第一章20 『気体戦術』
真っ暗な廃工場のような場所に、蒼天の矢の如く光が差し込む。それはまさしく希望の光。大逆転の可能性を秘めていることにオレは気づいた。
(壁から光……それに何か崩れてきてるし埃っぽいし……。まてよ、あれって……そういうことか!!)
空気圧による圧迫、物質の粉砕。こちらの世界でも物理的理屈はやっぱり成り立つのだ。魔法だから何でもありかと思っていたが、現世界の理屈は健在だった。
普通よりも密集した空気は、風船をいっぱいまで膨らませたときように外壁を強く押し出す。そして、今目の前で起きていることはまさしくそれそのもので、今までオレの周りにあった空気をフォートのもとへと移動させた。そのせいで普通よりも強くなった空気圧が、外に出ようとして壁に穴をあけた。そのためにできた穴が、今オレの目の前にあるあの光だ。
窓ガラスもないこの建物なら、もろくなっている壁が崩れてもおかしくはない。
しかし、それに気づいたところで彼の体は限界を迎えていた。長時間の無呼吸、大量出血にあわせ、過度な気圧変化による鼓膜の破裂。もはや意識を保つのでやっとだった。
だが、そこで諦めないのがナイトだ。普段ならめんどくさがってそのまま諦めている。自分が死んでしまうようなことでも「こんな人生か」と簡単に投げ捨ていただろう。
だけど今のナイトは諦めることはない。なぜなら、ここで諦めてしまったら過去と全く同じ運命を繰り返してしまうと思ったから。命をくれた人だったから。そして、自分と同じ思いをザークにしてほしくなかったから。絶望に堕ちた姿をもう二度と見たくなかったから――。
だからオレは『諦めない』。
(何かないか……! 何か……やつの周りに空気が密集してんのは分かってんだよ! ……く、意識が……、ん? まてよ、あいつの周りに空気が密集してんのに何であいつは潰れないで平気でいられるんだ?)
物理常識を無視したフォートが、相変わらずの嫌味笑顔でこちらを見ている。ふつう、空気量が一定よりも多かったら深海に沈んだ時のように人間の体はペチャンコのはずだ。だが、奴の体は正常どうり。それに加え、ペラペラとどうでもいい言葉を並べることだってできているのだから尚更不自然だ。
「おや、壁に亀裂が入ったようですねぇ。光が入ってきて少々鬱陶しいですがまぁよいでしょう。さぁ早く窒息死だ……!! 死ねぇ! 死ねぇ!」
声は届かないが、奴が何かを言っているのは分かる。だが、ナイト自身、もはや意識はなくなりかけ、目の前すらもぼやけて立っていることがやっとだった――。
そんな絶望的な現状だったが、彼にも転機が訪れる。
「な、なんだ? 何が起こって……ぐわぁ、なんて強い風だ! これはいったいどうしたことなのだ!?」
亀裂が入り、穴の開いた壁が次第に崩れていき、ヒビが伝線してその穴は大穴になったのだ。無論、奴が周囲にため込んだ空気は膨張し、奴の力が届かないくらいの大きな風が外へと吹き出していき、真空状態になっていたナイトの周りは一瞬、さっきまでの空気ある世界に戻ったのだ。
『……ぅぐ、ゲホッゲホッ!! ……ぁはぁー、はぁー。危ねぇ……、危うく逝くとこだったぜ……』
風船のように膨れた体はいつの間にか元に戻っていた。
だが、それは一瞬の出来事に他ならない。
「くッ、だがもう一度同じことをすればよい話だ」
フォートは囂々と吹き荒れる空気の中、再びナイトの周りの空気を引っ張った。だが、そんな奴の動きを見たナイトはとっさにやつが引っ張る空気に掴んだ。物体干渉の力で。
「な、なにをする!?」
『おぉーと、とっさに掴んじまったがやっぱ空気も掴めるのな。……んまぁーともかく、さっきみたいにはなんねーから覚悟しとけや』
お互いに空気のつかみ合いが始まった。これはいわゆる空気という縄を使った綱引きも同然、ナイトもフォートもお互い負けるそぶりを一切見せず、がちの命がけ綱引きがそこで開かれているのだった。
だが、空気を専門に扱っているフォートと、体力、生命力ともにギリギリのナイトとでは少々分が悪く、勝ち目がないことはナイト自身が一番よく分かっていた。だからこそとっさに掴んだこの空気を、どう生かせばよいのか……と、焦りを隠せないナイトなのである。
「おぉーとぉ? これはこれはぁ? 私よりも力のあるはずの貴様が私に負けてしまうのですかぁ? 滑稽ですねぇ。実に滑稽だぁ」
『……っち、やっぱ力じゃ負けっか』
(力じゃ負ける……。なら理論で勝つしかない。こいつの知らないオレの世界の理論で)
単純な話だ。力、経験で劣る相手には知略で差を埋めるしかない。それは昔から人類が行ってきた一種の駆け引きでもあるのだから。
そんなことを考えるときは大体勝つ方法がわかっているときくらいなのだが。
「勝ち目のない戦いなのに……。そろそろ諦めてはいかがですかねぇ?」
『さぁーて、どうかな? やってみなくちゃわかんねーぞ?』
ナイトはにやけながら相手を煽る。それに動じてフォートも力を強めていった。
「フフフ、まぁよいでしょう。あなたの死のビジョンが私には映っていますから」
空気の波が彼らを襲う。はたから見たら異様な光景だ。二人の男が腕を前後にふるいながらにらみ合っているのだから。だが、彼らの立っているちょうど真ん中には竜巻が発生するほど壮大な力の引き合いでもあったのだから無理もない。
そんな戦いの中で、ナイトには秘策が思い浮かんでいた。二人の男は同時に腕を広げた。そして、グイッと何かを引っ張るような動作を何度も何度も繰り返す。
(酸素だ。酸素を想像しろ、オレ。酸素だ。酸素酸素酸素酸素ぉぉぉおおお!)
心の中で酸素酸素と念じ続けているその姿は他人からは心の中を読まれない限りわからない。フォートにももちろんわからないわけで。
ナイトが大きく息を吸い込み、もう一度強く引っ張る。
(酸素よ、のこれぇぇぇえええ!!!)
途端に引き合っていた力が弾け、互いが吹っ飛んだ。辺りの空気はお互いのちょうど真ん中を境に空間がパッカリと二つに分かれている。
「やはり私の勝ちのようですねぇ」
(……ところがどっこい)
フォートがにやけるも、ナイトは鼻と口を押えながらゆっくりと時を待っていた。
そして、
「……グ、く、苦しぃ……。貴様ぁ……何をしたんだ……」
『…………』
(酸素だけをあえて残したが、やはりそうか)
息を殺しながらナイトは理論を再びおさらいする。
奴は人間が呼吸をするうえで空気そのものが必要だと考えている。だが、実際は空気の中にいくつもの気体が存在し、それらが混ざってやっと空気が成り立っている。また、フォートは風を発生させることで空気を動かし、それによって対象が膨張することを知っている。だが、それが空気圧によるものであることは知らない。
結論的に、奴は物理常識を一切知らない、ということだ。
そしてその推論は、ナイトの戦術に大きな役割を果たした。
空気の中にいくつもの気体が存在し、その中でも酸素は生き物にとって貴重な財産だ。だが、それは他の混合物とともに摂取した時だけであり、単体で取り込んでしまったら最後、酸素中毒に陥って死に至る。
そして、その知識を戦略に組み込むとこうなる。空気そのものを引っ張るフォートは、気体の存在を知らない。だが、ナイトが酸素以外の気体を引っ張ったらどうなるだろうか。そう、フォートは酸素だけを引っ張ることになり残りの気体をナイトが引っ張ることになる。質量比的にも単純に、空気全体を引っ張ったときよりも、酸素以外の空気を引っ張ったときの方が力が入るのは当たり前である。
これらの理由から、ナイトは自身の力の弱さを、知識という武器で大きくカバーをして奴に逆転の一撃をぶつけることに成功したのだ。
「……息が……なぜ……だ……」
ナイトが手を広げた。と、途端に空気の流れが自然になり、辺りの気体比は元に戻った。
『……そろそろいいか? ふぁーあ、いい加減酸欠だぜ、まじで。あ、でも気体も自在に操れるようになったから体内酸素をうまく操作……って、無知で変なことしても死ぬだけだな、やめとこ』
一人で駄弁るほどの余裕もでき、正直油断しているのは、ナイトにとって勝機が見えたからなのかもしれない。だが、フォートもそんなに甘くはなかったようで、苦しそうにもがいていた姿はいつの間にかなくなっていた。
「……なーんて、ね。どうやら何らかの方法で私をおとしいれようとしたのかもしれませんが……私には通用しないのですよ、空気に関する知略……とくに『酸素』に関する戦略は通用しないのですよ。残念ながら」
フォートがペラペラと御託を並べだしたかと思ったら、その言葉の中に、異世界の者では知るはずのない『酸素』というワードを平気に口にしたため、ナイトは口を押えながら唖然としていた。
『なんでてめぇが酸素なんて言葉知ってんだよ!? そらこっちの世界にゃねえもんだろがよ、おい!』
驚いた拍子にダイレクトに質問する。怒り口調で。身を乗り出して。だがそれこそが奴の仕掛けた罠だったのだ。
「とうとうしっぽを出しましたか」
『はぁ?』
「まさかとは思いましたが……やはり貴様はこちらの世界の人間ではありませんね?」
『――――ッ!』
バレた。いやバレないと思っていた。だってこの世界の人間で自分の世界を知っている人間はいないと思っていたから。見誤っていた――。
『……なんでてめぇにそれがわかる?』
冷静さを保ちながら聞き返す。しかし、その表情にはさっきまでの余裕さはなかった。
「なぜって……だって酸素を知っていた……」
『そうじゃねぇよ』
やつはナイトが異世界人だと見破った理由を話そうとした。だがそれではない。
『なんでてめぇがもう一つの世界の存在を知っているかってことだよ』
焦りと怒りの表情を隠すことはできなかった。そんな表情を見たフォートもまた、いつも通りの不気味なにやけ顔で返す。
「なぜかってぇ? フフフ……、私が話すとでもぉ?」
ヒュンッ――
やつがそう言った瞬間、ナイトが飛びかかっていた。一瞬の出来事に、フォートも何が起きたのかわからなかったのか、目が虚ろだ。
『いいから話せやゴラァ!! ぁあ?』
「は、話すわけが……グ……」
胸倉をつかみながら、半狂乱になりながら、怒りをあらわにしながら――。ナイトの慌てる姿の理由は、フォートが怒りを燃やす対象であるからか。……違う。フォートを仕留め損ねたからか。……違う。その理由は、やつが自分と同じあっちの世界の人間かもしれないからだ。やつが二つの世界の成り立ちを、帰り方を、希望を手にする方法を知っているかもしれないからだ。……だが、やつがそう簡単に教えてくれるはずもない。
『いいから話しやが……』
「……ユキさん……でしたか?」
『――――ッ!!』
バシュ!!
「……んぐぅ……!」
やつのバカにするような顔が目の前に現れ、口を開いた。その言葉はなんだ? 懐かしい名だ。聞きなれた名だ。だが、悲しい名だ。その名を口にした。だれが? 決まっているだろ。フォートだ。いや、麓山だ――。
気づいたら、拳が突き出ていた。何度も何度もやつの顔面をこれでもかと言うくらいに殴っていた。その行動に意味はない。『意味』は――。
『てめぇがその名を語るな……』
その声は、いつものナイトからは考えられないほど低く、濁っていた。しかし、もっとも太く威厳のある声のようにも思えた。
フォートの顔面をことごとく殴り続ける。だが、やつの表情は落ち着くどころか更にニヤケさを増していった。そんな表情に、怒りをさらに燃やしたナイトはさらに奴の顔を殴った。
やつが残された片腕を天井に向け、何かを唱えていることにも気づかないまま――。
やつの手から何かが放たれた。それはそのまま天井にぶつかり大きな打撃音が響き、天井が彼らのもとに、滝のように落ちていく。
「……フフハハハハ!! これで貴様も道ずれだ!! ざまぁないですねぇ!?」
『……し、しまっ……!』
バリアを張る暇はない。いや、体中傷だらけでもうそんな力は残っていない。……もうこの状況を逆転する打開策はない。オレはやつにまんまとはめられたってわけだ。用心すべきだった。感情に駆られ、見失っていた。オレが愚かだった。今も、あの時も。
だが、今回はオレだけが犠牲になる。やつとともにオレだけが散る。あいつは死なない。……ならいいか。
『これは一つのハッピーエンドかもしれんな』
後悔も少し。だが、彼は安堵の笑みを浮かべていた。死を受け入れた瞬間だったのかもしれない。
その時だ。
オレをなにかが突き飛ばした――。
次回で一章の最終話になると思います(たぶん)
ストックがほぼほぼゼロなので何とか書き上げて頑張れますね汗