第3話 「弟子入り」
――『遠国の魔女』。
数十年の時を経て尚、畏怖と共に語り継がれる、解放戦争の英雄の異名。
そう、確かに英雄には違いない。
彼女は、解放戦争を勝利に導いた、最大の功労者なのだから。
かの戦乱の果てに、マグナ王家の王統を正した人物。
カール三世陛下が、今玉座にあるのは、この魔女の存在あってのこと。
だが、この魔女の人物像は、英雄とはかけ離れたものだ。
その性、残忍にして、謀を好み、敵はおろか、多くの味方をも、破滅に追いやった危険人物でもあった。
更には、魔女の異名の由来となった、遠く東の国に伝わるという妖しげな業を用いたという。
その業を以て、多くの戦場で解放軍に勝利を齎した。
しかし、その業は、語るもおぞましいモノであったそうな。
カール三世陛下の父君である、悲運の王太子こと、コンラート殿下は、その魔女の危険性を承知の上、それでも致し方なくこれを重用したという。
全ては、大義のため。解放軍の勝利のために。そう、そのために魔女の悪性に目をつぶった。
結果として、勝利は得られた。しかし、その代償も大きかった。
まず、コンラート殿下を始め、多くの将兵が、魔女の餌食となった。
その上、魔女はまだ胎児であったカール三世陛下を王に推戴すると、自らが実権を握り、専横を恣にしたのだ。
解放戦争後も、長らく魔女の専横は続く。
幼き王の摂政として、政を取り仕切ると、私腹を肥やし、対立者を闇に葬り去っていった。
マグナ王国に、暗黒の時代が訪れたのである。
その闇を払ったのが、カール三世陛下だ。
十ニ歳の時に決起し、魔女を討たんと立ち上がった。
あと一歩の所で、その捕殺には失敗したが、魔女を王城から追放することに成功。
以降、カール三世陛下の親政が敷かれ、王国に平穏が訪れたのである。
正に、世紀の大悪人。それが、目の前の老婆だというのか……。
俺はごくりと、生唾を飲み込む。黙したままの俺に、老婆の声が掛かる。
「ふん。何を考えているか、容易に想像できるが……。そんな顔をするのはお止し。別に取って喰いやしない」
「ふふーん、食われなくても、呪いはかけられるかもね」
エルザが小馬鹿にしたように笑いながら、そんな言葉を付け足した。
冗談の積りかも知れないが、俺としては笑えない。
「……呪いは勘弁してもらいたいものだ」
やっとのことで、そんな言葉を返す。
「はっ。魔女に願い事かい? なら、契約書にサインでもするんだね」
「契約書? 魂を売り渡すとか、そんな内容じゃないだろうな?」
俺はお伽話では定番の、魔女との契約内容を口にする。
「それも悪くないが……。もっと、現実的な契約書さ。きっちり、謝礼金を払うと、そう書き記すだけでいい。額はいくらがいいものか? はて、将軍家の御曹司の命には、一体いくらの値が付くかね?」
そう言って、老婆は厭らしく笑う。
ああ、なんて厄介な契約だ。
謝礼金の額を、自分から提示しないのが、特に悪辣だ。
あんな言い回しをされては、とてもではないが端金を提示できない。
そうとも。将軍家の価値を、自ら下げる真似など、どうしてできようか?
「金額面の交渉は後で構わないだろうか? それより現状把握のために、色々聞きたいことがあるのだが?」
取り敢えず、具体的な金額交渉は避けて、現状把握に努めることにする。
そう気になるのは、祖国マグナ王国と、敵国フォルテミレス帝国との戦いの趨勢だ。
俺たち、別働隊は無様な敗戦を喫した。では、本軍の戦いはどうなったのだろう?
そういった思いから、老婆に問い掛けたのだが、返ってきたのはあんまりな言葉であった。
「ふむ、それなら情報料も貰わないといけないね」
「まだ、金を取る気か!?」
「当然だとも。情報は、時に金よりも重い価値を持つ。そんなことも理解できないとは……。まあ、いい。他でもない上客の頼みだ。特別に、タダで答えてやろう」
一々、人に恩を着せていく話術だ。
この老婆は、魔女ではあっても、商人では無い筈なのだが……。
凄腕の商人との交渉は、こういうものではないかと、そう思わせるような話しぶりだ。
正直疲れる。この手の交渉事には慣れていないのだが……。
それをどうして、病み上がりにしなくてはならないのか?
あの初陣といい、俺の運気は下がる一方のようだ。
「……一応、礼は言っておくとしよう。それで? マグナ王国と、フォルテミレス帝国の戦いはどうなったのだ? 我々の本軍が敵を打ち破ったか? それとも、決着が着かず終いだろうか?」
「決着は着いたよ。帝国の勝利という形でね」
「は? 何を言って……」
帝国の勝利? 何の冗談だ。
「間抜け面を晒すものではないよ。いづれ、人の上に立つのだ。如何なる時も、冷静を装えないと……」
「いや、待ってくれ! そんな小言はどうでもいい。今何と言った? 帝国が勝利したと……」
「そうとも。先の野戦は、帝国が勝利した。王国軍は大敗を喫したよ」
身を乗り出すように問い質す俺に対し、老婆は淡々と答える。
もっとも、その内容は口調とは裏腹に、穏やかならざるものだ。
「大敗? ……信じられない。勝敗は兵家の常だから、よしんば負けることがあっても……。大敗だと……?」
馬鹿な、そんな言葉が心中で繰り返される。
「そうさね。普通に戦えば、大敗することはなかったろう。……裏切りだ。戦場で裏切りが起き、混乱した王国軍は大敗を喫したのだ」
裏切り、その言葉にリデル伯爵の顔を思い出す。だが……。
「確かにリデル伯爵は裏切った。だが、伯爵一人が裏切ったところで、大勢に影響の出よう筈がない」
「違うよ、小僧。裏切ったのは、リデル伯爵一人ではない」
伯爵一人ではない? では、他にも裏切り者が?
「リデル伯爵、ハーカナ子爵、クック子爵、クレメンツ男爵、それに、リベルタース自由都市の騎士団。これら、東部諸侯が一斉に裏切ったのだ。フェロウ平原で、王国軍と帝国軍が矛を交えた、その瞬間に」
「なっ!?」
告げられた言葉に愕然とする。
何だ? 何があったらそんな事態に?
分からない。分からないが、そんな異常事態が起これば、最早、戦いどころではない。
本当なら、大敗したという言葉にも、当然だと頷ける。
「そ、それで、王国軍はどれほどの被害を出したのか?」
敗北したのが事実だとして、問題はどれほどの被害が出たかだ。
何とか、巻き返せる程度の被害に抑えられたのだろうか?
俺の質問に、老婆は即答しない。
嫌な予感がする。
大敗、老婆の告げたその言葉が、悪い予想を加速させる。
「……混乱の極致の中、小僧の父親が率いる第二軍は、友軍を逃すべく、殿を務めた。最後まで戦場に残り続けて戦ったのさ。その結果、第二軍は壊滅的損害を受けた」
「壊滅的、損害……?」
俺は呆然と鸚鵡返しする。
「ああ。そして、軍団長であるラザフォード大将、小僧の父親も戦死した」
「嘘だ!」
反射的に叫んでいた。
馬鹿な、あの父が? 偉大な将軍が? ……そんなの嘘に決まっている。
老婆の顔を見る。その黒い瞳を覗き込んだ。
しかし、その黒い瞳に、嘘を吐いた人間特有の色は窺えなかった。
本当……なのか?
俺は力なく項垂れる。
「……それで、父の決死の働きで、友軍は窮地から逃れ得たのか?」
どうかそうであってくれと、願う。願わずにはいられない。
そうでなければ、父の死も報われない。
「……第七軍を率いた、もう一人の大将、リリーは、ギュンター大将は逃れ得た」
「ギュンター大将は。は? ……では、誰が逃げ切れなかったと? まさか……」
そう、本軍には両大将以上の、最重要人物が軍を率いていた。しかし、そんなことは……。
「カールのクソガキだ。奴が逃げ切れなかった。帝国軍に捕まり、そして、既に首を落とされたらしい」
「ああ……」
思わず呻き声が漏れる。俯いた顔を両手で覆った。
そんな俺に、更なる追い打ちの様な言葉が続く。
「マグナ王と、七将家当主の首級、この二つが同時に挙げられるなど、解放戦争以来か。……帝国の連中は、本拠と定めたリベルタース自由都市の広場に、誇示するように、二つの首を晒しているとか」
王と、そして、父の首が……!
何故だ!? どうして、そんな!?
父が、どうして父が、そんな末路を迎えなければならぬ!
父が何をしたというのだ!?
決して、そんな末路を迎えてよい人物ではなかった!
閉じた瞼の裏に、父の背中が思い出される。
謹厳実直の士、悪く言えば、無口で、堅物なきらいもあったろう。
だが、将軍としての務めを、粛々とこなしていくその背中は、口の代わりに、雄弁に語っていた。
――将軍たるもの、かくあるべしと。
そう、偉大な軍人だった。
ただ、その反面、家庭的な人ではなかったかもしれない。
遊んでもらったことも数える程だし、優しくされたことなど、あっただろうか?
常に厳しく接してくる、厳格な父だった。
幼少時代は、そんな父が正直怖かった。
でも、それでも、父は俺の誇りだった。
いつか、父の様な立派な将軍になりたいと、その背中を追い続けた。
それに、今では、父が俺を愛してくれていたことも知っている。
『――若に戦功を立てさせようという親心でしょう』
ヤン軍曹の言葉が思い起こされる。
なんて不器用な。ああ、父上……。
……許せない。許せる筈もない。父を討ち、その首を晒した帝国軍。いや、それよりも……!
「何故だ? 何故、東部諸侯は裏切った?」
両手を下ろし、顔を上げると、地を這う様な低い声で問い掛けた。
ああ、これ程までに、他者を憎んだことがあったろうか?
俺のそんな様子に、『ひっ』と、エルザが小さく悲鳴を上げた。
ただ、それとは対照的に、老婆は笑みを深くする。
「……良い目だ。暗く、鈍く、光る目。復讐者の目だ。ふふ、少しは小マシな目をするようになったじゃないか。貴族のボンボンの阿呆な目より、ずっと好ましい」
「御託はいい。何故、連中は裏切ったんだ?」
「ふん、簡単なことさ」
老婆は、鼻を鳴らすと滔々と語り出した。
マグナ王国東部。
その一帯は、土壌が貧しく、あまり作物が採れない地であった。
また、その代わりとなるような、特産物があるわけでもない。
故に、マグナ王国で、最も貧しい地域は、東部一帯であった。
それだけに、マグナ王国東部では、中央や、他の地域に対する、潜在的な不満や、妬みが、古くから積っていたらしい。
決定的だったのは、二年前の記録的な大雨による水害。
唯でさえ、収獲量の少ない作物を、悉く駄目にしてしまった。
カール三世陛下も、その際には、援助金を東部に出してはいた。
だが、東部の人たちにとっては、とてもではないが、十分な援助と呼べるものではなかったらしい。
足りない援助、どん底の貧しい日々。益々不満は募っていった。
「……その不満に付け込まれたのさ。そこまで不満を貯めさせた不始末。更に、調略を許し、気付きもしなかった脇の甘さ。カールの王としての失政が原因だね」
老婆の言葉に、俺は拳を強く握り締めた。
「だからといって、祖国を裏切っていい筈がない! 王の失政? 確かにそれもあるだろう! でも……! 裏切りは卑劣だ! そんな卑劣さのせいで、王が討たれるまでの事態になってよい筈が……!」
激昂する俺を、老婆は冷たい眼差しで見据える。
「卑劣さのせいで王が討たれた? それは間違いだよ、小僧」
「――? 何が間違っていると?」
「ふむ。そうさな、軍人である小僧に分かりやすく説明するには。……軍で不始末が起こったとしよう、その責任は、最終的に誰のものだい?」
俺は老婆の問いに、即座に答えを出す。
「……それは、将軍だ。軍で起こったことは、軍の最上位者である将軍に、最終的な責任はあるだろう」
「そうだね。ならば、国も同じこと。王の首は、誰かのせいで落ちたりしない。自らの行いの報いによって落ちるのさ」
――『まあ、ある本の受け売りだけどねぇ』なんて、嘯く老婆。
俺は、ぎしりと歯噛みする。
「はあ。あのクソガキにも、小さい頃教えてやったのに……。別に、カールのことは可愛くなかったが、それでもコンラートの子だ。本当に、色々なことを教育してやった。だけど、それも全て無駄になってしまったか……」
老婆は初めて疲れたような表情を見せると、その目を閉じた。
「……陛下が、貴女の教えを遵守していれば、こうはならなかったと?」
「さて、どうだろうねえ」
老婆は気の無い返事をする。
「では、此度の敗戦の原因は? 王国軍は優秀な将に軍を統率させ、敵より多くの兵を集め、更にその兵は敵軍より精強でした。しかし負けた。今まで俺は、それらが戦の全てと信じて疑わなかった。でも、違うのですね?」
老婆は一つ頷いて見せる。
「そうだね。今回は、マグナ王国の脇の甘さを、帝国が見事な調略で衝いた。それが帝国の勝因だ。戦に、将兵の数、質は、確かに重要だ。だが、それだけでもない。戦術のみならず、戦略も重要さ。その点、調略により、戦う前に勝敗を決していた帝国は、王国よりも優れていたと言える」
淡々と紡がれる言葉には、深い、いや、深淵のような知性が感じられる。
これが、『遠国の魔女』。
悲運の王太子コンラート殿下が、危険を承知の上で、手許に置いた智恵者か。
俺は悲鳴を上げる体を無視して、姿勢を正すと、深々と頭を下げる。
「どうか、この愚昧に、魔女殿の英知を授けてはくれまいか?」
「ふん、何の為にだい?」
「危機に瀕した祖国を救うため。そして、怨敵を討つために」
「更に追加の金がいるねえ。教育代は、安くはないよ」
俺は顔を上げると、魔女の顔を正面から見据える。
「魔女殿の教えで、目的を果たしたなら。その後ならば。家財一式、全て投げ打っても構わない」
俺の言葉に、老婆は笑みを深くする。
「いいだろう。契約成立だ。望み通り、魔女たる私が、小僧に教えてやろう。我が祖国に伝わる“魔術”をね」
老婆、いや、我が師は、そのように告げられた。