愛だけを君にあげる
「西田さんったらね、昨日もシフト入ってたのに来なくてさー、そういうの困るんだよね。しわ寄せ全部私に来るし……自分の仕事くらいちゃんとやれって感じだよね」
「そっか、それは大変だったね」
「ほんと大変!」
ため息をついて、彼女はカプチーノを一口飲む。そうやって俺以外の名前を口にするくらいなら上の唇と下の唇を縫い合わせてあげたいと思ったけれど、それを実行したら、彼女の大好きなカプチーノは、二度と彼女の口に入らなくなってしまう。そうしたら彼女はきっと悲しむ。だからやめよう。三十秒くらいで考えをまとめて、俺はアイスコーヒーを一口飲む。彼女が気に入っている喫茶店だけあって、なかなか美味しい。今度一人でも来てみようと思った。
今日はとてもいい天気の日で、それなのに何も予定がなかった。ぽっかりと空いてしまった休日、どうしようかな、とぼんやりしていたところに、彼女からのメールが来たのだ。どこかに出かけないかと。それが三時間くらい前の話で、待ち合わせたのは二時間くらい前。いくつか彼女の買い物に付き合ってからここにきた。なかなかに、いい日だ。家でただぼんやりしているよりも余程いい時間の使い方をしている。
ふと、カップを持つ彼女の手を見ると、右手の人差指に見たことのない指輪が光っていた。シルバーで、小さくハートが彫り込まれている。彼女の細い指に、それはよく似合っていた。二週間前に会った時には、そんな指輪はしていなかったし、新しい指輪を買ったという話もしていなかった。自分で買ったのだろうか、それならいい。そうではなくて、もしも俺の知らない誰かにプレゼントされたのだとしたら、その人差指を切り落としてあげたいと思った。けれどそれを実行したら、彼女と手を繋ぐことが、少し難しくなってしまう。そうしたら彼女はきっと悲しむ。だからやめよう。
でも結論を出す前に、確認をしなくては。俺の推測だけで決断してはいけない。
「ねえ、その指輪、見たことないよね」
「え?ああ、これ?この前、先週だったかな、バイト代入った日に買ったの。どうかな?」
「すごく似合ってるよ」
「ほんとに?ありがと」
彼女は嬉しそうに、にっこり微笑む。とても綺麗で、可愛い。こんなに可愛い人が、俺の彼女なんて、何だか嘘みたいだ。付き合ってもうすぐ一年になるけれど、時々とても不安になる。これはもしかしたら、壮大なドッキリなのではないかと。もちろん、そんなドッキリを俺に仕掛けたところで何の意味もないし、そもそもこれはドッキリなどではないのだけれど。
彼女はカプチーノをカップに半分ほど残して、今度はチョコレートケーキを食べ始めた。美味しい、と彼女はまた微笑む。やっぱり可愛い。彼女の笑顔は本当に魅力的だ。
ここのケーキはどれを食べても美味しい、と彼女は嬉しそうに俺に言った。そう言うのなら、俺は何度だってここに連れてきてあげようと決めた。
窓の外を眺めながら、彼女はケーキを頬張る。まるで絵に描いたような、とても美しい光景だった。こんなにも美しいものが手を伸ばせば触れられる距離にあるなんて、何度考えても、信じられなかった。きっとこれは奇跡なんだろう。そうじゃなきゃ、こんな幸せが俺の近くにあるはずがないのだから。
腕時計は、三時を指している。まだ時間がたくさんあるけれど、これからどうするかはまだ決まっていなかった。彼女がチョコレートケーキを食べ終わり、カプチーノも飲み終わった頃を見計らって、俺は声をかける。彼女の行きたいところに連れて行ってあげたかった。
「このあと、どうする?どこか行きたいところとかある?」
「んー……、あ、そうだ、私、映画観たいと思ってたんだ」
「映画?」
「そう。あのね、タイトル何だったかな……ほら、私が好きなさ、柳田さんって俳優いるでしょ?あの人が主演のやつ」
「なんだっけ、……ごめん、俺あんまりそういうの詳しくないから」
映画館行けばわかるよ、と彼女は笑った。じゃあ行ってみようか、と俺は返して、二人で喫茶店を出る。
俺は、その柳田という男を知らない。彼女の口から名前を聞いたことはあるような気がするけれど、顔は全然浮かばない。どんな顔をしているのかはわからないけれど、俺以外の顔が彼女の目に映っているのなら、彼女の瞳を潰してあげたいと思った。でもそれを実行したら、彼女の瞳はもう二度と青空を映すことが出来ない。彼女は、真っ青な空が大好きだから、きっととても悲しむ。だからやめよう。俺は彼女が悲しむことはしたくないんだ。
彼女の手がそっと俺の手を握る。指が細いから、強く握ったら折れてしまいそうだ。そっと握り返して、近くの映画館へ向かう。
なかなかに賑わっている映画館は、ポップコーンの匂いでいっぱいだった。彼女は一枚のポスターに駆け寄っていく。どうやらお目当ての映画を見つけたらしい。俺じゃない何かのために走るくらいなら、その脚を切断してあげたいと思ったけれど、そんなことをしたら彼女は、お気に入りのブルーのハイヒールが履けなくなってしまう。そうしたら彼女はきっと悲しむ。だから俺は、彼女の後を追いかけるだけにした。
「この映画?」
「そう!柳田さん、ほんとにかっこいいよね!」
「……そうかなあ、俺にはよくわかんないけど」
「えー?……まあいいや、ね、見よう?」
わかった、と返事をしてチケットを買いに向かう。並んでいる間もポスターの中の柳田という男を眺めてはみたけれど、やっぱり魅力はわからない。彼女はずっと柳田という男の魅力を話し続けていた。顔もいいけど、声がとてもかっこいいのだと。俺以外の声を真剣に聞くくらいなら鼓膜を破ってあげたいとも思うけれど、そうしたら彼女は、ピアノを弾くことが出来なくなってしまう。彼女はピアノを弾くのが好きで、クラシックも好きだから、きっと悲しむだろう。だからやめよう、と俺はなんとか自分を止める。
彼女の声はとても綺麗だけれど、あまり俺以外の男の話をされるのも少し腹立たしいので、それならあのポスターを燃やしてしまおうかと思ったのだけれど、俺は喫煙者ではないからライターを持っていなかった。だからこの計画は断念せざるを得ない。
恋愛映画、らしい。俺にはやはりよくわからない。有名な少女マンガの実写化なのだとかなんとか。だから何だと言ってしまえばそれまでなのだが、彼女が見たいというなら面白いのだろう。二人分のチケットを買って、それからポップコーンとコーラを二つ買った。
シアターに入ると、満席に近かった。なるほど、確かにあの柳田という俳優は人気があるらしい。女性客ばかりだ。自分たちの席を見つけて座ると、すぐに何本かの予告が流れ始めた。いいタイミングで入れたらしい。
三本目の予告で、彼女がそっと囁いた。この映画も面白そうだから、今度見に行こう、と。そうだね、と返して笑うと、彼女も笑った気配がした。
これで、今度、ができた。俺はいつも怖い。じゃあこれで最後ね、そう言われるのではないかと。だって俺は彼女には不釣り合いだから。彼女はとても尊いから。俺はいつ捨てられたっておかしくないから。そんなことを告げられるくらいなら、その前に、彼女をどこかに閉じ込めてしまいたいくらいだ。彼女の家でも俺の家でもいい、とにかくそこから出られないようにして、俺と彼女しかいない世界の中で生きていてほしい。あるいは、彼女を消してしまってもいい。刺してもいいし首を絞めてもいいし何かを飲ませてもいい。今のご時世、方法はいくらでもあるのだから。でも俺は、そんなことはしない。できない。そんなことをしたら、彼女は悲しむことさえできなくなってしまうから。俺の欲求だけを彼女にぶつけるなんて、そんなことはしたくない。俺が苦しむ、それぐらいですむのなら、俺はいくらでも苦しむ。
だから俺は、彼女の唇を縫い合わせないし爪を剥がしたりしないし指を切断しないし髪の毛を燃やしたりしないし瞳を潰さないし脚を切断しないし鼓膜を破らないし手錠をかけないし閉じ込めないし彼女を消してしまったりもしない。これらの行為を我慢し続けることが、俺にとって、どれだけ苦痛だとしても。
だって俺は、彼女を愛しているから。
映画が始まって、彼女が褒めちぎっていた柳田という男が画面いっぱいに映る。彼女が褒めちぎっていた、柳田の声が聞こえる。俺にはやはりわからない。ただの男にしか見えない。でも彼女がそう言うのだから、きっと素敵な人なのだ、柳田という男は。だから俺が取るべき行動は一つ。俺は彼女の耳元に口を寄せた。
「かっこいいね、この、柳田さん」
「そうでしょ?」
彼女は小声で返してきた彼女は、笑っていた。
だから俺も笑うことができる。たとえ今この瞬間、画面いっぱいに映る、彼女に想われている柳田という男が許せなくて、今すぐにでもあの画面を粉々にしてやりたい衝動がすぐそこにあるとしても。
彼の本心を知らないままでいれば、このカップルはどこまでも普通で幸せそう。というのを心がけて書いてみましたが普通のカップルってなんだろうなと途中で思ってしまった。