3.アルフレアの女神
エックハルトは指示された通りへと向かった。
現在歩いている場所は目抜き通り。
商いが行われているこの通りでは、日暮れになる前に商品を出来るだけ売ってしまおうと、店主たちが声を張り上げていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
道行く人もその声に足を止め、店主と会話をする。商談の始まりだ。
人と物は中央に集まる。
それは常であり、王都はいつ歩いてもにぎやかだった。
こういった場所では通常、人の波をかわしながら歩かねばならない。よって、目的地に到着するまで時間がかかってしまうものだ。
ただしエックハルトは例外であった。
道行く人は彼の顔を見ると、目を泳がせた後、スススッと道を開けてしまう。
――だから人ごみは嫌なんだ。
覚悟していた事とはいえ、歩くだけで人々の塊が裂けてゆく様子は、楽を通り越して切なく。ベンチに腰かければ、半径三メートル以内に人っ子一人、猫一匹すら現れない。悲しすぎる。
ここに来るまで、エックハルトは努力した。
たとえば、眉間のしわが見えない様、額に手を当ててみたり。
正面から顔が見えない様、横を向いて歩いてみたり。
あとは口元を隠してみたりなど。
けれどもすれ違う人々は、決して自分に道を譲らせてはくれなかった。
――そんなに俺の顔は怖いのだろうか。
エックハルトは屋敷に戻った後、笑顔の練習でもしようかと思った。
もちろん自室で、きちんと鍵をかけて。
……練習風景を想像して、自分でもちょっと引いた。
以前、ふと微笑んでみた時、通りすがりの新人メイドが倒れた。
窓越しにその顔が見えてしまったらしく、素の不機嫌面より、作り笑いの方が怖いのだと知る、衝撃的な事件であった。
結構傷ついた。
いくら怖いと言っても、そこまでなのかと。
それ以来、笑みなど浮かべないようにしている。
思い出した苦い記憶で、ますます眉間にシワが寄った。
そもそもこんな状況で、目当ての人は来てくれるのだろうか。
まずもって、約束をしている訳じゃない。
自然と人の波が割れていく程のこの顔に、初対面の人間が語りかけてくるとは思えない。
「……帰ろう」
アルバティスには会えなかったとでも言えばいいだろう。
探しもせず、早々に帰る事に対して罪悪感を覚えつつも。こればかりは仕方がないと、自分に言い聞かせる。
意図せず、長く息を吐いた。
腹の底から出た溜息は、諦めと落胆の色が濃く、嘘を吐く後ろめたさも相まって、エックハルトを憂鬱にさせる。……本当は、自分も件の女神に会ってみたかったのだと、痛感した。
「――あの」
声を拾った。
まさか。
自分にかけられた声だろうか。
跳ねた心臓を掴みたい気持ちを抑え、呼吸が乱れないように注意する。
エックハルトは混乱していた。
ここ数年、仲介なし、且つ、初対面の人から、声をかけられる事はなかった。しかも相手は――……女性。
「あの……騎士様?」
控え目に、でもハッキリとした声が聞こえてくる。
エックハルトは周囲を見回し、騎士が自分だけである事を確認した上で、「……私ですか?」と、顔をほんの少しだけ動かし、返事をする。
「はい、騎士様。――差し出がましいようですが、憂いを帯びた表情をされていたので、如何なされたのかな? と」
絶句した。
自分の顔を見た上で、わざわざ声をかけてくれる女性が。まだ、この世にいたなんて。
感動やら興奮やらで震える身体を落ち着かせ、もう少しだけその声の聞こえる方へ顔を向ける。
見えたのは茶色い髪。
卵を塗って焼いた、パンの色。
ふんわりとした優しい香りが漂ってきそうだった。
――が、次の瞬間。そんな綿あめのような妄想が吹き飛ぶ。
「すっごい、年季が入ったシワ!!」
可憐な女性からは想像できない暴言が、ガラスハートに突き刺さった。
ここ何年も初対面の女性に話しかけられた事のなかったエックハルト。
彼にとって、顔を見た上で声をかけてくれた事実は、天にも舞い昇るほど嬉しかったのに、二言目には一番のコンプレックスをなんの捻りもなくグサリ。初見で妄想した分、傷は深かった。
「み、みんな、優しさをどこかに置き忘れている……」
世間的にはどうか知らないが、優しさという温かな贈り物は、自分の周りだけすでに廃品回収へと出されたのではないかと思う。回収業者頑張り過ぎ。今、エックハルトが求めるモノは、一に優しさ。二に優しさ。三四がなくて、五に優しさであった。
世の中の理不尽さに心の涙を流しつつも、エックハルトは膝を折らず天を仰いだ。
その間も、とどめを刺した女性は「騎士様は苦労性なのかな」とか「んーまだ若いのに」とか、好き勝手言っているが、すでに返事をする余力は残っていない。そんな公園に生える、品種違いの木になり変わっているにも関わらず、女性はエックハルトの傍を離れない。
「ねえ、騎士様。お名前は何ておっしゃるんですか?」
「……エックハルト」
「エックハルト様――……ハル様ですね!」
慣れない愛称呼びに、ギョッとして女性を見る。
クルリとした翡翠色の瞳に、頬を掠める茶色い髪。
片方だけ横髪を耳にかけ、花をあしらった髪留めで止めている。
服は、所謂エプロンドレスと思われる。
『思われる』と表現するのは、エックハルトは女性の服に詳しくはないので、メイドのお仕着せと似たものはすべてエプロンドレスだと思っているからだ。
「ハル様! 是非、私に悩みをお聞かせ下さい!」
小柄な女性がぐるぐると自分の周りをうろつく様は、まるで拾う気のない子犬に懐かれた気分だった。
だが、悪くない。
エプロンドレスという服装と貴族女性としてはあり得ない髪の短さは、彼女が一般人である事を物語っている。だけど、自身も大した身分を持たない騎士だ。畏まられるのも性分に合わないし、失礼な基準で言えばアルバティスの方が振り切れている。
「聞いても、つまらないと思いますよ?」
「あら? つまるか、つまらないかを決めるのは私ですよ?」
――悩みを聞きたがるなんて、ヘンな女性だ。
そんな彼女から香って来るのは焼き立てのパンの香り。
今更ながら初見の印象は、そのまま彼女から香っていたのだと気がついた。
エックハルトは、ぽつぽつと話を始める。
他人が聞けば本当につまらない愚痴も、いつの間にか深くなっていたシワの事も。そうして幼い頃から見る悪い夢の事も。
他力本願なのか、はけ口が欲しいのか。
エックハルトは強引に踏み込んで来る人に弱かった。
そして何よりも、二人の周りには誰もいない。
だからこそ、いつもより饒舌に、話したら笑い飛ばされてしまうような話もしてしまう。
「……この夢をバクにあげます」
「え?」
「聞いた事ないですか? 悪い夢を見た時のおまじない」
まさかこんな形で聞く事になろうとは。
エックハルトは返事が出来なかった。なんて答えたらいいか、頭に思い浮かばなかったからだ。
彼女はそんなエックハルトの様子には頓着せず、「私が生まれた街で、有名なおまじないです」と、ニコリと笑った。
「夢から覚めた時に唱えると効果があるって、みんな言ってましたよ」
「そ、そうか……」
なんとなく、自分だけのおまじないだと思い込んでいたエックハルトは少し残念に思った。
それでも彼の街では日常的に使われていて、このおまじないを使うのはきっと仲の良い母子だろうと思えば、自然と笑みが浮かんでくる。
「――今度、夢見が悪かったら試してみるよ」
彼女は目を細めて「――是非」と、笑った。
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