8.君の名は
『名前教えて下さい』
――唐突すぎる。
『俺はエックハルト、君は?』
――今更? 大体、自分はすでに名乗っている。
『今日はいい天気ですね。そういえば、お名前はなんでしたっけ?』
……そういえばって、なんだよ。
アルフレア花壇通り、奥のベンチにて。
エックハルトは眉間にシワを増やしながら考え込んでいた。
件の女性は待ち合わせをしたわけでもないのに、いつものように話を聞いてくれる。
その事実に喜びを感じつつも、隣に座る彼女を盗み見て。また、声をかけられず正面を見るを繰り返す。
――もちろん。高難易度任務は絶賛実行中である。
「――もう、領地に戻られるのですね」
「ええ。元々長くいるつもりはなかったので」
王都に来て十五日余り。
滞在期間を『長くても一週間』と考えていたエックハルト。
予期せぬ事件があったとはいえ、随分長く居たものだと思う。
この予期せぬ事件については、彼女に話してはいない。
機密ではないが、この手の話は口外しないというのが暗黙のルールなのだ。
お互い無言のまま、行き交う人を眺める。
以前は避けるように割れていた人波もそのままで、自分が腰かけているベンチの傍にも人が通り過ぎてゆく。
この、何でもないような景色がエックハルトにとっては新鮮だった。
いつも機嫌が悪そうだと、人から避けられ始めたのはいつだったか。それがもう思い出せないぐらい前の事で、自分は人と関わるのは難しいと思っていたのに。
「なら、もう一つだけ。お伝えした方が良い事があります」
苦手な人ごみも、気にしていたシワも。
王都に来る前と比べたら、好ましい状況になった。
お節介なアルバティスのおかげ。そして、目の前の彼女のおかげでもある。
『とても感謝している。
だから、おしえて。――君の名前を。』
そう呟く自分を想像し。
一人、震えた。
――無理すぎる。人格崩壊を招きかねない。
今までの自分が彼女にどう映っているかは分からないが、きっとこういうキャラではない筈だ。
エックハルトは自分の意気地の無さにがっかりしながら、「……なんだい?」と、彼女に先を促す。
頭の中は名前を聞く方法ばかりで満たされていたが、それではいけないと軽く頭を振った。
「今からお話しするのは、人の夢と、心根の話です」
思わぬ真面目そうな話に目を瞬いたエックハルトに、「夢に影響を及ぼす事が出来るのは、心ですから」と、彼女が続けた。
「……ひょっとして、根性論になる?」
「根性論?」
「いや、ごめん。続けて」
脳裏に浮かんだ教官を振り払う。
悪夢を見る回数が多かったエックハルトは、この教官を思い出す事も多いのであった。
彼女が話を続ける。
人の様々な感情はすぐ心の隣にあって、何処よりも早く己の想いを察知してくれる事。
その想いが強ければ強いほど、感情は大きな影響を及ぼし、心に痕をつけるのだとか。
「――楽しい想いも、辛い想いも、内容は一切問わず、です」
心に深く刻まれたもの――それを、心痕と言うらしい。
「夢は心痕を栄養に構築される――……楽しい想いが刻まれているなら、幸福に充ち溢れた楽しい夢になりやすい。それは根底にある痕が、幸せである事をずっと覚えているから。逆に、辛い思いが刻まれているなら、背筋の冷える恐怖、痛みを伴う悲劇、そんな夢になりやすい。でも、悪い夢は体力も気力も使うから、それを見続ける事は難しい……」
エックハルトは嫌な予感がした。
解放的になりかけていた心に寒々しい風が吹き始め、慌てて身を隠す場所を探し始める。
彼女は他愛もない話を聞いてくれた女神。
まるで、自分の心を見透かしたような言動も少なからずあった。
その彼女が、一歩踏み込んで来る。
エックハルトが一番触れて欲しくない、その場所に。
「貴方はどうして悪夢を望んでいるのですか?」
夢に見るのは根底にある感情。
強く刻まれた、心の痕。
記憶は一気に時を遡る。
田舎の、下級貴族の子に生まれたエックハルト。
父はすでになく、女男爵として領地を切り盛りしていた母様。
怖い夢を見て泣いている自分を、母様が優しく癒してくれた幼少時代。
辛いこともあったけれど、幸せだった。
しかしそれは突然終わりを迎える。
自分は養子に出されたのだ。
必要な事だったのだと自分に言い聞かせ、オークウッド家で励む日々。
悪夢を見ても、母様のおまじないで癒された。
数年後。義妹、続けて義弟が生まれる。
本格的に自分の存在意義を失ったエックハルトは愕然とした。しかし同時に、母様から呼び戻されるかもしれないという、淡い期待を抱く。――……が、それは、淡いまま消えた。
呼び戻しどころか、一度の手紙すら来なかったのだ。
何処にも居場所がない事を悟ったエックハルトは義父母が止めるのも聞かず、早々に騎士見習いとなり、オークウッド家を出る。
その後、騎士として領地を賜り、現在に至る。
――こんな話、良くあることじゃないか。
違う。
――これぐらいで、自分が傷つくわけがない。
嘘だ。
蓋をする。心の奥底で泣いている幼い自分を視界に入れず、厳重に。
「――これ以上傷つきたくないから、ですか?」
見透かしたように、言葉を紡ぐ彼女を睨みつけた。
「君に、何が分かる?」
「分からないわ」
「なら、干渉しないでくれ」
エックハルトは、ささくれ立った心のまま言葉を発する。一方で、大人げないと分かっているのに、謝罪を口にする事は出来なかった。
彼女が酷く傷ついた顔をした。
その表情を自分がさせたのだと思うと、胸がギリリと苦しくなった。
「……もう、ここには来ないから」
暴言を吐いた自覚も、逃げ出そうとしている自覚もある。
このままでいいのか。
散々つまらない話を聞かせておいて、彼女にこんな顔をさせてしまって。
名も聞けぬまま、逃げ出して、いいのか。
だがこれ以上ここにいて、蓋をこじ開けられてしまうのが一番怖かった。
立ち上がるエックハルト。
後ろ髪を引かれる思いのまま、鉛のようになった足を動かそうと力をいれる。――が、しかし。強引に腕を引かれてしまい、ベンチに逆戻りした。
「弱虫」
「はっ?」
「弱虫ったら弱虫!!」
彼女が手首を握ったまま、エックハルトの膝の上に手を置き、体重をかけてくる。
前のめりに迫って来る彼女に慄き、身体を後ろへと逸らした。
「どうして自分から動かないのよ!」
「そ、そんなこと、な……」
「『そんな事ない』じゃないでしょ! 全然、一ミリも動いてない!!」
違う。と否定しようとして。気が付く。
手紙が来たら返事を出そうとは思っていた。母様は忙しいから、手紙が来ないのも当然だと思っていた。
しかしエックハルトは、一度も自分から手紙を書いた事はなかった。
聞きたい事も、話したい事も。沢山、あったはずなのに、自分の中に巣食う感情が、筆を取る事を許さなかった。
だってもし、自分から手紙を書いたり、会いに行ったりして。
返事がなかったら?
邪険に扱われたら?
幼い自分がくしゃりと顔を歪め、こちらを見る。
真ん丸の瞳には大粒の涙。ふるふると揺れる雫が零れ落ちぬよう、瞬きすらも我慢して。必死に、耐えている。
エックハルトは叫ぶ。
泣くな、泣くな、泣くな!
心配いらない!
母様は忙しい。だから手紙が来ないだけだし、会い来れないだけ!
怖い夢を見れば、おまじないが癒してくれる。
遠く離れていても、母様は自分を守ってくれている。
それは大人になって、おまじないを使わなくなった今でも。ずっと、ずっと、ずっと。
怯える心に蓋をして。悪夢を望み、幸せな記憶に縋る。
自分は想われていたのだと。
決して邪魔で養子に出されただなんて――……そんな悲しい事は、ない。
「信じているなら、確認したっていいじゃない」
言われる通り、だと思う。でも。
「今更……もう」
震える声を絞り出し、過ぎた事だと伝える。
だって、そうじゃないか。
自分が養子に出されて十八年。
一度も会わず、手紙も出さず、届かず。
母様と過ごした年月よりも随分時間が経ち、エックハルトはとうに子供ではなくなった。
養子に出されてすぐなら、お元気ですかと手紙を書くことも出来た。
幼いころなら無邪気を装って訪ねる事も出来ただろう。
今は、その両方がなく。機会を完全に逸している。
そして何よりも。
本当は答えを――……察している。
「『今更もう、過ぎた事』。……起こってもいない現実に、勝手に終止符を打って。そうして、傷ついたまま、ずっと過ごしていくの?」
指摘が痛かった。
過去の優しさに縋って、察した現実に目をそむけ。そしてそれが、真実だと確かめる勇気はない。
ヒドイ臆病者だと思う。
教官の言う通り、自分は隊一番の臆病者なのだ。
だが、本当は。
「逃げずに、向き合いたい……」
何事からも。
義弟、義妹が生まれ、オークウッド家から逃げ出して。人相を気にして、王都から逃げ出して。
母様の優しさを信じていると言い聞かせ、真実を確かめる事から逃げて来た。
心の奥底にある蓋がガタガタと動き出す。
幼い自分が、心が。もう逃げたくない、隠れたくないと訴えている。
エックハルトは情けない思いで、顔を上げた。
彼女はこちらを真っすぐに見ていて。強い意思を宿した翡翠色の瞳に、情けない表情の自分が映り込む。
ぐっと、手を引かれた。
泣きっ面だった幼い自分も、大人になった自分も。
否応なしに手を引かれ、勝手に足が前に出る。
「ど、どこへ?」
「アンタが逃げて来たとこ」
逃げて来た所?
今から、母様の所へ……?
幼い自分が目を見開き、大人になった自分は慌てる。
「ちょ、ちょっと待っ……」
「逃げたくないんでしょ? だったら、連れて行ってあげる」
「だからって、急にハンセルには……!!」
「ハンセルね。ちょっと遠いけど、まあ、付き合ってあげるわ」
「え、ええ!?」
何がどうして、こうなった!?
未だ名前すら聞けていない彼女に主導権を奪われ、エックハルトは叫ぶ。
「俺はアスカムに戻らないといけないんだ!」
「ハンセル経由で帰ればいいじゃない」
「経由って、逆方向じゃないか!!」
「細かい事は気にしない」
どっかの誰かを垣間見るセリフに眩暈を覚える。
どうして、自分の周りには、こう……
「類は友を呼ぶ……」
「ちょっと。聞こえたわよ」
ギロリと彼女がこちらを見る。
その瞳は「これ以上言ったら、ぶっ飛ばすわよ」と、言っている様に見え。想像した言葉が、今までの口調と全く違う事に気が付く。
それは面白いほどに強気で、乱暴。
最初の柔らかな雰囲気は何処へ行ってしまったのだろうと思う。
しかし、エックハルトはそれを口にしない。
こういう場合、言ったら最後。
猫すらかぶってもらえない事は、義妹で重々承知しているからだ。
「なあ、君」
くつくつと笑いが込み上げてくるのを堪え、強引な彼女を呼びとめる。
面白い。泣きっ面だった幼い自分が、広がった世界に目を白黒させている。
「なによ?」
「名前、聞いても良い?」
握られていた手首を捻り、手を握る。
自分が逃げ出さないように。彼女を逃がさないように。
心に抱いた気持ちが何か分かる前に、エックハルトは目の前の女性を捕える。
彼女が目を見開いた。
慌てて握り合っていた手首をブンブン振るが、離れないと分かると、そっぽを向く。良く見れば、ほんのり顔が赤く染まっている気がする。
「い、今更!! もう、領地に帰るクセに!!」
「帰るけど、今更、過ぎた事じゃない。まだ、俺は帰っていないだろ?」
しれっと、言ってやれば彼女は口をパクパクさせている。
自分が言った言葉で、すぐ攻められるとは思っていなかったのだろう。
強気で粗野な物言いは、年頃の女性としてマズイのかもしれない。
だけどそれは、よそよそしい態度よりよっぽど好意的に見え。可愛らしいエプロンドレスとのギャップも相まって、彼女を魅力的にさせた。
エックハルトはそんな彼女を可愛いと思いながら、目を細めて笑う。
「このままじゃ君、『アルフレアの女神』って名前になるよ?」
「はぁ!? 何それ!?」
「嫌なら教えて」
「というか、そのこっ恥ずかしい呼び名は、今まで使われていたわけ!?」
「苦情はアルバティス様まで」
「あーいーつー!! 今度会ったらただじゃおかないっ!!」
アルフレアの花壇通りに女神の声が響く。
そんな彼女の名前を知るのは、面白がって「女神」を連発するエックハルトの口を両手で塞いできた、すぐ後の事――
【第一章 アルフレアの女神編 おしまい】
このお話で一章がおしまいです。
一旦、投稿は終わりますが二章の予定はあります。
またお暇がありましたら見に来て下さいね(*^_^*)
お読みいただきましてありがとうございました(*^_^*)