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社会人心得物語  作者: 八嶋 敬市
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人生心構えの構築方

水が砂に染み込むように読みやすく書いた積りであり、こういう本があったら読んでみたいと思って創り上げたものである。ドイツの宰相ビスマルクの言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とあるように、この本を読んだ人が少しでも賢者に近づけるように、中国の歴史に基づいて歴史から学べるようにしてある。

この本は、社会に出る前の若者だけでなく既に社会に出た人にも読んでもらいたいと思って書いたものであり、この本を読むことによって、社会に出た時に失敗することが無いようにと願って書いたものである。また、社会に出て数年経った人にも、この本を読んで人生に失敗することが無いようにと願って書いたものである。更に、いろいろな種類の人に読んでもらうために、上司の立場からも部下の立場からも経営者の立場からも書いたものであり、互いの立場を理解するための参考になるものと考えられる。

この本のどれかの章が、これを読んだ人にとって、生きる際の参考になることがあれば幸いである。将来の希望に満ちた若者が、希望通りの人生を歩めるように、この本から事前に危機を避ける章を見出すことが出来れば幸いである。


第201章【真実と信念/ガリレオ・ガリレイ】(A)

人は誰でも自分が正しいと信じたものを、理由を示して他人に証明しなければならない時がある。理科系の人は、仮説を立てた場合にその仮説が正しいものであることを、理由づけをして実証しなければならない。ところが、自分が立てた仮説が正しいと信じ込んで、自分の考えに無理やりに間違った理屈をこじつけようとする人がいる。仮説を実証しようとする過程で、何が真実かを考えていないからこのようになるのである。真実が何であるかを考えようとしないから、間違ったことを証明しようと人生の時間を無駄に過ごすことになる。

天体の動きに関して、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイが地動説を提唱するまでは、紀元前から天動説が正しいと信じられてきた。地球上に居る人は、地球は止まったままで、空に浮かぶ太陽や月や星が、地球の周りを回っているように見えるために、「地球が宇宙の中心に位置し、太陽や月や星等の全ての天体は地球を中心に回っている」という天動説が紀元前から信じられてきた。

古代ギリシャの天文学者のアリスタルコス(紀元前3世紀)は、「太陽が宇宙の中心であり、太陽の周りを地球が自転しながら1年かけて公転する」という地動説を提唱していた。アリスタルコスは、地動説を昔唱えたので、近世になって「古代のコペルニクス」と呼ばれるようになった。しかし、アリスタルコスの説は、地球が高速で自転しながら(24時間で1回転する)、高速で太陽の周りを公転する(1年で太陽の周りを1周する)なら、何故空を飛んでいる鳥が置き去りにされないのか、何故空中に投げ上げた物が地球の自転や公転に取り残されずにそのまま落ちてくるのか、という当時の疑問に答えることができなかった。このため、アリスタルコスの地動説は、人々に支持されずに徐々に忘れ去られていった。

紀元2世紀に、天動説(地球を中心にして、地球の周りを惑星や太陽が公転する説)を提唱する「アルマゲスト」という本がプトレマイオスによって著わされた。「アルマゲスト」には、天動説が正しい理論であるという仮説を、当時知られている知識を駆使して合理的に証明するものであった。現実に地球から見た各惑星の動きは複雑であるのに対し、それを正しいものとして、細かく証明するものであった。

例えば火星は2年2ヶ月に一度逆行(火星が天空を毎日左側へ移動し、途中で向きをかえて右へ移行し、再び向きを変えて左へ移行)する現象が生じる。「アルマゲスト」の天動説では、地球を中心として地球に近い位置から直径が異なる殻(半球)が多数存在し、殻と殻との間に小さい直径の円(周転円)が存在し、地球に近い位置の周転円上から遠い位置の周転円上に順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、……等の惑星が位置し、それぞれの惑星が各周転円上を移動する。但し、各殻の中心点は同一ではなく、各殻は同心円ではなかった。各惑星が周転円上を移動することで、周転円上にある惑星の動きが、逆行等の現実の惑星の移動軌跡と合致するというものであった。「アルマゲスト」に記載された天動説では、現実の惑星の動きに、当時の知識を組み合わせて当てはめ、天動説が正しいということを証明するものであった。現実の惑星の軌跡が、「アルマゲスト」に記載された論拠とほぼ合致することから、プトレマイオスの「アルマゲスト」に記載された地動説は、16世紀に至るまで1000年以上もの間、正しいものと人々に信じられてきた。

天文学の教科書である「アルマゲスト」が正しいものと信じて、コペルニクスが天文学を勉強し始めたが、長年の天体観測の結果、「アルマゲスト」の天動説の論理やデータにいろいろ矛盾点があることが分かってきた。天動説では、それぞれの惑星の公転の中心点が一致しないので、地球を同一の回転中心点とするために、殻の中心点をそれぞれずらしていた。コペルニクスは宇宙がそんなに複雑なわけではないはずだと考えていた。コペルニクスは、回転の中心位置に太陽を配置してみると、各惑星が太陽を中心とする同心円となる単純な公転運動となることを突き止めた。コペルニクスは、また、地動説における惑星の公転半径の測定方法や計算方法も解明した。コペルニクスは、天体の回転中心を地球から太陽へと発想を転換したことで、天動説から地動説へと導くことができた。ドイツの哲学者カントは、このような物事の見方が180度変わってしまうことの比喩として「コペルニクス的転回」という言葉を使い、その後、ものの見方や考え方が劇的に変わることに、「コペルニクス的転回」という言葉が使われるようになった。

コペルニクスは、自分の考え(地動説)をまとめて本にして出版したいと考えた。しかし、聖書には天動説に通じる記述があり、地動説は聖書の記載内容と異なるものであった。コペルニクスは、聖職者である自分がキリスト教の教義に反する本を出版して良いのかどうか、聖職者としての立場と天文学者として得た真実に基づく信念との間で悩んでいた。真実を記載した本を出版するとキリスト教の異端者にされかねない恐れがあった。コペルニクスは、死の間際になって「天球の回転」という本を出版することになったが、友人の勧めで序文の中に「仮説」という文字を入れることになり、「仮説」という文字を入れることで、キリスト教会から異端者にされることがなかった。コペルニクスの地動説は、多くの天文学者の間に広まった。現在、コペルニクスの生まれ故郷のポーランドにあるコペルニクスの銅像の台座には「地球を動かし、太陽を止めた人物」と刻まれている。天体を例に出して評されている人は、コペルニクスの他に、エドウィン・ハッブルが居る。エドウィン・ハッブは、宇宙には天の川銀河の他に銀河が1000億個存在することと、宇宙が膨張していることを明らかにした。このことから、エドウィン・ハッブルは「宇宙の大きさを1000億倍に広めた人物」と評されている。

ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの「天球の回転」に大いなる影響を受けた。ガリレオは、自分で作った望遠鏡で、木星が4個の衛星を有し、その4個の衛星が木星を中心に回転していることを発見した。このことから、地球を中心に全ての星が回転しているという天動説が誤りであることを突き止めた。更に、ガリレオは、数ヶ月にわたる金星の観測によって、金星の大きさが徐々に変化すると共に徐々に満ち欠けをしていることを発見し、金星が太陽の向こう側を回るように回転している(太陽を中心とする公転をしている)ことを発見して、地動説が正しいことを突き止めた。また、ガリレオは慣性の法則を発見し、何故空を飛んでいる鳥は地球の自転や公転に取り残されないのか、何故まっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転や公転に取り残されずに地球の元の位置に落ちて来るのかという疑問を、慣性の法則に基づいて解明した。これらに基づいて、ガリレオは地動説が正しいと確信した。

ガリレオは、天体の観測結果に基づく地動説をまとめた「星界の報告」を発表した。「星界の報告」の地動説は、「天体は地球を中心に回転している」とするキリスト教の教えに反するものであり、ガリレオはローマ教皇庁から宗教裁判で異端者として訴えられた。キリスト教の信仰に厚いガリレオは、教会の主張に応じて自説の発表の禁止を受け入れた。その後、ガリレオは、聖書に書いてある天動説は、古代ヘブライ人だけの見解であり、キリスト教の教えではないと自分の都合の良いように解釈し、天動説と地動説のそれぞれに立脚した学者の対話を記載した「天文対話」を発表した。それは、天動説が誤りで地動説が正しいことを分かり易く示したものであった。この本に対してローマ教皇庁は、前回の裁判の判決を守っていないとして、再度宗教裁判を起こし、「天文対話」の出版を禁止し、ガリレオを異端者として弾劾した。真実を主張しても受け入れられるはずもなく、不当な判決を受ける恐れがある。このままでは、老齢であるガリレオは有罪となって牢獄に入れられて、死ぬまで牢獄で過ごさなければならない。それを避けるために、信念を曲げてまで地動説は誤りあるとガリレオは裁判で認めた。ガリレオは自分の身を守るために、裁判において表面的には自分の信念を曲げた風を装った。その裁判の際に、ガリレオは「それでも地球は回っている」と言ったと伝えられており、地動説が正しいという信念を心の中で曲げることはなかった。

人間は原則としては、自分の信念を曲げてまで、無理解な相手に媚びて迎合してはならない。しかし、自分の身を守るために、真実や信念を曲げても相手に迎合しなければならない場合もある。真実を主張することで、不当な扱いを受ける場合には、時には信念を曲げても良い場合もあり、真実に固執して身を滅ぼすようなことをしてはならない。真実のみが正しい判断とは限らない。ガリレオは70歳を過ぎており、自説を主張すれば、終身刑になっていた。真実や信念を曲げても、自分の身を守らなければならない場合がある。この反対に、自分の身はどうなっても真実や信念を曲げてはいけない場合がある。世の中に正しいことを断固として主張しなければならない場合がある。誰でもガリレオと同じような状況になる場面に出会う時がある。自分がその状況になった時に、どのような判断をすべきか、常に考えておかなければならない。

その後、天文学者達の観測によって、コペルニクスやガリレオの提唱した地動説が正しいものであると徐々に認められるようになった。20世紀後半になって、ローマ教皇庁はガリレオ・ガリレイの宗教裁判の判決は誤りであったことを初めて認め、約350年ぶりにガリレオ・ガリレイの正当性が認められた。真実は長い時を経て認められることもある。

第202章(X)


第203章【恥を忍んで生きる執念/勾践・臥薪嘗胆】(S)

中国の春秋時代に揚子江下流の呉の国とその南側に位置する越の国との間で壮絶な呉越戦争が繰り広げられて、幾つかの有名な言葉「呉越同舟」、「臥薪嘗胆がしんしょうたん」、「狡兎こうと死して、走狗そうくらる」等が後世に残された。呉王は、父が闔廬こうりょで、その子が夫差ふさであり、越王は父が允常いんじょうで、その子が勾践こうせんである。人間的には好きになれないが、恥を忍んで執念で生き延びるという点からすれば、越の勾践こうせんからは学ぶべき点が大いにある。

当時の呉は、中国の中原(黄河中流域)の国々からすると文明が一段劣る蛮夷の国とみなされており、呉の属国であった越は更に文明が劣る国であるとみなされていた。呉王闔廬が揚子江中流の楚に侵攻し、参謀の伍子胥ごししょや軍師孫武(著書「孫子」は孫武によって書かれたものと、その何代かの子孫の孫臏そんびんによって書かれたものとの2種類がある)の働きによって、楚都のえいを占領した。闔廬が楚の都郢を占領している間に、越の允常が呉に侵略して帰っていった。その後、越では、允常が死んで勾践が即位した。この機会を捉えて、越の自国への侵略の復讐に燃えた闔廬が越に侵入した。その戦いの途中で闔廬は親指を負傷し、その傷が化膿して瀕死の状態となった。亡くなる寸前に闔廬は息子の夫差を近くに呼んで、「越がそなたの父を殺したことを忘れるな。必ずかたきを取ってくれ」と言い残して息を引き取った。

その後、夫差は家来が自分の部屋に入る度に、「越が汝の父を殺したことを忘れるな」と言わせた。呉王夫差は、楚との争いで疲れた兵を充分に休息させると共に軍事力を蓄えた。寝る時は薪の上に寝て、復讐の気持ちを忘れなかった。今度は、越王勾践は呉が軍事力強化を図っていると知って、呉に先制攻撃をかけようとした。越の軍師である范蠡はんれいは「そもそも戦は自然の理に背く行為であり、兵は凶器と言われております。それゆえに好んで凶器を用い、戦に身を投ずるものは、天意に逆らったかどにより、必ずその報いを受けます」と言って制止したが、その制止を振り切って越王勾践は機会を見て呉軍に打って出た。その結果、越王勾践は破れて、会稽山かいけいさんに立て籠もり、周囲を呉軍に囲まれた。勾践は「我もこれまでか」と弱音を吐き自決しようとした。この時、越の宰相の文種ぶんしょうは「かの殷の湯王とうおう、周の文王ぶんおうでさえ一時はとらわれの身となり、晋の文公、斉の桓公もまた、苦しい亡命の一時期を過ごしたものです。にもかかわらず、ついには王者となり覇者となったではありませんか。してみれば、王の今の苦しみは大成のための試練とお考えになるべきです」と説得した。軍師の范蠡は勾践に、「生きながらえて、雪辱を果たすべきである。生きるためには、御自身は呉王の下僕となり、お妃様は呉王の下婢となり、所有する財宝を全て呉王に献上すれば、助かる道もあるかも知れない」と強く説得した。勾践は范蠡の説得に従い、呉王夫差に命乞いの使者を送った。范蠡は、越の申し出を呉の参謀伍子胥は反対するが、伍子胥と対立関係にある大宰の伯嚭はくひは貪欲であるから、伯嚭を買収すれば助かる可能性があるかも知れないと考えて、伯嚭に財宝と美女を贈って呉王夫差へのとりなしを依頼した。伍子胥は、「天が呉に越を与えたのにそれを取らないとは何事か」と怒って、夫差に越の滅亡を主張した。しかし、賄賂を贈られた伯嚭から夫差へのとりなしが効を奏して、勾践は命を助けられた。越王勾践は、自らが王であったにもかかわらず、自分の命が助かるために、呉王夫差の下僕となって呉の都に行った。下僕といっても奴隷と同じ扱いであり、周囲から「あれが越の勾践か」と蔑まれた視線を浴び続けなければならない。また、自分の妻は、呉王夫差の下婢となって呉王に仕えなければならない。この時の勾践の気持ちはいかなるものであっただろうか。自分の部下からも、憐れみの眼差しで見られており、悔しさでいっぱいだったのではないだろうか。自決をした方が余程楽であっただろうに、歯を喰いしばって耐えた精神は並々ならぬ強靭さがあったと思われる。生き抜く決心をしたとしても、その辛さは尋常ではなかったはずである。勾践は、呉に連れて行かれて、他人からのさげすみみの眼差しを浴び続け、2年後にやっと越に帰ることができた。勾践は一旦生きようと決心したからには、どのような苦しい状況でも耐えようと思ったのであろうが、その2年間は死ぬよりも辛かったに違いない。越に帰った勾践は部屋に苦い肝をぶら下げ、部屋に入るたびに胆の苦さを味わって呉で味わった苦痛を忘れないようにした。臥薪嘗胆がしんしょうたんは、夫差と勾践の苦難を耐えるために自分を鼓舞した行為として有名である。

人によっては人生において、勾践のような苦しみに襲われることがあるかもしれない。そのような状況に置かれても、生きる目的や希望があれば、生き延びることができるものである。死に相当する苦しみに自分が襲われても、生きる目的や希望は、自らが苦しみの中から見つけ出さなければならないものである。大いなる苦しみに見舞われた人でも、勾践に比べれば苦しみはまだ少ないはずであり、勾践の生きる執念を見習って石にかじりついてでもしぶとく生き延びなければならない。健康で命のある限り復活は可能であり、生きていれば復活の日を迎える可能性があるはずである。

勾践こうせんは下僕になった2年後に許されて越の国に帰り、自分の妻と共に国民と同じ質素な生活を続けて国力を増強した。呉王夫差が覇者の仲間入りをしようとして中原で諸侯を集めて会盟をしようとしていた時に、伍子胥は中原に兵を進めるよりも越を討つべきであると夫差に何度も忠告した。伍子胥が息子を斉に移住させたのは、伍子胥が自分を裏切って斉へ亡命すると夫差は判断して、伍子胥に属鏤しょくるの剣を与えて自刃を迫った。伍子胥は「汝の父親を覇者にし、汝を呉王にするのに尽力したわしを殺そうとするのか。わしが死んだら、わしの眼をくり抜いて、呉都の東門の上に置いておけ。その眼で呉が越に滅ぼされるのを見るためである。また、必ずわしの墓に梓を植えよ。それで夫差の棺桶を作るためである」と言って、剣に覆いかぶさって亡くなった。伍子胥は、闔廬が呉の先王を殺すのを助け、闔廬を呉王にし、楚を破って闔廬を覇者にし、夫差を闔廬の皇太子とすることに多大な貢献をしたのである。

夫差が中原に進出して諸侯を集めて覇王気取りで会盟をしている間に、力を蓄えた勾践が呉都に侵入した。夫差が自国に戻ってきて勾践を呉都から追い出したが、呉の兵力は他国との長年の戦争で疲弊していた。その後、越が呉を何度か攻撃して呉を徐々に弱体化させ、ついに夫差は勾践によって姑蘇山こそさんに追い詰められた。今度は、呉王夫差の使者が、21年前に会稽山かいけいさんで夫差が勾践を助けたことに免じて、夫差の助命を嘆願した。勾践は夫差を憐れんで夫差の命を助けようとしたが、范蠡が「かつて、呉が越を滅ぼそうとした時に、呉は越を滅ぼさなかったので、今日のようになったのです。今や、天が越に呉を賜わろうとしているのに、これを受け取らないとなると、天からのとがを受ける」と言って、呉を滅ぼすように主張した。しかし、越王勾践こうせんは呉王夫差の使者に「甬島ようとうに百戸を与えて余生を送らせる」と伝えた。これを伝え聞いた夫差は「自分は年老いて、もはや越王に仕えることはできない。あの世で、伍子胥に合わせる面目が無い」と言って、自分の顔を布で覆って部下に首を刎ねさせた。呉王夫差の死で、呉越戦争が終った。

越王勾践は恥を忍んで死なずに生き抜いて、2年の呉での苦しい生活を耐え抜き、21年を掛けて目的を果たした。その不屈の精神力は困難に直面した時に、我々も見習わなければならない。

しかし、勾践の性格には問題がある。勾践の外観は長頸鳥喙ちょうけいうかいであったという。長頸は長い首であり、鳥喙は黒ずんだ唇という意味である。長頸鳥喙の人は、「苦労を共にできるが、楽しみを共有することはできない」人相であると范蠡は判断して、勾践の下から離れることを決心した。范蠡は財産を宝石などの運びやすい軽いものに換えて、斉に移住した。范蠡は斉から友人の文種に、『「飛鳥尽きて良弓蔵われ、狡兎死して走狗亨らる」と言われています。勾践は困難を共にできるが、楽しみを共に出来る人ではない』との手紙を送って、勾践の越から離れるよう忠告した。これに対して、文種は病と称して出仕しなかった。勾践は文種に「君は私に呉を滅ぼす七つの術を教えてくれた。私はそのうちの三つを用いて呉を破った。残りの四つは父上の所で使って貰いたい」と言った。父である允常は亡くなっているから、父のもとで術を使えとは、死ねということであった。文種は判断と行動が遅かったのである。

私がある会社と仕事で関係ができた時に、その社長はとても危険な人物だと直感し、その会社との仕事に関しては、常に注意を払っていた。何が危険かというと、先方の指示で行った仕事であっても、悪い結果になると、責任をこちらに転嫁しかねないと感じていた。その後、勾践が長頸鳥喙であることを本で読んだ時に、その会社の社長が長頸鳥喙であることが目に浮かんだ。その後、長頸鳥喙の社長を見るたびに、勾践と同じ性格だとみなして、親しく付き合わないようにした。その会社は、ある年から新規に新卒の大卒社員を採用し始めた。仕事での社員の失敗には、全て社員個人に経済的に負担させたので、数ヶ月以内に新卒の大卒社員全員が会社を辞めたと聞いて、さもありなんと思った。問題のあるトップの下に居ると感じた時には、早急にそのようなトップのいる会社から離れるべきである。



第204章(X)


第205章(X)


第206章【失敗には、失敗しても良いものと失敗してはならないものとがある】(B)

 歴史は、先人の失敗の例を多数示している。「前事ぜんじ忘れざるは、後事こうじの師なり」と戦国策にあるように、歴史を学ぶことは失敗を学ぶことであり、過去の失敗の教訓を生かして同じ失敗を繰り返さないようにすることである。人間であるからには、誰でも失敗をするが、問題は失敗した後、その失敗をどう生かすかであり、その人のその後の人生を左右するものである。失敗という言葉には、その言葉を使う状況によって意味が違うものである。

失敗という言葉の第一は、基礎研究や開発研究や実験において、「成功するまでに何十回や何百回の失敗を経なければならない」と言われている場合である。失敗という言葉の第二は、「若いうちは失敗を恐れるな」と言われている場合であり、失敗をしても取り返しのつく場合である。失敗という言葉の第三は、人生で取り返しのつかない失敗である。その取り返しのつかない失敗によって、自分が真っ青になったり、他人に迷惑をかけたりする場合である。第一と第二と第三とでは失敗の意味が大いに違うので、失敗という言葉を同一に考えてはいけない。失敗には、失敗をしても良い取り返しのつくものと、失敗をしてはいけない取り返しのつかないものとがあり、自分の失敗がどちらに属するかを見極めておかなければならない。

第一の失敗に関して、各種の研究や実験は、失敗を積み重ねることで、成功への道を絞り込んでゆくものである。従って、各種の研究や実験の失敗は、成功への一里塚のようなものであり、第二や第三の失敗とは意味が違うのである。研究者の人達が使っている失敗と言う言葉は、何か別の言葉があってしかるべきであり、たとえば研究や実験の「成功に至るまでの過程」や「トライ」等とすべきであるように思う。「成功に至るまでの過程」や「トライ」を失敗や挫折と言われたら、本当に失敗したり挫折をしたりした人達はどのような言葉を使えばいいのだろうか。 何か目標を立てて、目標を達成しようとした場合、成功に至るまでに何度もトライするものである。そのトライは、第一の失敗に該当する。簡単に目標が達成できるものなら、その目標は大したものではない。よって、大抵の目標は、何度も何度もトライして初めて達成できるものである。目標を立てた場合に、一度や二度のトライにめげて、目標を放り投げるようでは、何事も達成することはできない。大抵の目標は、トライの繰り返しであるが、そのトライは「成功に至るまでの過程」であるので、成功をつかむまで努力を継続しなければならない。

第二の失敗の「若いうちは失敗を恐れるな」という言葉を使う人は、「若いうちなら失敗をしても人生にやり直しがきくから、冒険をしてみろ」と若者に冒険を勧めるものである。「若いうちなら失敗を恐れるな」という言葉に騙されてはいけない。この言葉の意味は、「失敗をしても若いうちならやり直しがきく」というだけである。ここでいう失敗とは、失敗によって、人生に立ち直ることができることを前提とするものであり、自分が立ち直ることができない程度のものは、ここでの失敗とは言っていない。失敗をしたとしても、自分の人生に取り返しがつく若い時の失敗の場合には、チャレンジをしても良いかも知れない。その場合には、失敗した時の対策を考えておくことも必要である。自分の人生に取り返しがつく失敗の場合には、多くの失敗の経験を積んで将来の成功につながるとの考えがある。アメリカでは、ベンチャービジネスのアントレプレナー(起業家)が失敗した場合には、その失敗の経験を糧にして、次の事業の成功率が高まると言われており、失敗してもエンジェル(投資家)が投資してくれる確率が高くなる。無責任な人の言うことをそのまま信用してはならない。第二の失敗の場合であっても、失敗をしないように細心の注意を払わなければならない。失敗はできるだけしない方が良い。取り返しがつく場合には、失敗をおそれてはならない。しかし、失敗した場合には、後処理をしっかりして、信用を失わないようにしなければならない。また、失敗の原因を分析して、その後の立ち直りの糧にしなければならない。

第三の失敗は、日常の生活で誰にでも発生するものであり、第一の失敗や第二の失敗とは、失敗の意味が異なる。冷や汗や脂汗が出るような取り返しのつかない失敗のことである。この失敗によって自分の人生が左右され、他人に迷惑をかけることになるので、このような失敗をしてはならない。例えば仕事で失敗するのは、チェックが甘いこと(チェックにかかる時間を短時間で簡単に済ませる)、チェック項目が少ないこと(必要なチェック項目が入っていない)、チェックを一人だけでやっていること(複数人でチェックしていないこと)等が考えられる。取り返しのつかない失敗につながる恐れがある場合には、チェックに時間をかけ、チェック項目が正しいかを見極め、少なくとも二度若干の時間を空けてチェックをする必要がある。チェックは、可能ならば、複数の人で行うようにする。これによって、失敗の大半は防ぐことができる。仕事だけでなく、プライベートでも同じことである。こちらが仕事を依頼する場合は、相手が適切な人間であるかどうかもチェックする必要がある。仕事では、いくら知人であっても、能力のない人や能力のない会社に依頼してはならない。自分の判断のまずさが、大失敗につながる。第三の失敗をしないためには、正しいチュックリストを作るべきであり、そのチュックリストは他人任せにせず自分で作るべきである。また、第三の失敗をしないための心構えとしては、「~~したはず」とか「~~だと思った」という言葉を禁句にすべきである。


26章


第207章(X)



第208章【季布の一諾】(A)

世の中には、他人に対し図々しい要求を平気でしてくる厚かましい人が多数居る。そんなに親しくもないのに、冠婚葬祭の出席を要求してきたり、借金を申し込んできたりしてくる。更に、お金を借りる際や事業を立ち上げる際の保証人になってくれと、平気で言ってくる人が居る。

他人から頼みごとをされた場合に、心の片隅にでもいやな思いを感じたら、直ちに断るべきである。「何故君に対して、そのようなことをしなければならないのか」、「君にそのような頼まれごとをされるいわれはない」と、一言言ってきっぱりと断るべきである。

図々しい要求をしてくる人は、相手を、気が弱くて、なかなか断れない人だと見抜いて要求してくるのだから、達が悪い。自分の意に添わない冠婚葬祭は、自分の時間とお金とを 無駄に費やすだけだから、相手から恨まれない理由をつけて断るようにしよう。万一、安請け合いをして、一度出席すると返事をしたとしても、その後、自分が出席したくないと悩むことがあったら、勇気を振り絞って、できるだけ早急に断るべきである。図々しい依頼は断固跳ねのけるべきである。面と向かって図々しい人に図々しいと言えればよいが、なかなか言えないことから、図々しい要求があった時に、必ず断ることができるように、予め断りの言葉を事前に用意しておく必要がある。例えば、『お金を貸したり、保証人になったりすることは、先祖からの遺言でできない』と言って、そのようなお金の借金や保証人の要求には断固として断ることである。事業の保証人になって自分の人生を台無しにした話や夜逃げをした話を今まで数多く見聞きしたが、他人の事業の保証人になった人は、保証人になってくれと頼んでくる人とは、それ程親しくない関係の人が多かった。親しい人でなくかつ図々しい人の保証人になって、人生を棒に振ることになってはつまらない。図々しい人は、こちらの人の良さを利用しているだけであり、そのような人に利用されてはならない。お金を貸す場合には、貸したお金が返ってこないものと考え、返ってこなくても自分が困らないだけの金額を貸すべきであるか、今はこれしかないので返してもらわなくて良いからと言って小額を与えるべきである。

詐欺師は、その場でその時に、相手に同意させたり、契約させたりしようとする。「今この場で、契約しないと、もう二度とこのような良いものが手に入らない」と、契約や同意を急がせるが、そのようなものは、その時だけでなく、毎日そんじょそこらにゴロゴロ転がっているものである。その時に、契約や同意を求めるものは、100%詐欺だと思った方が良い。頼みごとや契約事項は、少なくとも1日から1週間は考える時間を持とう。短期間でチャンスが逃げるものなら、重要なものとはいえない。

 「巧く人を騙すよりも、誠実を貫く方が良い。人を巧く言いくるめて、自分が他人より優位な立場になったとしても、人に認められない誠実さには及ばない(巧詐は拙誠に如かず)」と韓非子にある。同じような内容に「騙すよりも騙される方が良い」という言葉がある。社会には、他人を騙しても自分の利益になれば、他人がどのようになろうと構わないと思う人が多い。誠実は大切であるが、誠実を貫いて騙されてはつまらない。残念なことに、人間は良い人ばかりではなく、悪い人の方が多い。我々は、自分の利益だけを考える人の犠牲になってはならない。その様な人に騙されないために、人を見分ける能力を身に付けておかねばならない。世の中には、詐欺師や悪人が多数存在する。詐欺師や悪人は、誠実な人を騙しやすいと考えて、誠実な人に罠を仕掛けてくるおそれがある。詐欺師のテクニックに自分が騙されないように、駆け引きに負けないように、自分はそれ以上に気を付けなければならない。詐欺師に騙されるのは、欲にとらわれるからであり、欲にとらわれないことが詐欺師にあわないことである。また、詐欺師は同情を引く演技が上手であり、そのような演技に惑わされないようにしよう。

中国の前漢の成立時に、前漢の初代皇帝劉邦の敵であった項羽に味方したとして季布(第180章参照)が全国に指名手配された。季布は若い頃から他人からの依頼に対して一旦承諾したら、どんなことがあっても必ずやり遂げる(これは「季布の一諾」と言われた)ことで有名であった。季布の一諾を得ることは、黄金百斤を得るよりも難しいと言われた。

季布には、ありとあらゆる頼みごとが持ち込まれたに違いない。勿論、不当な頼みごとも多数あったに違いない。季布は数々の頼みごとの中から、自分がやり遂げなければいけないことであってやり遂げることができる頼みごとのみを厳しく吟味して引き受けたに違いない。季布は、義理固い性分であったことから、自分が一旦承諾したことは必ずやり遂げた。その後、季布が一旦承諾したことは必ずやり遂げるということが世間的に評判になったことから、自分の信用を守るために、自分が承諾すべきことと、自分がやり遂げられることと、拒絶すべきこととを、厳格に選別して、安請け合いをしないことを貫いたのである。我々凡人であっても、他人から頼みごとをされた場合には、季布と同様に、安請け合いをしないで、頼みごとを引き受けて良いかどうか厳格に選別して、一旦頼みごとを引き受けたら、必ずやり遂げるようにしなければならない。


【第13章】NO

(6)56~57、104~105、(18)151、(21)3/31、(34)125


第209章(X)



第210章(X)

第211章【説明は詳細に/范蠡はんれい・諸葛孔明】(A)

人類の最高峰の人間の一人として、ジュリアスシーザーが知られているが、ジュリアスシーザーに勝るとも劣らない人間が、中国の春秋時代の越の范蠡はんれいだと思われる。

范蠡は、越の国の軍師であり、呉越戦争で越王勾践こうせんを勝者に導いた功労者である(第74章参照)。越王勾践は呉王夫差を滅ぼした後、范蠡は「得意の絶頂にある君主の下に長く留まっていては、この身が危ない。越王勾践は、首が長く、唇が外に突出している容貌から、越王は苦難を共にすることができるが、喜びを共にすることができない」と考えて、勾践の下を去ることを勾践に伝えた。これを聞いた勾践は范蠡に「国の半分を汝に与えて、ともに国を支配しようと思っている。あくまで立ち去ると言うのなら、余は心ならずも卿に誅を下さなければならない」と言った。その言葉は、范蠡があくまで越を去ると言うなら、范蠡を殺すとの脅しである。范蠡は「君が臣を誅殺しようとするならそうなさるのがよろしいでしょう。ただ、臣は臣の思うところを行うだけです」と言って、全財産を運びやすい財宝に変え、越を脱出して北方の斉に向かった。

越からの脱出に先立って、范蠡は呉の夫差の下に派遣していた美女の西施せいしを救出し、西施と共に斉に逃亡したのである。これは真実であるかどうかは不明であるが、もし、これが真実であれば、思いを遂げた范蠡は、幸せな男であったに違いない。

范蠡がすごいのは、移り住んだ斉で商いを行って巨万の富を築くのである。斉で名を鴟夷子皮しいしひと改め、商才を発揮して大金持ちとなった。やがて、斉の国王は、范蠡が軍事的な才能だけでなく、商才も豊かなことから、斉の宰相に取り立てようとした。「野にあっては千金の富を築き、仕えては宰相の位に上る。匹夫の身にとっては、これ以上の栄達はない。だが、栄誉が長く続くのは、禍の元だ」こう言って、知人に資産をことごとく分け与えて、陶に移り住んだが、陶でも商才を発揮して、巨万の富を築いた。陶での范蠡は、陶朱公とうしゅこうと呼ばれ、今でも大金持ちとして尊敬されている。ジュリアスシーザーは軍事的才能は抜群であったが、若い頃は多額の借金があった。それに比べて、范蠡は2度も大金持ちになり、昔から「陶朱猗頓とうしゅいとんの富」と喧伝されており、大金持ち中の大金持ちなのである。

この范蠡の子供に関する後日談である。范蠡が陶に住んでいた時に、范蠡の次男が楚の国で人を殺して捕まって罰せられると范蠡に伝えられた。罰とは死刑であるが、お金で減刑も可能な時代である。范蠡は、次男を救うために、末子に大金を持たせて呉に次男の救出に行かせようとした。ところが長男が、次男の救出には自分を行かせてくれと言って聞かなかった。范蠡は、最初は取り合わなかったが、「長男としての能力がない不肖の息子だと他人から思われる。もし言うことを聞き入れてもらえないなら自殺する」と長男が主張したので、結局、長男を楚に行かせることにした。范蠡は、楚王の顧問である荘生そうせい宛の書状と、黄金千金とを長男に渡し、「楚に着いたら、この書状と黄金千金とを荘生に渡し、全てを荘生に任せよ」と言った。楚についた長男は荘生に黄金千金を渡した。荘生は長男に「お金は預かった。弟が釈放されても、理由を詮索してはならぬ」と言い、長男に直ちに国に帰るよう忠告した。長男は、荘生に黄金千金を渡した後も、楚の有力者から次男の情報を得るための活動を行っていた。范蠡の依頼を受けた荘生は、楚の王に大赦を行うよう働きかけ、次男は大赦によって助かることになった。楚の有力者から大赦が行われるとの情報を聞きつけた長男は、荘生の働きによって大赦が行われたとはつゆ知らず、大金が無駄になると考え、荘生のもとに駆け付けた。「大赦が行われるため、次男は自動的に助かることになりました」と言って、荘生の力を借りなくても、次男は助かったと言わんばかりであった。その言葉は、預けたお金を返してもらいたいと暗に言っているようだった。怒った荘生は「預かったお金はそこにあるから持って行け」と言った。その後、荘生は楚王に会い、「巷では范蠡の次男を助けるために大赦を行うとの噂があります」と伝えた。王は、そのような噂を否定するために、范蠡の次男を処刑した後、大赦を行った。長男は、お金を惜しんだために次男の命を救うことはできず、次男の亡骸を陶に持ち帰ることになった。

 この結果を聞いた范蠡は、最初末子を行かせようとしたのは、末子は裕福になってから生まれた子供であり、お金の苦労を知らないので、お金の出し惜しみをしないと思った。しかし、長男は、自分と共に苦労をして育ったのでお金のありがたみを知っているので、お金の出し惜しみをしてしまう恐れがあると思った。しかし、行かせてくれないなら自殺すると言い張ったため、行かせたが、このような結果となった、と悔やんだ。それまでの人生で、常に正しい判断をして良い結果ばかりを得てきた范蠡が、唯一、誤った結果になった事件である。

 次男の救済に末子に代えて長男を行かせる場合に、自分の不安(お金の使い惜しみをするな。使い惜しみをすると、次男の命が助からなくなる恐れがある)を長男に詳細に伝えておくべきであったのではないか。范蠡が、最悪の事態までも考えていたなら、実行者である長男にその最悪の事態を伝えて、最悪の事態の発生を避けるべきではなかったかと思われる。范蠡は、長男に、起こり得る最悪の事態と、どのようにすれば最悪の事態をさけることができるかとを長男に詳細に伝えておくべきであったと思われる。

重要なことを他人に依頼する際に、単に、しっかりやってくれと依頼するのが一般的である。依頼する人はこの件で起こり得る多くの枝葉の事態が分かっているが、依頼する人は自分が分かっている多くの枝葉を依頼される人に伝えない場合が多い。自分が何かを第三者に依頼する場合には、考えられる事態を詳細に伝えておくべきである。自分が後悔することがないようにするために、事態を細かく分析をして、その分析した内容を第三者にできるだけ詳細に伝えるべきである。

 これと同じ事件(伝達事項を詳細に伝えなかった事件)が、「泣いて馬謖ばしょくを切る」という故事に知られている。中国の魏蜀呉三国の時代の蜀と魏との戦(第一次北伐)で、戦略上の要所である街亭がいていを押えるように諸葛孔明は馬謖に命令して馬謖に蜀の兵を預けた。しかし、馬謖は諸葛孔明の命令を無視して、蜀軍の兵を山の上に移動させた。蜀の副将がこれを諌めたが、馬謖は聞き入れなかった。蜀軍が山の上へ移動した時、蜀軍が死地に入ったと魏軍は喜んだのである。魏軍は山を囲み、蜀軍は食と水を絶たれて山頂に孤立し惨敗を喫した。兵法では高い位置に陣を敷くのが原則であるが、馬謖と魏の軍隊が対峙した街亭においては、山の上は死地になると、諸葛孔明も、馬謖の副将も、魏軍の軍師も分かっていたが、馬謖だけが分かっていなかった。馬謖は明らかに命令違反を起こして、蜀の多数の兵士を失ったのである。馬謖は孔明から「持ち場を離れるな」と釘を刺されていたのである。孔明は馬謖に、「持ち場を離れるな」とだけ言うのではなく、「街亭では山の上に布陣をすると水に困るから、山の上に布陣をしないように」と理由をつけて説明しなければならなかった。

孔明は馬謖を自分の片腕の一人になれると期待していたのであろうが、軍規違反であるからには、軍の規律を正すために馬謖を切らざるを得なかった。これが「泣いて馬謖を斬る」という故事の由来である。馬謖は能力が無かったのである。仮に馬謖が命を助けられたとしても、独善的な考えを持っているので、将来軍を任せられても、より多くの兵士を失ったのではないかと思われる

劉備が亡くなる間際に、劉備は諸葛孔明に「馬謖は口先だけの男であるから、重要なことを任せてはならない」と念を押した。劉備が見抜けていたことを諸葛孔明は見抜くことができなかったのである。馬謖は、自分が能力がある人間だとうぬぼれて、手柄を立てることだけを考えていたと思われる。手柄を焦る人間は、自己中心的な行動をとりがちである。これも、諸葛孔明が細かく馬謖に指示を与えなかったせいである。自己中心的で独断専行する部下を持つ上司は、重要なことを部下に任せる場合には、細かい点まで心を配って指示を与えなければならない。

 良い結果が得られないと言うことは、指示を与える者の説明が詳細に行われなかったためであり、指示を与えられる者との伝達の詳細な合意を得ていないことにも問題があるのである。悪い結果にならないためにも、説明は理由をつけて詳細に行わなければならない。

 説明を詳細にすると、うるさがられたり、自分を能力が無いとみられてふくれられたりするが、悪い結果にならないためにも、理由をつけて詳細に説明した方が良い。悪い結果になるよりも、うるさがられたり、ふくれられたりされる方が良いのである。結果として、何が良い結果となるかを考えて行動するべきである。


第212章【志は満たすべからず/礼記らいき】(A)

人間は社会に出て使命を立派に果たすためには、志を持たなければならない。志とは高い目標を設定することであり、それを実現することである。王陽明は、「志立たざれば、天下成るべきことのなし(志を立てなければ、何事も成功できるわけはない)」とか、「志を持たないと、舵無き舟やくつわの無い馬のようなものだ。波の間に漂ったり、やたらに走り回ったりして、どこへ行き着くかわかったものではない」と述べている。

「書経」という本に「玩物喪志がんぶつそうし」(物をもてあそび、志をうしなう)という言葉がある。物質(お金や家等の財産)にばかり捉われていると、精神的な目標が見失われてしまうというものである。

呂新吾りょしんごの著作である「呻吟語しんぎんご」に「貧しきはずるに足らず。ずべきは貧しくて志なきなり」とうい言葉があるように、貧乏が恥ではなく、志を持っていないことが恥なのである。

いずれの本にも、人間生きてゆくためには志を持たなければならないと説いている。勉強にしろ仕事にしろ、全ては志を立ててから始まるのである。毎日を無駄に時間を過ごして何もなさないのは、志を持たないからである。また、設定した目標が低いと、低い目標で満足してしまって、それ以上の進歩が望めないものである。志は、成果が自分のためだけのものであってもよいが、社会に貢献する成果が伴うものであることが望ましい。

私は、若い頃は、志といっても自分の短期間の目標しか持てなかった。若い頃、お金が無かったけれど、目標(自分がなりたいと思っていた弁理士)に向かって一心不乱に努力している時が一番幸せであったかも知れない。その目標の達成にある程度の見通しが見えてくると、幸せ度が落ちてくるように思われたのは、何故だろうか。同じ時間当たりの上昇の角度が落ちてくるからか、あるいは目標が低いものであったかのいずれかであろうか。

王陽明の言うように、志がなければ、目標が定まらず、気持ちがふらふらとして落ち着かない。これに対して、「礼記」の中に「志は満たすべからず」という言葉があり、この礼記の言葉を信じてよいかどうかわからなくなった。人間は一般に、志(目標)を立て、その志を達成するために努力をするものである。礼記の「志は満たすべからず」という言葉をそのまま受け取ると、人間としての立てた目標を達成しなくてもよいということになる。しかし、この言葉をよくよく考えてみると、簡単に達成できるような低い志を立ててはいけないという内容であり、簡単に達成できるものは志とは言わないということだと思われる。

 自分でも簡単に達成できる志であるならば、誰でも簡単に達成できるものであり、誰でも簡単に達成できるものは志とは言わない。簡単に達成できない志を立てて、その志に向かって努力しているなら、志の達成のために人生の長い期間を費やし、人生の大半を有意義に過ごすことができるとの考えによるのかも知れない。志を持って努力するということは、一般に辛い生き方を強いられるが、その辛さを克服してこそ志を達成することができるのである。

最終的に有名な会社や有名な官庁に入るために、有名小学校や有名中学や有名高校や有名大学に入ることを、幼い頃から目標にする子供たちが多数いる。入学してしまうと目標が無くなってしまう子供が多いが、それは入学することが目標だったからである。目標がなくなるということは、志が低かったからである。東大を卒業した人の話であるが、「東大に入学して少し経ってから分かったことであるが、クラスメートの何割かが、東大に入るためだけに力を使い果たして、その後、全然使いものにならない抜け殻のような人達だった」ということを聞いた。また、ある有名官庁に入った女性から聞いた話であるが、「お局さんから、あの男の人とあの男の人は気がふれている(仕事についてゆけなくて、精神的におかしくなった)から気を付けた方が良い」と注意をされたということであった。有名官庁に入る人は殆どが東大を出て国家公務員上級試験をパスして入ってきた有能な人達であるが、官庁の仕事に付いてゆけず、精神がおかしくなった人達だということであった。入学や入社することを目標としてはならず、入学や入社してから何を成すかが大事なのである。

魏蜀呉三国の魏の曹操の詩の一節に、「老驥(年取った名馬、き(名前))はうまやに伏すも志は千里にあり、烈士は暮年になるも壮心はまず」という句がある。名馬は老齢になって馬小屋に繋がれても、志は千里の彼方に駆けており、熱烈な志を持つ男性は年老いても盛んな意気を燃やし続けているという内容である。この詩にあるように、老齢になっても、志だけは持ち続けたいものである。

一つのアメリカンジョークが、自分の記憶に残っている。軽飛行機の主パイロットが、河原でその軽飛行機に向かって手を振る数人の子供達を見て、隣の副パイロットに、「小さい頃は自分も空を飛ぶ飛行機を見て、大人になったらパイロットになりたいと思って、飛行機に向かってよく手を振ったものだ」と言った。副パイロットが主パイロットに、「夢が叶って良かったですね」と答えた。それに対して、主パイロットは、「今は、河原で手を振っているあの子供達になりたい」と答えたというジョークである。このジョークにはしみじみ考えさせられた。若い時の希望が叶えられてもそれが幸せかどうかは分からない。若い時思っていた職業が、単なる憧れだけだったと分かったからかも知れないし、幼い純粋な気持ちの頃の自分に戻りたいと思ったのかも知れない。

志は、簡単に達成できる程度のものであってはならない。若い時の志が簡単に叶えられてもそれが幸せかどうかはわからない。人生、生きてきて今が一番良いと言い切れる状態に自分を持っていくべきべきである。目標に向かって努力している時が一番幸せかもしれない。目標を達成し終えると、目標が無くなり虚無感に襲われることがあるかも知れないから、一つの目標を達成したら次の目標を設定すべきである。志は簡単に達成できるほど、容易なものであってはならない。このことから、「志は満たすべからず」という言葉が生まれたに相違ない。

しかし、人間志を立てたからには、人生が終わるまでの間に、その志を達成すべきであり、いかにしたらその志が達成できるかを考え、そのための最善の努力をすべきである。


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第213章【恩の返し方/信陵君・侯蠃こうえい】(S)

中国の戦国時代に多数の食客抱えていた宰相等の重臣として戦国の四君(魏の信陵君しんりょうくん、斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君)が知られている。この中で、魏の信陵君は信義が厚いことで知られていた。秦の昭王の時代、秦は趙に侵攻し、趙都の邯鄲を包囲した。趙は魏に救援要請を行い、魏王は将軍晋鄙しんぴに十万の兵を授けて、趙の救援に向かわせた。それに対して、秦王は魏王に、もし趙を救援した場合には、趙を破った後は直ちに魏を攻撃すると脅した。魏王は秦の脅迫に恐れをなして、邯鄲の近くまで進んでいた晋鄙に邯鄲への救援軍の進行を停止させた。魏の救援が来ないことから、平原君は信陵君に何度も救援の要請をした。信陵君の姉が趙の平原君に嫁いでいたことから、平原君は義弟である信陵君の義侠心に期待したのである。平原君の要請を受けて、信陵君は父親である魏王に邯鄲の救援に向かった軍隊を早急に秦軍に当たらせて邯鄲を救うように頼んだが、秦王に脅迫されている魏王は信陵君の言うことを聞かなかった。信義に厚い信陵君は、自分と行動を共にしてくれる食客と自分とで、邯鄲を救援に行こうとした。信陵君の食客の数は三千と言われているが、信陵君と行動を共にしようとする食客はせいぜい数百人だけであった。このような少ない人数で、秦の軍隊に突入しても犬死することは分かっていたが、信義を重んじる信陵君は、少人数でも秦軍に一矢を報いる覚悟であった。

信陵君の食客の一人に、魏の夷門いもんの門番であり囲碁の名人である侯蠃こうえい爺さんが居た。侯蠃は、囲碁の名人だけでなく、市井の多くの人と交友があった。怪力で胆力のある屠殺業者の朱亥しゅがいは、侯蠃の囲碁の弟子であり、侯蠃に心酔していた。以前、信陵君は名声の高い侯蠃を食客に招こうとして、侯蠃の下に何度も足を運んだ。侯蠃は信陵君の行為に誠意を感じて信陵君の食客になった。信陵君は侯蠃の友人である朱亥も食客に招こうとして朱亥の下にも足を運んだが、朱亥を食客にすることはできなかった。

信陵君が趙の救出に趙へ出発する準備をしている時に、侯蠃は、世話になったお礼として信陵君に策を授けた。このまま、少人数で趙に行って秦軍に突撃しても勝つ見込みがなく犬死にであり、秦軍を破るためには、魏王が派遣した将軍晋鄙の十万の兵を奪って秦に当たるべきだと教えた。

晋鄙の十万の兵を得るためには魏王の割符である虎符が必要である。虎符の片方は将軍晋鄙が持ち、虎符のもう片方は魏王が持っている。虎符を合わせることで、軍の全権を握ることができる。侯蠃は魏王が持っている虎符を得る方法を信陵君に教えた。魏王の寵愛する如姫じょきの父親がある男に殺され、如姫はその仇を討つためにいろいろ努力したが、どうしても犯人を捕まえることができなかった。以前、如姫は、義侠心が厚く食客三千人を抱えて裏社会にも情報網を持つ信陵君に犯人の捜索を依頼した。信陵君は、犯人を捜し出して犯人を殺し、如姫の仇討を手伝った。如姫は、この恩に報いるためにはどのようなことでもしますと信陵君に誓っていた。信陵君は如姫に、魏王が持っている虎符を得てくれることを頼んだ。如姫は、信陵君の恩に報いるために死をも厭わず、魏王が持っている虎符を盗み出して信陵君に渡した。

信陵君が魏を後にして趙へ出発する前に、侯蠃は「信陵君様が魏王の虎符を将軍晋鄙しんぴに示したとしても、将軍晋鄙は軍を信陵君様に引き渡さない恐れがある。その場合には、将軍晋鄙を殺さなければならず、そのために朱亥が必要です」と、朱亥を連れてゆくように信陵君に勧めた。朱亥は尊敬していた侯蠃の言に従って、信陵君と行動を共にすることになった。信陵君は、「将軍晋鄙は老いて剛直な性格であるから、魏王の虎符を示したとしても、おそらく軍を自分に渡さないでしょう。その時は、老将晋鄙を殺さねばならず、それが悲しい」と嘆いた。老将を思いやる信陵君に応えて侯蠃は「お辛い気持ちをお察しします。しかし、信陵君様にだけ、そのような辛い思いをさせるものではありません。将軍晋鄙様の冥途への旅立ちに、それに相応しい道連れがありますから、お心をお安め下さい」と言って、信陵君の旅立ちを見送った。

信陵君は、朱亥を連れて、将軍晋鄙に会い、虎符を示して、自分が軍司令官となったので、魏軍を信陵君に渡すよう迫った。将軍晋鄙は信陵君を怪しみ、軍を信陵君に渡そうとしなかった。晋鄙が軍の引き渡しを拒否した途端、朱亥は将軍晋鄙の頭の上から鉄槌を振り下ろして、将軍晋鄙を殺した。十万の魏軍を得た信陵君は、直ちに邯鄲を包囲している秦軍に迫り、秦軍を打ち破って趙を救った。信陵君は魏王を裏切ったことから、魏軍を魏に返し、自分は魏に帰ることなく趙に10年間残った。秦軍を破って趙の邯鄲に入った信陵君に魏から連絡があり、将軍晋鄙から軍を奪った日に近い日に、侯蠃は自ら首を刎ねて亡くなったということであった。将軍晋鄙の冥途への旅立ちに相応しい道連れとは、侯蠃の自刎のことであった。侯蠃は、自分の信陵君への献策が、将軍晋鄙の命を奪うことになることが分かっていたことから、晋鄙の死に殉じようとしたのである。

侯蠃は、信陵君の自分に対する交誼に応えるために、信陵君が行うべき多くの献策を示し、それを具体化させる朱亥を紹介し、自分の献策の結果で巻き添えを食う将軍晋鄙の災難を自分の命で償うようにした。囲碁の名人である侯蠃は、囲碁を通じて人生で次に打つ手をどのようにすれば良いかの最善手を見つけることができるようになり、人生の達人になったと思われる。

侯蠃も如姫も、命を賭けて恩に報いたのである。朱亥も侯蠃から何か大きな恩を受けていたのであり、朱亥は侯蠃の要請を受けて、信陵君の命に従ったのである。

人生のいろいろな場面において、他人から恩を受けることがある。現代では、命を賭けて恩に報いることはないが、人間として受けた恩に可能な限り報いるべきである。他人に対して何かをしてあげる人は、何かを報いてもらうことを期待してはならない。信陵君は侯蠃の自分に対する報恩が献策や自刎とは想像はしていなかったと思う。信陵君は、自分の義侠心に基づいた行為をしただけに過ぎなかった。

秦を撃退した後の信陵君は、魏王に背いて魏の軍隊を奪ったことから、魏に帰ることができなかったが、秦からの圧迫を受けて困っていた魏王の要請により、10年後に魏に帰った。帰国後の信陵君は、秦に対抗する数か国を束ねる将軍となり、秦軍を破った。始皇帝による中国統一前に秦軍を破った将軍は、信陵君ただ一人である。その後、信陵君の名声が高まったことと秦の謀略とから、魏王は国の中枢から信陵君を遠ざけた。信陵君は魏王の扱いに失望して、酒と女に溺れて数年後に死亡した。たとえ、不遇な状態に陥っても、酒と女に溺れたり、余り失望し過ぎたりして、自ら心身を病ませないようにしなければならない。




第214章(X)

第214章

【軽薄】

ツイッターで何でもペラペラ世間に公表することは、薄っぺらな人間以外に何物でもない。

単に有名になりたいと言っている若者が多いが、これも薄っぺらな人間以外に何物でもない。

秘すれば花


第215章(X)

第216章

理想の職業など最初からない。それは自分で作りだすものなのだ。

「自分はこの仕事に向いていない」と言わないことだ。98%の人は、最初からこの仕事につきたいという人はいない。

世の中は不公平である。しかし、正直なもの、誠実な者が認められる。

婿養子(左遷)212、有名(左遷)223,226


例えば、病気や、肉親等の親しい人の死や、事業の失敗や、地震や津波等の天災がある。親の死亡等を理由に、働く気持ちが起きないという理由で、仕事を一時的に放棄した人を何人も見てきた。不幸は誰にでも起こることである。不幸に襲われることがあっても、その不幸によって心が折れることがないように鍛錬をし、常日頃から心の立ち直りができるよう自分の心の支えとなる本を見つけておかなければならない。


君子は人格的に優れていなければならないことから、「菜根譚」に君主は人前で恥をかきたくなければ、人の目の届かない所で過ちを犯さないように心掛けなければならない。


斉の宰相であった孟嘗君が斉王にうとまれて宰相を解雇された時に、秦は宰相として孟嘗君を秦に招聘した。その際時に、孟嘗君は食客の一部を秦に連れて行った。


己の欲せざる処、人に施すことなかれ

これが原則であるが、自分が欲しないものであっても、人に対して注意すべきことがある。

(1)185、(21)7/8、7/21、(23)62,63


孟嘗君がせつに帰ると、領民たちは孟嘗君の帰郷を国を挙げて歓待した。領民に心から歓待された孟嘗君は、馮諼ふうけんが自分のために足りないものを買ってくれたとはこのことかと感謝した。馮諼ふうけんが、この日のあることを前もって予見していたとしたら、素晴らしい先見性を持っていたのである。



孟嘗君が宰相の地位を追われると、殆んどの食客が孟嘗君の下を去ってしまい、孟嘗君は今まで面倒を見てきた食客の冷たさに落胆した。孟嘗君がせつに帰ると、領民たちは孟嘗君の帰郷を国を挙げて歓待した。領民に心から歓待された孟嘗君は、馮諼ふうけんが自分のために足りないものを買ってくれたとはこのことかと感謝した。


トップとしての能力、№2としての能力、管理職としての能力等、人にはそれぞれの能力の限界がある。自分の能力の限界を自覚した場合には、その地位より高い地位を受け入れてはいけない。それを、自分に能力があると思い込んでトップになった場合に、組織が崩壊して、周囲に迷惑をかける恐れがある。また、トップとして人を引き上げる場合に、トップとしての能力があるかどうか見極める必要がある。選挙においても、単にどこかの政党に属しているからといって、それだけで判断してはいけない。人を見極める力をつけなければならない。


 人間一人だけで組織を動かすことはできない。一人の人間の及ぶ力などたかが知れている。組織のトップであれば、できの悪い部下でもその人を教育して、その人の力を組織に利用するようにしなければならない。



第 章

【老年になった時のことを若い時から考えておく】



第 章

【季布の一諾/安請け合い】


第 章

第210章

【人の言うことを信用しない/全て自分で判断する】

種々の事柄に対して、いろいろな人が好き勝手な意見を述べている。例えば、癌に対しては、手術をして癌を切除すべきだという意見と、癌を切除してはいけない(手術をしない)という意見とがある。癌の進行具合や癌の発生部位や患者次第によって、正しい場合と正しくない場合とがあると思えるが、どちらの主張者も自分の意見が正しいと主張する。

一日に摂る食事の回数も、1回~3回までのいずれかが良いと主張する様々な人が居るが、どちらが正しいかわからない。

ダイエットに関しても多数のダイエット方法が知られているが、どのダイエット方法が、健康を損ねることなくダイエットができるかいまだ分かってはいないのである。

意見を主張する人は、その意見が本当に正しいかどうかわからずに、部分的にその意見が正しそうな結果を得ただけで、自分の考えを主張するのである。特に、著名人は、その著名さに基づいて、本当に正しいかどうか検証もせずに、自分の考えに基づいた本を出版する。

ダイエット方法を本を出版する人は、部分的に自分の考えの結果を得ただけで、自分の考えが正しいと思い込んでいるのであり、本当はそのかんがえがただしいかどうかはわかっていない無責任な人が多いのである。

世の中無責任な人が多いので、本に書いてあることが正しいかどうか、全ての事の正否は、自分で判断すべきである。


【その他】


小さい仕事をしている経営者でも、大きい仕事をしている経営者でも、年に何回かは資金繰りに苦労することがある。小さい仕事をしている経営者でも大きい仕事をしている経営者でも、資金繰りの苦労は同じである。資金繰りに困った時には、大きな仕事をしている経営者ほど、大きなお金が必要であり、大きな仕事をしている経営者ほど大変さは厳しいと思われる。


仕事上で、相手の会社の担当者が交代した場合には、今までの相互の交流関係は全く考慮されなくなる。私のお客様である上場企業のA社と、A社より規模の大きい他の上場企業のB社との間で、会長同士が特許で話し合いをした際に、私が作成したA社の特許明細書が、B社のものと比べて余程差があったのだろう。会長から、特許部長を通じて、「面目を施した」とお礼の電話があった。

その後、世界的な大手の自動車会社であるC社との共同研究に関して、A社の特許関係の実力をC社に示すために、私に特許明細書を作成してもらいたいとの依頼があった。その後、A社は経営が思わしくなくなって、会社の実権は経理が握ることになった。その後、経理の命令で、6割で仕事を引き受けるライバルにしか仕事を出さなくなったということを聞いた。今までの長年の交流は、担当が変わると、全くと言っていいほど、無視されるものである。これが当たり前であると考えた方が良い。担当が交代すると、新たに関係を作り直さなければならない。今までの交流が残っていると考えると、痛い目にあう。その例として、ある特許事務所が世界的な企業D社の特許の仕事をしていたが、担当者が交代して仕事が減ったために、元通りの量の仕事を出して欲しいと要望した。特許事務所の所長は、D社に対していろいろなことをしてあげていたと思われる。そのために、D社に対してまだ、融通が利くと考えていた節がある。更に、考えに甘えがあったと思われる。その後、D社からの仕事が更に激減したと聞いた。会社の担当が変わった場合には、今までの施してきた恩は交代した担当者には通じないものである。これが、現実である。


【】

 中国の有名大学を卒業して外資系の投資会社に入った人の何割かが、躁鬱病になっていると、その大学の卒業生に聞いたことがある。余りにも競争が厳しく、仕事の成果が上がらないと、会社からの追及が厳しく、躁鬱病になる。躁鬱病になると、心身に悪影響が及ぶ。場合によっては、職業を変えて嘆きや愁鬱から自分を離すことも必要な場合がある。これによって、命を安らかに保つことができる。命あってのもの種である。

【142】

お金を貸してくれという人は、殆んど信用できない。人にお金を借りることが無いように準備をして、人に迷惑をかけないように

【148】

老齢になって成功する人がいる。パーカー万年筆

太公望はそれまで何をしていたのか。

【153】


生物には優性遺伝と劣性遺伝とがある。人には運不運がある。

人によっては、国に愛される人もあれば、国と対立せざるを得ない人もいる。

【159】


助けられる人が、それに報いるだけの人か。義狭心を出すとしても、それには経済的限界がある。


【】

 中国の歴史で、攻撃にさらされて、絶体絶命になって川まで追い込まれた時に、船頭が救いに来た例が、項羽の他に、伍子胥の例がある。劉邦と項羽の漢楚の争いより数百年前に、楚の伍子胥が、自国の悪い宰相から追われて逃げている際に、

【人を助ける】

伍子胥と項羽とを、船頭が助けようとした。

人を助けるのに、限度がある。(第117章)

【井戸を堀った人の恩を忘れるな】()

辛い時に助けてくれた人の恩を忘れるな

【166】

韓信を見抜いた蕭何

彼等は、人を見る目が最高にあった。

伯楽、藺相如、胆力


名伯楽…日本での意味

【171】


現代の経営者の中で、成功した人達の多くは、失意のどん底に落とされながら、立ち直った人達が多数居る。誰でも大変な状況になる場合も往々にしてあるのである。彼等のことを考えると、引き籠りになることなど、論外である。


【】

子供の頃には、早く大人になって、いろいろなことをやって。お金を稼いで楽しさに溢れる人生を送りたいと思っていた。しかし、お金持ちになりたいと思っていたが、人並みに働いただけでは、残念ながらお金持ちにはなれなかった。

定年退職した人で、子供も社会人となって、何不自由のない暮らしをしている人で、早々に亡くなる人が多い。定年退職した人の大半は、何不自由のない暮らしを目標としているが、何不自由のない暮らしよりも、若干のストレスがある方が、生きるための活力が生まれる。親孝行の息子が、親孝行のために、住居を提供し、何ら心配事がないような生活をさせたら、親が短期間で亡くなったという記事を何かで読んだことがある。何事も満たされ過ぎるということは、最高ではないのかも知れない。誰でも、人生のどの時点でも、満足の行くものではなかったはずである。満足の行くものではないことが、人生である。また、それが最高であるのかも知れない。


【170】

「糸のもつれをほどくには、むやみに糸を引っ張ってはならない。相手の虚を突けば、形勢を有利にできるのです。今は、魏都の大梁だいりょうを攻めるべきです。さすれば、魏軍は趙の包囲を解いて、自国の救済のために軍を戻すでしょう」と進言した。

【187】

 人の心はいつ変わるか分からない。老化による愛情が無くなる


親が好きで、親と仲の良い人を配偶者として選ぶ。


第190章

【孔子の窮状】(A)

孔子の生きている時代だけでなく、現代でも人間の世界は、妬み、そねみ、嫉妬に充ち溢れている。

孔子が遊説しようとしている対象は為政者(王)であり、国民に対して恩恵を施せば国は良くなると孔子は王を説得しているが、殆んどの当時の王は、どうしたら国が強くなり国が大きくなれるか、どうしたら自分が楽しく過ごせるかのみを考えており、孔子の主張を聞く為政者は少なかった。また、孔子の主張を王が受け入れようとしても、その国の大臣が自分の地位を奪われると恐れて、孔子の起用を阻止する。また、孔子が大国である楚で用いられると、自国に圧力がかかるとして、陳や蔡は孔子が楚に行くのを阻止した。

孔子がどれだけ正しいことを言っても、周囲の人間は自分に悪影響が及ぶかどうかを考えて、孔子を阻止する。

どの時代でもそうだが、孔子の時代では、他人を踏み台にしても自己の利益のみを追求する人が殆んどであった。孔子の列国への遊説でどれだけ正しいことを言っても、時代とその時代の人間の質とによって、受け入れられるかどうかが決まる。

その時代においては、孔子は教育者でしか認められなかったのではないか。孔子の弟子への教育が、人間を教え導く論語として集大成したことから、孔子は人生の最後に、自分の進むべき最前の道に自然と行き着いたことになる。もし、孔子がどこかの王に採用されたら、最高の政治家になってその国が隆盛していたであろうが、その場合には、魯での弟子の教育程、教育への力が及ばず、死後の論語の厚みには至らなかったのではないか。過去においても、現代においても、人はなるべくしてその結末に至るのではないかと思われる。



【他の章への応用】

人は誰でもどのような職業でも、一生懸命仕事をしているが、職業によって時代の趨勢に合わなくなる不運に見舞われる場合がある。認められている時期(事業の場合、利益が出ている時期)が尽きようとしている場合に、早くその時期を見つけて、他の分野への移動するかして、何か手を打たなければならない。その進むべき分野が、自分の一生にわたって認められるあるいは成長するものか、途中で成長が途切れてしまうものかによっても運不運に分かれる。

若い年齢で最盛期を迎える職業(例えばスポーツ選手やアイドルタレント等)に就いている人のうちで特に才能のある人は、自分の好きな道に進めるが、特に才能のない一般の人は、社会に出る時に会社等の組織に入って、その組織の一番底辺から社会人をスタートする。組織に属した人は、その組織の或る程度の地位まで出世して、やっと自分がその組織でやりたいことがやれる。そのために、組織に属する人は、組織での自分の出世を願うのである。



私は小さな特許事務所を経営していたが、いつも悩みがあった。それは、獲得した特許権の年金管理問題(特許権を維持するためには、毎年維持年金を納付しなければ、特許権は失効してしまう)であった。私は実質的な仕事(特許出願書類の文章の作成)をしなければならず、特許権の管理は事務員に任せざるを得なかった。他の特許事務所で、事務員の管理ミスで特許権を失効し、お客から多大の損害賠償を請求されたという話を度々聞いた。どの事務所員も、ミスをしないように一生懸命仕事をしているのであるが、誰にもミスを犯さないということはあり得ない。私は、私の事務所ででもミスが起こるのではないかと、不安で仕方が無かった。その悩みが長く続いた後、私は最悪の悩みが自分に起こった状態を考えてみた。アメリカ政府から依頼された特許権の価値は数百億円と聞いた。最悪の状態は、先ず特許事務所が潰れ、自分自身が自己破産をする。事務所員は他の特許事務所に引き取ってもらう。これが最悪の状態である。その後、自分はどう生きれば良いかということを考えた時、特許の文章と図面は平均以上に書けるので、どこでも雇ってくれ、生活ができるだろうという思いに至って一安心した。最悪の状態を考え、それを受け入れる覚悟をする。そこから新しく打開の方法を考える力が湧いてくる。最悪に直面し、それを受け入れることで、どん底よりの回復を考える。頭の中から悩みを追放し、回復する手段を考える。






(53)戦国成語秘話/細川邦三/細川印刷


 李斯が若い頃に感じたと同様に、どのような職業が良いかを考えて、弁理士になろうと決意した。弁理士になるには、司法試験や公認会計士試験と同様、国家資格である弁理士試験に合格しなければならない。1978年に約3300人の受験者に対して合格者は76人であり、当時は、弁理士は社会的にも認められた職業だった。その後、役人が有資格者を増やし、2010年には受験者が1万人を超え、合格者は800~900人となり、仕事量が増えずに弁理士の数が増えて、過当競争の時代に入り、弁理士の価値が下落した。職業の価値は、時代の変遷と共に変わるものである。


第11章以降――仕事

【仕事を変えたい場合】(B)、

(34)49~50孔子教育



常に陰徳陽徳を積んで、世のため人のために尽くすことを心掛けるべきである。善行を尽くした人には、必ず他人からのお返しが有る。但し、それを当てにしない。

(恩)


見知らぬ土地へ行ってリセットしたいと思っても、結局何も変わらないことに気づく(TVのセリフ)

(自分探し)

(6)132,144,115、

(23)30


第13章

【「NO」と言う勇気をもつ。更に、「NO」と言えるだけの社会的実力をつける】(第23章)

世の中には、強制的に不当な要求をしてくる人が多い。それらの人は、自分の都合だけで他人に不当な要求を強いるものである。不当な要求に対しては、勇気を持って、「NO」と言おう。

人生においては、例えば、「借金の保証人になって貰いたい」とか「お金を貸して貰いたい」とかといった依頼(不当な要求)をされる場合がある。このような要求に対しては、勇気を持って「NO」と言おう。保証人制度が出来て以来、保証人になったことで、自分が負債を背負い込むことになり、一家離散や自己破産になった話を身近で山のように聞いている。「NO」と言えなかったその一瞬だけで、人生を棒に振ってはいけない。

このような不当な要求は、誰にでもあるから、事前にそのような事態を想定して、「NO」と言う訓練をしておくべきである。そして、断る理由を事前に考えておく。私の場合は、祖先の遺言で、絶対保証人になってはいけないと言うことにしている。

第74章(C)

【詳細な情報の伝達の必要性】

人類の最高峰の人間の一人として、ジュリアスシーザーが挙げられるが、ジュリアスシーザーに勝るとも劣らない人間が、中国の春秋時代の范蠡である。呉越同舟という言葉でも知られる呉越戦争の際の越の宰相である。呉と越は、親子二代にわたって勝ち負けの戦を繰り返し、最後は范蠡が属する越が勝利を得るのである。最終的に越が勝利を得る前は、呉が越を破り、越王勾践は呉王夫差の下僕となることで、命を救われた。その後、勾践は民を養い国を富ませると共に、范蠡は絶世の美女西施を呉王に贈り、呉王夫差を骨抜きにした。呉王夫差が中国の各国の盟主たらんと、中原に軍をすすめた時に、越王勾践が呉国に攻め込み、呉国に痛手を与えた。その後、数年を経て呉王夫差が越王勾践に滅ぼされるのである。越が呉を破った後、范蠡は「越王勾践は、首が長く、唇が外に突出している容貌から、越王は苦楽を共にすることができるが喜びを共にすることができる人ではない」と判断して、全財産を運びやすい財宝に変え、越を脱出するのである。呉からの脱出に先立って、范レイは西施を救出し、西施と共に北方の斉に移るのである。これは真実であるかどうかは不明であるとのことだが、もし、これが真実であれば、思いを遂げた范蠡は、幸せな男であったに違いない。范蠡がすごいのは、移り住んだ斉で貿易の商いによって巨万の富を築くのである。斉の国王は、范蠡が軍事的な才能だけでなく、商才も豊かなことから、斉の宰相に取り立てようとした。范蠡は斉で蓄積した財産を散じて陶へ移り住み、陶でも巨万の富をなすのである。陶での范蠡は、陶朱公と呼ばれ、今でも尊敬されている。ジュリアスシーザーは軍事的才能は抜群であるが、若い頃は多額の借金があった。それに比べて、2度も大金持ちになり、昔から 頓陶朱の財と喧伝されているのであり、大金持ち中の大金持ちなのである。この范蠡の後日談である。范蠡の子の話である。范蠡の次男が楚の国でひょんなことから殺人を犯し、罰せられると范蠡に伝えられた。罰とは死刑であるが、お金で原型も可能である。次男の減刑に三男を差し向けようとしたが、長男は自分の手柄にしたいため、その役目を自分に代わってほしいと直訴した、役割は、楚の国王の顧問にお金を積んで、その顧問の力で次男を救出してもらうことである。



范蠡の次男、判断の変更

(1)144~146、148~152、(5)33~37、

(12)68~76、(13)74、98、


【93章】自分の考えが正しいと思い、自分が正しいと思った考えを他人に強要することがあるが、それは間違っていると老子は言っている。自分も、自分が正しいと思ったことを他人に強要した経験がある。自分の子供に対して親だという理由で自分が正しいと思った考えを押し付けたり、コンサルタントをしていた企業の進むべき道を強要したりしたが、相手は相手の考えを貫き通して、自分の考えを受け入れてくれなかった。自分が強要した考えは、正しいとはっきり分かっていたので、それを伝えた後もそれを強く強要したい気持ちがあったが、老子的な考えからすれば、これ以上自分の考えを相手に強要することは反発を招くだけと考えて、強要しなかった。自分の考えは自分の思った通りの結果となったが、相手が自分の考えを拒否してもそれは仕方がないことだと考え、自分の考えを強要しなかった。自分の考えに素直に従うのは良い人で、自分の考えに従わないのは悪い人だとの評価はしなかった。


【53章】

 私は63歳まで、幸いにも経営的に心配したことは殆んどなかった。しかし、2010年のリーマンショック前から、漠然と将来先細りする恐れがあるかも知れないと感じていたが、約1年近く、何とかなっていた。しかし、2011年の東北大震災後から急に仕事が減少した。仕事が減少した原因の主なものは、自分の行ってきたビジネスモデルが、時代に合わなくなってきていたのかも知れない。仕事の減少に対して、事前に準備をしておくべきだった。

リーマンショック以降、一応何とか仕事が入ってきていたため、危うさがあるとは薄々感じていたが、何ら手を打たなかった。手を打たなかったことから、危険はあっという間にやってきた。私の会社(特許事務所)は、数少ない上場企業からの仕事の依頼と、数多い中小企業や個人からの仕事の依頼との合計で売上を保っていた。

2011年3月12日の東日本大震災後、数多い中小企業や個人からの仕事の依頼は極端に少ない状態となった。更に、一番仕事を出してくれていた上場企業が危機的状態となると共に、その会社が60%程度の安い価格を提示した同業者に仕事を出したことから、私の会社の仕事は大幅に減少した。人的作業であり知的作業であるので、60%程度の金額で仕事ができることはあり得ないのである。そのような、安価な金額を提供する同業者が現れた以上、正当な金額で仕事を出してくれるお客を新たに獲得しないと、生き延びれない。危機的状況は漠然と考えてはいたが、いざそのような危機的状態とならないと、殆んどの人は、手を打とうとはしないものである。危機的状態のシグナルを一度感じた時に、直ぐ行動しないと手遅れになる。しかし、新規開拓をしようと思った時に緊急の仕事が次から次へと入ってきて、一応は仕事があると誤解していたが、それらの急ぎの仕事が無くなると一挙に仕事が無くなった。一度危機を感じたら、その後は仕事が入ってこないと考えて、新規開拓を継続しなければならない。上場企業からの仕事も不景気になると、上場企業が自社で仕事をこなす場合もあり、そのことも肝に銘じておくべきである。


第20章

【いい恰好はしない】(X)

王監督

少ない観客の球場を、お客で一杯にするのが自分の仕事である。

桑田

人生は挑戦である。鍛錬した結果を挑戦(実戦)で試す。



会社に貢献してこそ、会社から貢献してもらえる。


常に陰徳陽徳を積んで、世のため人のために尽くすことを心掛けるべきである。善行を尽くした人には、必ず他人からのお返しが有る。但し、それを当てにしない。


【仕事を変えたい場合】(X)、

志たたざれば、舵無き舟、くつわなき馬の如し(王陽明)

(57)67、68、72

本(57)73

リーダー(57)79


【与えられた状況で仕事に全力を尽くす】(第187章)


 与えられた仕事に最善を尽くすことで、その仕事が好きになることが往々にしてある。社会人になった時には、一般にはどこかの会社でどこかの組織に属するものである。属する組織に将来まで居た場合に、自分の将来があるかどうか検討してみる。


第11章

【仕事は自分のやりたいことをやるに限る】


自分がやりたい仕事を見つけられるかどうか。やりたい仕事をした方がよい。

社会のため、他人のために仕事をしていれば、誰かが見ていてくれるものだ。

【自分を助けてくれるのは、他人に対する誠意や思いやりである】


(34)49~50孔子教育



常に陰徳陽徳を積んで、世のため人のために尽くすことを心掛けるべきである。善行を尽くした人には、必ず他人からのお返しが有る。但し、それを当てにしない。

(恩)


見知らぬ土地へ行ってリセットしたいと思っても、結局何も変わらないことに気づく(TVのセリフ)

(自分探し)

(6)132,144,115、

(23)30

28章【社会への貢献】

生きとし行けるものは、全て欲望を持ちながら行動している。その欲望を理性で制御できるかどうかによって、その人の価値が決まる。理性の一形態として、公への貢献の考えがある。自分の生涯を通してどれだけ社会に貢献できるか、どれだけその気持ちを持続できるかが問題となる。








この本は、人生で失敗したり後悔したりした内容と、失敗や後悔をしないようにするために事前の対応例を、中国の古典から多くの故事を参考にして、各章毎に解り易く解説したものである。更に、眠気を誘うことがないように、中国の歴史の重要な事件や漢詩から故事等を抜き出して、各章の内容に関連させて、最初の章から最後の章まで、飽きずに読めるものとした。


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