 11月6日、私は陸上の最後の練習の追い込みに取組んでおり、夕方の18時頃に練習が終わった。母が仕事を終えて学校まで車で迎えに来てくれていた。私は母の車に乗り込み、自宅の近所のスーパーへ夕飯などの材料を買いに向かった。家の近くの公園の交差点を曲がり、あと30秒ほど車でまっすぐ進めば家に着くところで、私は助手席から母に言った。

「お母さん、俺、絶対区間賞とるよ! 区間新記録作るから!」

私は母に宣言した。

「修ちゃん、お母さんはね、修ちゃんが走れるようになって試合に出てくれるだけで幸せだよ。必ず応援に行くから無茶しないようにね。ほら、寒いから先に玄関開けて電気とストーブつけておいて。お母さん、車停めてくるから。あと、これもお願いね」

母が私を先に車から降ろして、スーパーで買った買物袋を持たせた。家の玄関を開けると部屋は真っ暗でとても寒かった。私は部屋の明かりとストーブをつけ、買物袋から食材などを取り出し冷蔵庫の中に入れた。5分ほど経ってから、母が玄関を開けて帰ってきた。もうすっかり寒い晩秋の夜、この日の夕食はキムチ鍋だった。

 

 11月8日、ついに、県の高校駅伝大会の日を迎えた。私は朝5時半に目を覚ました。まだ空は暗くほんの少しだけ明るくなりかけていた。部屋から台所へ向かうと既に母は起きていて、私のお弁当や朝食などを作って待っていてくれた。

「修ちゃん、いよいよだね。無理をしすぎないように頑張ってね」

「うん、頑張るよ!」

「修ちゃん、これ、持っていって。お腹が空いたらバスの中で食べなさい。お母さんもあとで応援に行くからね」

「ありがとう! じゃあ、行ってくるよ!」

私は母が握ってくれたおにぎり2つを鞄の中に入れ、玄関を開けて家を出た。瀬野高校まで自転車で向かった。高校に着いたのは朝6時半前だった。そして、バスに乗り陸上部一同は試合会場へと向かった。バスが瀬野通りから高速手前のインターチェンジのカーブを走っていると、朝日の強い光が私の顔に当たった。そして、高速を走りだし、私は鞄の中から母が握ってくれたおにぎりを取り出した。アルミホイールに包まれたおにぎり2つはそれぞれ明太子とゆかりのおにぎりであり、この時に食べたおにぎりの味は今でも忘れられない。

 陸上部のメンバーを乗せたバスは午前8時前に駅伝大会の会場へ着いた。道の駅のような大きな広い駐車場にバスは停まった。バスを降りると、たくさんの他の高校の選手達や駅伝大会の関係者達が大勢いた。ここは、大村競技場からさらに北へ40キロほど離れた、田園風景が広がる田舎町の中だった。私達が駅伝で走るコースは、途中、海沿いの国道も走るようになっており、既に、この町の道路は駅伝大会のために交通規制がされていた。道路上には赤いコーンが並べて置かれてあり、歩道には横幕のテントがいくつも建てられていた。試合会場には瀬野高校の3年生の生徒達と先生達も応援に来てくれていた。橋本店長とその娘さんも応援に来てくれた。そして、紗英の母親も応援に来ていた。紗英の遺影を持っていた。この日は清少紗英の誕生日だった。もし、紗英が生きてれば、彼女はこの日で18歳を迎えるはずだった。私は紗英のアシックスの靴も試合会場に持って来ていた。そして、その靴を持って紗英の母親のところに歩いて向かった。

「佐藤君」

紗英の母親が私に気付いて言った。目が潤んだ様子だった。

「お母さん、約束です。今日、紗英の靴を持ってきました。僕が走り終わるまでは、僕に紗英の靴を持たせてください」

「ありがとう。どうか紗英の分まで頑張ってね。紗英と私は、貴方の走りをここでしっかりと応援するわ!」

「はい! 一生をかけた気持ちで頑張ります!」

私は紗英の靴を持って練習場へと向かった。そして、その靴を常に傍に置きながらウォーミングアップをしていた。

 午前10時に女子の駅伝がスタートした。私は彼女達が走る姿を必死で応援した。紗英が走る予定だった5区の5キロは、2年生の後輩の女子が走った。彼女の走りはフォームが安定しており素晴らしかった。夏から秋にかけて順調にタイムを伸ばしてきており、16分ちょうどのタイムで走り切り、区間3位の好記録だった。女子の駅伝が行われている最中に、私は空いている芝生のスペースを見つけ、芝生の上でストレッチを行っていた。1年生の男子の後輩が私のサポートを手伝ってくれた。

「佐藤先輩、先輩らしい走りで頑張ってください! 最後は先輩のスパートに期待してます!」

「ありがとう。なぁ、1つだけお願いがあるんだ。俺のジャージを第一中継所のところに持っていく時、この靴も一緒に持って待っててくれるか?」

「分かりました。清少先輩もきっと佐藤先輩が1番に走ってくるのを待ってますよ!」

「あぁ、頑張る! 紗英、待っててな! 俺、行ってくるよ!」

私は立ち上がり、紗英の靴を右手と左手でそれぞれ片足ずつ持ちながら10秒間ほど目を閉じた。そして、紗英のアシックスの靴を青の袋に入れ、自分のジャージと一緒に後輩に手渡した。

 12時20分、男子の駅伝のスタート10分前となった。私が走るのは1区であり、1区の区間は10キロである。私はスタートの位置の少し手前で体をひねくり返し、心を落ち着かせていた。何度も靴の紐がしっかり結んであるか確認した。そして、いよいよ12時30分、審判がスタート銃を上に向けた。

「位置について!」

全38名の男子の選手が一礼をしてスタート場で構えた。そして、銃声が鳴り響くと、一斉に選手達は集団で走りだした。私は、一気に加速し、最初の500Mから1キロまでは私を含んだ上位5名が集団で同じペースで走った。この5人はまるで、いつどのタイミングでさらに前へ出るかとタイミングを見計らっているような様子だった。

「お兄ちゃん、がんばって!」

2キロを過ぎたあたりで、1人の女の子の声が聞こえてきた。その女の子の隣には橋本店長の姿が見えた。橋本店長も必死で私のことを応援していた。瀬野高校の陸上部のみんなが私を励まし応援してくれていた。応援の歓声が一気に上がり、私はその歓声に応えるようにしてスピードをあげていった。私の順位はこの時3位だった。私より20Mほど前を2名の選手が走っており、私のすぐ後ろに4位の選手がぴったりと付いてくるように走っていた。

「佐藤、ファイト! 今日はお前にとって運命の日だぞ!」

服部先生の声が聞こえてきた。そして、先生の横で3年1組のクラスメイトのみんなが私を応援してくれていた。

「佐藤、後ろは見なくて大丈夫だ! ペースはそのまま!」

松永先生が冷静に私に指示を出してくれていた。3キロを過ぎて、4位以降との差がだいぶ離れた。私はスピードを落とすことなく同じペースで走り続けた。そして、1位と、2位の選手のペースがそれぞれ、ごくわずかに落ちてきており、私を含めた上位3人はほぼ固まるようにして走り続けた。10キロを走る場合、長いと思ったら駄目なのである。そのような考えをした瞬間、必ず途中で力尽きてしまうからだ。あくまで、マラソンを走るようなジョギングだと思って、ただ冷静に走るしかない。5キロを過ぎて、私と男子の優勝候補の高校の選手と1対1の争いとなった。だんだん、走っているうちに暑さを感じてきた。2人で追い抜き追い抜かれの繰り返しだった。追い抜かれる度に、なぜか毎回絶望感を感じた。なぜ抜かれるのか。悔しい。私はずっと2人で争うようにして走り続けた。

「修! 負けるな! 頑張れ!」

歩道を見ると、私の母の姿が見えてきた。ようやく、母を見つけ、母が応援してくれる姿を見て、私は少しだけ気持ちが楽になった。母の声援が私にとても勇気を与えてくれた。私は苦しい表情ながらも母に向かって親指を立て合図をした。

 7キロを過ぎた。10Mほど前を走っていた1位の選手に向かって私はだんだんと差を縮めていった。そして、ようやく1位の選手を抜き返し、今度は逆にその選手と10Mほど差を広げた。しばらく同じペースで走り続けた。だが、途中で差し掛かってくる微妙な登り坂が私を苦しめた。一瞬だけ後ろを振り向いた。2位の選手もこの登り坂に苦しんでいた様子であったが、私のことを今にも抜き返してやるといわんばかりの表情だった。私は苦しみながらも周りの風景などを見ながら気を紛らわせて何も考えずに走り続けた。私の目の前を白バイが走っており、ただ、無意識に白バイに付いていくような走りをしていた。

「おい、白バイのペースに合わせてどうすんだ!? お前がペースを作れ!」

登り坂を終え平坦な道を走っていると松永先生からの喝が入った。第一中継所まであと残り1キロ程のところまできた。そこで、私は不思議な感覚になった。

「修くん!」

私の中で何かが聞こえた。

「紗英!?」

私は思わず心の中で叫んだ。

「修くん、私を捕まえて!」

紗英の声が聞こえきたのだ。まるで幻の世界にいるような感覚だった。私は走っていてだんだんと怖くなった。紗英がどんどん遠くに離れていくような気がしていたからだ。私の全身から汗がひたすら湧き出ていた。私には、何故かいるはずのない紗英の声が聞こえ、彼女が私のことを応援しているのは確かだった。しかし、がむしゃらに全速力で走るにはまだ距離が長かった。ここで、いかにフォームを乱さず歩幅を広げてスピードをじわじわあげていくかで勝負が決まる。第一中継所まで残り500メートルとなった。私は1位を争っていた選手と共にスパートをかけ始めた。熾烈な1位争いになった。もうここまでくれば一瞬でも気が緩んでしまった選手が負けとなる。残り300M。最後は倒れてもいいと思った。人生、最大のスパートをかけた。紗英が6月の最後のレースで倒れた直前のスパートは、きっとこの時の私のスパートよりも遥かに何倍も辛かったのだろうと思った。私は死ぬつもりで走った。限界とは一体どこなのか。何を以て限界と言うのか。一瞬目の前が真っ白になった。気が付いたら、第一中継所まであと30Mほどであり、そこには2区の選手が待っていた。私はタスキを体から外して手に持って走った。

「頼むぞー!」

私は命がけでタスキを2区の選手に渡した。そして、ほぼ同時に2位の選手がタスキを繋いだ。何秒差だったのか、自分のタイムが何秒だったのか、全く分からなかった。私はセイコーの腕時計のタイマーを押すことなくよれよれで歩き、中継所で待っててくれた1年生の後輩の男子が私を支えてくれた。そして、路上の端っこの方へ2人で肩を組みながら歩き、私はそのまま歩道の上に倒れた。呼吸がとても苦しかった。数分の間、歩道の上に仰向けで倒れたままだった。この時の記憶はほとんど覚えていないが、彼が私の傍にずっといてくれたのを覚えている。15分くらい経って、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。私は起き上がってジャージに着替えた。私のところへさらに2名、男子の1年生の後輩と女子の1年生の後輩が来てくれた。

「先輩、おめでとうございます! 1位でしたよ! 2位とは2秒差で、しかも区間新記録です!」

「そうか… よかった…」

私は後輩の言葉を聞いて安堵のため息をつき、ただ目をつぶって呟いただけだった。

「佐藤先輩、清少先輩の靴です! 清少先輩、絶対天国で喜んでますよ!」

「あぁ、本当にありがとうな!」

私は感激して泣きそうな気持ちだった。紗英の靴を第一中継所まで持って来てくれた後輩の頭を優しく触った。感謝の気持ちでいっぱいだった。

「みんな、ありがとう! 来年は、みんなも頑張ってな!」

「はい! ありがとうございます!」

私は第一中継所の近くで、紗英の母親が私の走り終わった様子を見ていた姿に気付いた。そして、紗英のアシックスの靴を持って紗英の母親のところへ向かった。

「お母さん、応援ありがとうございます!」

「佐藤君、おめでとう! そして、紗英のためにもありがとう!」

「とんでもないです。お母さん、紗英の靴をお返しします。僕にはもう必要ありません」

私は紗英の母親に紗英のアシックスの靴を手渡した。紗英の母親は一瞬、この靴を受け取ることを躊躇っていたが、そっと靴を受け取った。

「紗英はね、幸せだったのよ。亡くなる前はもう言葉もほとんど何を言ってるか分からない時もあった。だけどね、貴方のことを話すたび力がみなぎったようになって、私と主人だけでは面倒を見切れなかったの。本当にありがとう」

「僕は「紗英さん」と出会えて本当に幸せでした。ありがとうございます!」

私は紗英の母親に深く頭を下げお礼をした。紗英の母親もハンカチで涙を拭きながら私に深く頭を下げていた。そして、私は後輩達のところへと戻り、彼らと一緒に男子の選手達を応援しに向かった。

 高校駅伝は男子が6位、女子が3位で無事に競技を終えた。私は閉会式で表彰をされ賞状を頂いた。閉会式が終わり、帰りのバスが停まってある大きな広い駐車場のところに陸上部の選手達は集まっていた。しばらくして、松永先生が私の姿を見つけると、先生は私のところに向かってきた。私は思わず先生のところへ小走りで向かい、先生と抱き合った。

「佐藤、おめでとう! いろいろと辛かったな。だけど、お前はまだ若い。人生これからいろいろある。どんなことがあってもこれだけにはなるなよ!」

この時、松永先生が泣きそうな表情だったのを初めて見た。先生は自分の鼻の先に手をつけ人差し指を上に指して言った。つまり、区間新記録を出した私に対して天狗になるような生き方はするなよという意味だった。

「先生、本当にありがとうございます! 俺、先生の言葉、一生忘れないです!」

私は涙を流していた。そして、先生に深々と頭を下げていた。

 帰りのバスが駅伝大会の会場を出て瀬野高校へと無事に着いた。私は高校から真っすぐ家へと帰った。私はこの日の夜、部屋で1人ずっと泣いていた。涙が枯れるほどだった。17年間生きてきた人生の中で1番泣いたのだろう。区間賞を取り、新記録を出した嬉しさなど全く無かった。ただ全てが終わったという解放感と紗英がこの世からいなくなった悲しさだけの涙だった。

 

 翌年、私は大学へ進学した。第一志望であった国立大学になんとか入学することができた。高校の時に住んでいた自宅からも通学できる範囲だった。私は大学に入ってから陸上部に所属することは無かった。高校を卒業した後、走る意欲を失っていたからだ。その分、大学時代は高校までとは違った貴重な経験をしたり楽しい思い出を作ったりと、それなりの学生生活を過ごすことができた。

 

 大学を卒業してから数年が経った。私はごく普通のサラリーマンである。結婚するような予定もなければ恋人もいない。普段、生きていて目的が何もないまま毎日を過ごしていた。現代の世の中は、目まぐるしく様々な事件や事故が増えつつあると思うのは私だけだろうか。それとも、こんなにも世の中が情報化社会に変化してきているからだろうか。いつの間にか、誰しもが容易に情報を得ることができる時代になった。こんな時代に生きる目的を見つけられないことが私にとって1番辛く感じる。ずっと大事に使っていた紗英のipodも気が付けば壊れていた。

 

 ある日、私は3年ぶりに体調を崩した。急性の胃腸炎だった。会社も7日間くらい休んでしまった。病院に行き採血を受けた。私は採血など怖くて苦手である。この年は会社の健康診断の時と含めて2回も受けた。今更だが、私は病院というのが基本的に苦手で恐怖感を感じてしまい、紗英が入院していた時も恐る恐る病院に行っていたのだ。

 それから1週間程経った。体調も少しずつ良くなってきた。14時頃、私は、昔、紗英がアルバイトをしていた駅前のカフェに1人でいた。コーヒーを飲みながら煙草をふかしていた。もう、当時の橋本店長とは違う人がお店の店長だった。

 夕方、私はふと、母校である瀬野高校に行ってみた。校内は昔と大して変わっていなかった。少し変わった部分といえば周りのベンチが新しくなっていたくらいである。花壇も校舎も変わっていなかった。校内では生徒達が会話をしていた。内容はグループLINE(ライン)のやり取りでの仲間の噂話などだった。会話の詳細に聞き耳を立てていた訳ではないので内容は覚えていない。ただ、生徒達が口にしていた「LINE」という会話が新鮮だった。私が高校生だった当時はスマートフォンも無ければLINEも無かった。その当時の携帯電話といえば折りたたみやスライド式のものが主流であり、メールを利用することが当たり前の時代だったからだ。LINEの「ピンポン」という通知音が鳴り響いていた。しかし、そのような会話以外は、やはり、彼ら彼女らは瀬野高校の生徒達という雰囲気だった。瀬野高校のDNAがそのまま今の生徒達に受け継がれているような感じである。これは、人それぞれ、その母校を卒業した人でないと分からないような感覚だ。

 運動場の方へ歩いて向かうと陸上部が練習をしていた。監督は当時の松永先生ではなく、松永先生よりも若くてスラっとした体型の先生だった。サングラスはかけていなかった。私は陸上部のメンバーの中で1人気になる女子生徒を見かけた。彼女はアシックスのソーティジャパンの赤ラインの靴を履いて走っていた。彼女は走り終えた後、私のほうを見て、そのまましばらく私の顔を見つめていた。どこかで見覚えのある顔だった。すると、彼女のほうから私のもとへ小走りにやってきたのだ。

「佐藤修さんですか?」

私は彼女に声をかけられた。

「はい」

私は少し戸惑いながら返事をした。懐かしい顔の女の子だった。髪は肩より長く後ろで1本に結んでおり、前髪が眉毛あたりの長さで髪の色は黒だった。体型も普通で身長は紗英と同じくらいだったのだろうか。

橋本(はしもと)()(づき)です。私のこと覚えていますか? 昔、佐藤さんが駅伝で走る姿を応援しに行きました」

一瞬、この子が誰なのかを考えた。そして、蘇るように彼女のことを思い出した。

「橋本店長の娘さん!」

「そうです! 父の事も覚えていてくれて嬉しい! 父はカフェの店長でした」

夢月さんは高校2年生になっていた。彼女は瀬野高校に入学して陸上部に所属していたのだ。

「びっくりしたよ! そうか、もう高校生か。大きくなったね!」

「はい! 私もびっくりしました! まさか、こんなところでお会いできるなんて。佐藤さんは私達のOBになるんですね」

「陸上部に所属しているなんて、なんかすごく運命的で、とても嬉しいよ! お父さんは元気にしてるの?」

夢月さんは一瞬表情を曇らせた。

「実は、父は8年前に亡くなりました。私が3歳だった頃に胃がんを患いずっと病気と闘ってきました。そして、私が9歳の時に亡くなりました」

「嘘だろ…」

私は、その言葉を聞いてとてもショックを受けた。

「父は、私が陸上選手になることをずっと応援してくれていました。だから、私も瀬野高校に入って陸上部に入ろうと決めたんです」

「それは辛かったね。夢月ちゃん、今はお母さんと暮らしているの?」

「はい、母と2人です。母は女手1つで私をここまで育ててくれました。母には感謝しています」

若くして様々な苦労を乗り越えてきた彼女に対して、私はしみじみと感じていた。すると、彼女の方から私に問いかけてきた。

「佐藤さん、今も陸上を続けていますか?」

「いや、僕はもう陸上を辞めて何年も経っている。昔と違って走ることはできない」

「私、佐藤さんが県の駅伝大会で走っていた姿を今でもよく覚えてますよ」

「そうか、なんか恥ずかしいな。でも、まだ夢月ちゃんが小さい頃だったから、覚えててくれて嬉しいよ」

「佐藤さん、私の走りを1度見ていただけませんか?」

私は、彼女のこの言葉を聞いて過去の記憶を思い出した。かつて、橋本店長が私に彼の娘と一緒に走ってほしいと言ってくれたことを。

「もちろんだよ! でも、一緒に走ることはできない。ここで観ているからトラックを走ってみてくれる?」

「嬉しい! きっとパパも天国で喜ぶわ!」

夢月さんは急に子供のようにはしゃぎだした。夢月さんは3000Mを走った。最初の1000Mまでは順調な走り出しであったが、2000Mまでに彼女のペースは少しずつ落ちていった。残り1000Mとなり、少しずつラストスパートをかけペースを上げているようであったが、体がとても重そうな走りをしていた。フォームだけ見ればスピードが上がったかのように見えるが、実際のスピードはあまり出ていなかったのだ。彼女のフォームは未熟で乱れており、プロの走りとは言えないものだった。脇が少し開いた状態であり女子独特の手がぶれる癖があった。タイムは10分10秒だった。

「お疲れ様!」

「ありがとうございます!」

夢月さんは走り終わってから疲れきっていた。

「夢月ちゃん、3000Mの自己ベストは?」

「10分3秒です。あー、悔しい! もう少しで9分台なのに…」

「夢月ちゃん、フォームを直せばもっとスパートが出せるようになるよ。そうすればきっと9分台で走れる。夢月ちゃんのスパートはまだ本物じゃない」

「本物ではないのですか?」

「そう。フォームを直すと自然と本物のスパートが出せるようになる。今のままで乱れたフォームでのスパートは、ただの全速力であって最後までペースがもたない。最終的には、フォームは自分で見つけるものなんだ。人から言われても、その人に合ったフォームで走り続けないとタイムは伸びないからね」

「ありがとうございます! また次回、挑戦するのでその時も指導お願いできますか?」

「わかった。まぁ、何か目標を持つのも良いことだよ。例えば、世の中には、満月の夜なんか、月を目指すようにして月に向かって走る人もいるんだよ」

「へぇー、素敵ですね! 佐藤さんも月に向かって走っていたんですか?」

「あぁ、遠い昔はね… そうそう、瀬野通りから見える満月はとっても綺麗なんだよ! 確か秋が1番綺麗に見えるかな…」

「佐藤さん、私、実は今日が誕生日なんです。私が産まれた日は満月の夜でした。私の名前の「夢月」は父が名づけてくれたんですよ」

「そうか! 今日なんだね! おめでとう! とってもいい名前だね! きっとお父さんも夢月ちゃんの成長を天国でずっと見守っているよ!」

「はい! ありがとうございます! 佐藤さん、来月11月に県の駅伝大会があるんです。私も出場予定です。もし、お時間があれば是非試合を観に来てください!」

「それは楽しみだね! 是非見に行くよ! 頑張ってね!」

「はい! 頑張ります! あと、私と連絡先を交換していただけますか? よかったら佐藤さんのLINEを教えてください」

とても新鮮なやり取りだった。夢月さんは高校生でありながら本当に言葉づかいなど丁寧でしっかりした子だった。なんとも不思議でありとても懐かしい感覚だった。

 夕方の18時、私は家に帰ってきた。外はもう暗くなっており、数分の間、部屋の窓から外を眺めていた。少しずつリラックスした気分になり、気が付けば、ソファの上で夜中の22時頃まで寝ていた。不思議な夢を見ていた。どんな夢だったのかはっきりとは覚えていない。部屋の電気をつけたまま寝ており、ふと目が覚めて、何時なのか分からず、携帯電話スマートフォンを見ると22時15分だった。そして、1通のLINEが届いていた。夢月さんからのLINEだった。「佐藤さん、今日はありがとうございます。私はさっきまで練習でした。また今度走るところを見に来てくださいね。それでは、おやすみなさい。P・S 今夜は綺麗な満月ですよ」私は夢月さんからのLINEを見て微笑ましくなった。すると、何か思い立ったかのように部屋の窓を開けて窓から再び外を見た。そして、部屋のデスクの引き出しの中にずっと入れてあったピンクのお守りを二つ取り出して、右の手のひらに乗せそれをじっと見つめた。

「紗英…」

私は1人呟いた。お守りを右手で強く握りしめた。私はお守りを2つ持ち玄関を勢いよく開け外へ飛び出した。家を出て1人瀬野通りに向かって走っていった。

 

 2016年10月14日、夜空には満月がとても綺麗に輝いていた。私は走るのを辞め月に向かって瀬野通りを歩きだした。上着のポケットからスマートフォンを取り出した。待ち受け画面を見ると、時刻は22時50分だった。耳にイヤホンを付けスマートフォンに入っている音楽をかけた。

 10年前、同じ曲を聴いていた。紗英と手を繋ぎ最後に一緒に満月に向かって瀬野通りを走った日の夜、私は紗英と病院まで必死になって一緒に歩きながら紗英のipodを持って音楽を聴いていた。そして、12年前、私が紗英と出会った日も夜空には綺麗な満月が輝いていた。2人で手を繋いで瀬野通りを走り、最後は全速力で満月に向かって走った。私が高校生だった頃、今の携帯電話でこんなにも便利に音楽を聴けるなど夢にも思っていなかった。今の時代は連絡を取り合う時はLINE等が主流になってきている。瀬野通りを走る自動車の形も、時代の変化と共に気付かぬうちに変わってきたのだろう。

 かつて、松永先生が、人を支えることは大変だと言ってくれたこと。服部先生や大橋先生が、信念を貫き、ブレるなと言ってくれたこと。私は、先生達の言葉の本当の意味を大人になってもなかなか理解することができなかった。私は、大切な人を支えることができずに自分が弱いと思い込んで自分を責め立てていた。それだけでなく、大切な人を失い、約10年の間、気持ちが大きくブレた人生を歩んできた。信念や意志など持つことができなかった。もし、陸上の強い私立大学に進学していれば違った人生だったのかもしれない。国立大学に進学するまでは、受験勉強を頑張ったものの、肝心の大学での勉強は疎かにするばかりで、就職活動などまともにしなかった。大学に入ってから今に至るまで、自分の生きる道や目標など何も探し出すことができなかった。

 私が、ピンクのお守りを紗英の靴と一緒に返すことなく、ずっと持ち続けてきたのは、いつかまた、紗英に逢うことができるかもしれないと想い続けてきたからである。そんなことは、あり得るわけがないはずなのに、私は愛していた人の死をずっと受け入れることができないまま歳を重ねてきた。私はずっと生きる希望を失っていたのだ。嘘でもいいから、目の前に紗英が現れて、紗英を捕まえにいけるような日を待ち望んでいたのだろう。

 歩いていて顔に当たる風が冷たかった。多田川の陸橋のちょうど真ん中あたりに差し掛かったところで私は足を止め、イヤホンを耳から外した。なぜか涙を流していた。

「紗英?」

私は思わず声を出した。遠くに見える月に向かって。月を見ていると紗英が笑っていた。遠い昔、私が足をつまずけた多田川の陸橋の段差はいつの間にか消えていた。

「紗英、俺が死んだら、天国で捕まえに行く!」

過去は変えられない。運命を変えたければ、今、自分が変わるしかない。私は橋の上から多田川に向かって、ピンクのお守り2つを思いっきり投げた。

「いつか、また一緒に走ろう! 天国から月に向かって! それまで生きるよ! 紗英がいなくても… 満月のように強く輝いて…」

 今夜、私は月に向かって全速力で走った。


     完


※この作品はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空のものであり実在のものとは一切関係ありません。

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