もんだい3 はっせいへん
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探偵ごっこという言葉が良く出てきますが、子供の遊びというのはたびたび不条理で、かつ理不尽なものです。彼らはどこまでも残酷になれる上、自分たちの遊びに対してはあくなき探求心を持っていますので、巻き込まれてしまった大人はたまったものではありません。
中学一年生の木曽川一馬は大人になろうとしている子供ですが、まだまだ遊びたいざかりなので、楽しそうなことがあると「くだらない」と口では言いながらついつい深く関わってしまいます。そんな中途半端な子供を、他の子供達は絶対に許さないのです。
この小説に登場する人物はそのことごとく、稚拙で後先考えない上、自分達で完結して周囲に迷惑をかけることを何とも思わない子供ばかりです。はたして一馬の命運はいかに? ということで第三話です。今回もお付き合いください。
(★★★☆)
教室の鍵が盗まれたという噂を一馬が知ったのは、一時間目が終わったあとの休み時間でのことだった。
その日は遅刻ぎりぎりに登校していた一馬は知らなかったことだが、今朝は閉じっぱなしの扉の前で生徒達がごったがえしていたらしい。合鍵を持って現れた職員中村の手によって扉は開放され、その合鍵は今では室長の桐家の手にあった。その桐家にこの話を聞いたのだ。
「鍵なんか盗まれちゃって。ナマクラ先生は本当に部長の言ってたとおりの人だなぁ」
桐家は不適な笑みを浮かべてそんなことを言った。
「ナマクラ先生?」
「ああ。学校中の鍵を管理している人。生徒から鍵を盗まれちゃうくらい鈍らだから、中村じゃなくナマクラ先生」
「……」
ユニークだが酷い揶揄だった。子供らしい残酷さが滲み出ている。
「部長が言い出したんだよ。あの人、部ができた頃から部室の鍵を取りに行ってるから。最近は少しまともになったらしいんだけれど」
桐家は少しだけおかしそうに言う。
「昔はさ。誰か先生に確認を取っておけば、壁にかかっている鍵に自由に手が出せたんだって。今じゃ、先生の手によって生徒に渡されるようになっているけれど、だったら忍び込んで盗ってくれば良いだけの話じゃないか」
大人をバカにするのがよっぽど楽しいのだろう。半端に賢い子供の典型である。それが少しだけ鼻についた一馬は反論を試みる。
「生徒のことを信頼したんだろう?」
「信頼した結果がこれだよ。まったく間抜けなナマクラ先生だ」
けらけらと無邪気に嘲笑する桐家だった。なんだか憎めないその表情に、一馬は肩を竦めるしかない。
昨日の運動靴の一件にしてもそうなのだ。朝学校に来て最初に一馬は桐家を問い詰めた。それに対して桐家は人懐っこい表情であろうことか白を切るばかり。白を切るつもりなら名前を残さなければ良いものを。
その後も桐家は自分から一馬に話しかけて来た。よっぽど気に入られてしまったのだろうと一馬は考える。憂鬱しか浮かばない一馬だった。
「ところで、さっき中間考査の成績表が返って来たね」
桐家は無邪気に言った。一馬は嫌な気持ちになる。
「どうだった?」
なんと答えようかと一瞬考えて、何も答える必要はないと結論した。一馬はそっぽを向いて桐家から目を逸らす。それで察したのか、桐家は昨日読んだ小説とやらに話題を変えて来た。適当に合わせてやる。なんだか良く分からないが、それなりにコミュニケーションが成立してきていた。
一馬の中間考査の成績。それはあんまりなものと言えた。零点に近いというほどではないものの、遮二無二行った努力に見合った結果とは言いがたいものだった。得意の英語が学年平均点を僅かに上回る程度、他の科目も酷過ぎるというほどではないが、下から数えた方が遥かに早い。
『大切なのは点数じゃない』
成績表を渡す時、工藤は一馬に向かってそんなことを言ったものだ。
『昔の人が暇つぶしに書いた文章や、中学からはほとんど役に立たない内容になってくる数学、愚かな人類のまったく学ばない歴史。そんなものを覚えることに大した意味なんかないんだ』
ようするに工藤は一馬の成績が悪かったことを言いたいらしい。一馬は黙って話を聞いていた。
『義務教育っていうのはさ、遊んでばっかりの子供に、むかついた大人が作ったものなんだ。社会に役に立つことが何にもできないような子供にも、何らかの義務を与えるためにな。そして、やらなくちゃならないとされた努力をきちんとやるっていうのは、その子供が大人になった時に絶対に役に立つことだ。だから俺が思うには、こんな成績なんか実はどうでも良くて、努力したことそれ自体が結果なんじゃないかって』
そこで工藤は少し笑って
『ようするに何が言いたいのかっていうとだな。漫然と授業受けて、どうでも良いような知識を漫然と詰め込んでいるだけの他の連中と違って、努力したおまえは努力した分だけ、他のもっと大切なものを手に入れている。努力をした結果得た点数なら、例え十点だって誇って良いんだ』
結局のところ、あの新米教師の工藤は自分の前で格好をつけたかっただけのことだろう。とても大人が言ったこととは思えないその言い分に、一馬は実は少し呆れていた。だが最後の一言が一馬には少しうれしかった。
「聞いてるかい?」
桐家がそう一馬に問うて来た。しまった。ぼうっとしていた。
「このようにして、犯人は一年の間に百の密室で百の密室殺人事件を起こすことに成功した。これが昨日読んだ『密室卿伝説』のあらすじなのだけれど、君には犯人が分かったかな?」
「超能力で密室の外側から殺したんだろう?」
あまり荒唐無稽なあらすじに、一馬はついそんな皮肉を口にする。
「それはない。いいかい? 本格ミステリというのはだな、可能な限り解きがたいアイデアを、可能な限りフェアに描写した少説のことを言うんだ。だから明言されていない限りにおいて、魔法や超科学を登場させてはならないんだよ」
「じゃあ被害者全員の自作自演」
桐家は唇を手で覆い、目を見開いて驚きようを表現する。
「すごいや。まったくそのとおりだよ」
一馬は呆れてものが言えなくなった。
その日の最後の授業にあった集会において、一馬たちの校長先生は全校生徒の前で話をし、頭を大きく下げてからステージを去っていった。その間彼のはげ頭を隠すカツラは頭上で仕事を果たし続けた。
ミステリ研究会で予告されていた桐家達の悪戯が不発に終わったことで、内心僅かに気分を良くしていた。あいつらだって、全ての悪戯を器用に成功させている訳ではあるまい。
一日が終わり、ゆっくりと教室を出ると、教室を施錠する為に待ち構えていた桐家の姿があった。朝一番以外の教室の鍵の開け閉めは室長の勤めである。鍵を閉めると桐家は一馬に向かって手を振りながら、鍵を返しに職員室の方へと消えて行った。
それに気を取られていて、一馬は人とぶつかってしまった。制服の半袖から青白い肌を晒した背の高い少年だった。
「すいません」
横側から思い切りぶつかってしまったらしい。一馬は謝罪する。一馬は人一倍人と触れ合うのを良しとしない。ほとんどの場合、それは一種の失礼にあたると考えているのだ。ゆえに、人と接触するのは今日始めてのことである。細心の注意を払っていたのに。
「いえいえ。こちらこそ」
と言いながら振り向いた青白い顔の少年は、一馬に覚えのある人物だった。
「……ドラキュラ伯爵?」
「驚いてくれた人じゃないですか」
伯爵は嬉しそうにはにかんだ。
「やはり一組の方だったのですか」
「ああ。木曽川一馬だ」
そこで一馬は一馬なりに挨拶をする。このドラキュラ伯爵は一馬の中では好印象なのだ。
「どうもご親切に。こ僕は灰村輝と言います。一年六組です。よろしく」
言って、輝はにこやかにこちらに手を差し出した。はきはきとした声に、人懐っこい笑みに、一馬にとって必要な情報を掻い摘んだ分かりやすい自己紹介。一馬が迷わずその手を握り返した。西条の時とは大違いである。
「昨日は楽しかったです。良かったら、また見に来てください。いつもは演劇部の部室でやってますんで」
「いいね。俺も楽しかったよ」
一馬は迷わずそう返答する。そして一馬には聞かなければならないことがあった。
「ところでおまえ、灰村灯とはどういう関係?」
彼女は自分のクラスメイト、つまり輝と同じ一年生のはずだ。しかし西条は、この二人共を陽の血縁者だと言っている。
「彼女は僕の、双子の妹です」
輝は端的に説明した。まあそんなところだろう。
「姉さまから話は聞いていますよ。灯の遊びにつき合わされているそうですね。彼女は調子に乗ると手が付けられなくなりますから、注意した方が良いですよ」
「ああ。気をつける」
言いながら、一馬は少し面食らった。今時『姉さま』などと言う人間がいたなんて。
「ミステリ研に所属していると聞いたが?」
「ええ。姉と友人と三人で。俺は最近は演劇の方に凝ってしまって、なかなか参加できないんですけどね」
友人というのは桐家のことだろうか。確か西条は、陽、桐家、輝で三人組だと言っていた。
「色々やっててすごいな。俺なんて時間がない訳でもないのに帰宅部だから」
一馬は基本的に本音しか言わない。小学生の頃までならともかく、人を避ける習慣が付いた今となっては部活動などしたいとは思わない。しかしながら、自分の好きな分野においてあらゆる努力を行い、日々自らを鍛えているというのは素直に尊敬できる。二つの部活を同時にこなしているのなら尚更だ。
「部活の他にされていることがあるのでしょう」
輝は気を使ってそんなことを言ってくれた。しかし一馬は
「それが何もないんだ。家に帰ったら飯食って勉強してゲームして寝るだけ」
「勉学は学生の本分というではないですか。色々趣味があると、そっちがおろそかになってしまいがちで困るのですよ。お陰で勉強の成績では一向に灯に勝てません」
「あいつ、勉強はできるそうだな」
桐家から聞いた話だ。輝はそうなんですよと人懐っこく笑う。それは妹に良く似た笑みだった。
「同時に生まれて来た一卵性双生児なのに、いったい何が違うのか。何かコツがあるなら是非聞かせて欲しいものですよ」
輝は流暢に愚痴を言う。無意味な丁寧語についてそろそろ突っ込もうかというところで、口を挟む少女の姿があった。
「保健室登校だからじゃないの?」
「姉さま」
輝にそう呼ばれたのは他でもない、灯と輝の姉、ミステリ研究会の灰村陽である。
「教室での授業のやり方がヘボいのよ。保健室で自習のが効果があるって訳ね。良いわよね保健室で好きな時にペンを動かしたら学年トップクラス。探偵ごっこなんて始めちゃって、ガキかっつの」
それは人のことを言えないだろう。と思う一馬である。年齢的に考えると、悪戯三人組の中心はこいつだ。
「姉さま。それは言い過ぎというものですよ」
輝がやんわりと姉を制した。
「先生方はとても良くやってくれます」
「そぉかしら? それにしてはこの学校にはバカが多すぎると思うけどあたしなんかは?」
気だるげにそんなことを口にしながら、指先に自分の髪の毛を巻きつけている。髪が傷みそうである。癖なのだろうか? それにしては二つ結びにした髪は傷んだ様子もなく艶やかだ。何故だ。
「あんな授業のただの催眠音波にしか聞こえないわ。生徒の意欲を削ぐ光線を、わざわざ口から吐き出しているようなものよ。だいたいさ、教科書に綺麗に纏めてくれている内容を、わざわざ黒板に書いてノートに写させる意義が分からない。テストだって教科書のまんま出せば良いのにさ。それが解けるなら、教養はちゃんと付いてるってことになるでしょ? 教師なんて部屋の隅に突っ立って生徒の質問に答えてりゃ良いのよ」
子供のようなことをいう先輩だった。それに対して輝は
「流石は姉さまの意見。概ね共感ですね。しかし姉さま、それには多少の問題があります」
「何よ?」
「それでは先生が退屈です。給料ドロボーの上税金の無駄遣いです」
そして輝は一馬の方に「それでは。僕らこれから部活がありますので。また」と柔らかい物越しを見せてから歩き出す。陽は一馬に挨拶をすることもなく、従うようにその後ろを歩いた。弟と比べると無愛想だ。不機嫌な訳でもないだろうにやや吊り上った瞳をしているので、余計そう見える。
しかし今のは不可解だったな。一馬は少しそうだけそう感じた。二年生の校舎から、陽はわざわざ弟を迎えに来たのだろうか。随分と遠回りなことである。輝の方から陽の教室に寄るほうが何倍も効率的だ。全体的になんだか変な姉弟である。
そんなことを考えながら下駄箱から靴を取り出し、外へ出るとそこには一馬が今のところ一番会いたくなかった顔があった。
西条未明である。
先ほどの二人の部長に当たるその男は、貼り付けたような笑みを保ったままずっとそこに立っていたのだ。先ほどのやり取りも見ていたのだろう。だったら声をかけて繰れば良いものを、それをせずにひたすら観察に徹していたのだ。気味が悪い。
「やあやあ陽ちゃんと輝君に会えて楽しかったかい? あの二人は不気味な程仲がよくってね。特に陽ちゃんの方、弟への依存心がすごいんだよ。輝君もそれを分かっているみたいでね。ぼくが思うに、人間同士が一番仲良くなれるのは、打算と愛着を役割分担した時なんだ時なんじゃないか」
相変わらず中身のない主張を楽しくもなさそうに口にする奴である。不気味な上、うざったく、そして意味がない。
「何の用ですか?」
一馬は尋ねた。
「また土下座なんか始められたら蹴り飛ばしますよ」
「言うね。でも今回はそんなことはしないさ。君が望んでいないことを進んでやろうとは、あんまりちょっとそこまで思わないんでね。こないだやった時の反応は、かんばしいものじゃなかったし」
西条は表情を変えずに、声調を変えずに、棒立ちでおそらくは唇以外の全てを一度たりとも動かさずただ発声する。
「今回もね。灯ちゃんから伝言を授かって来たんだ。今から君に伝えるんだけれど、ぼくの役目はそこまでで、それ以上は何もない。だからこそ、可能な限り機械のように振舞おうと思ったのだけれど、やはり君との交流も捨てがたいものだ。ついついお喋りしてしまうよ」
失せろ。
「早く言ってください。彼女は何と言っていたんですか?」
「『保健室に来てくれ』だけれど?」
それだけを聞ければ良いのに、どうして自分はこんな戯言を長く聞かされなければならないのだろうか。一馬は嫌な気分になった。それを表情で察したのか、西条は肩を竦めて
「それじゃあ。ぼくはこれで部室に向かわせてもらうよ。ミステリ研究会のみんなが待っているからね。もっともみんながみんな、ぼくのことなんて知ったものかと自分の本を読んでいるのだけれどさ。それでもぼくがそこら中でこんな風に喋っていれば、余計な新人が来ないとそれだけは好評だよ。そんなミステリ研究会をよろしくね」
絶対に嫌だと思いながら、これ以上西条の相手をすることもなく背を向けた。
少し悩んだのだが、一馬は保健室に向かうことにした。
と言っても、実のところ教室に忘れ物をしたついでのことである。教室の鍵は閉まっているので、職員室まで鍵を取りに行かなければならないのだ。保健室は職員実の近くにあるのでついでで寄っていくことができ、またそこまで近くに来ておいて寄って行かないというのも、人の良い一馬には罪悪感を要することだった。
「来たわね。遅かったじゃない」
昨日と同じくシャーロックホームズに埋もれながら灯は言った。中学生風情がこの量をどこから調達して来るのだろう。西条が研究会の蔵書から与えているのだろうか?
「俺はすぐに向かったさ。西条の奴の話が妙に長くて」
「それにしてもよ。あの人あたしの願いを聞く為に授業サボったのよ?」
「どうやったらそんな風に人を扱うことができるのか、俺は深く興味があるね」
一馬にしては婉曲かつ増長な台詞だった。灯は少しだけ顔をしかめて。
「分かんないのはあたしよ。どうしてあそこまでほいほい言うこと聞くんだか?」
「まさか。惚れてるんじゃ」
からかうつもりでもなく一馬は言った。灯は顔だけは綺麗な女だと思うし、西条は自己紹介の時に好きなものを『素敵な女の子』と言っていた。
「そう思わせて気味悪がらせるのが目的なんじゃないの?」
灯はそうして自分の分析を語った。一馬は嫌な気持ちで
「なんだあの人は。変態なのか?」
「変態なんでしょ。研究会の人はみんな言うわ」
「その研究会の人っていうのは、おまえの姉貴とか兄貴なのか?」
一馬が言うと、灯は面食らったようにこちらを向き直った。いささかオーバーな素振りである。目をぱちくりさせて、何が何だか分からないという風に一馬の顔を覗き込み、動揺した声で
「知ってるの?」
「まあな」
一馬は答えた。
「知ってるんだ」
灯は顔を伏せる。これはなんだ? 一馬は分からない。こいつはもっと、自分じゃ何もできない癖に飄々とした、何も知らない子供みたいに堂々とした奴じゃなかったのか。
「おい、灰村」
一馬は自分でも驚くくらいに優しい声でそう呼びかけた。その自分の行為が一馬には意外だった。そうやって呼び掛ければ、いつものどおりの灯が戻って来るとでも、自分は思っているのだろうか。そしてそれを望んでいるとでも?
「いつ、会ったの?」
灯は訊いた。
「気味はいつ、あたしの兄弟の誰と会ったの?」
「誰って……」
一馬は一瞬、何も答えられなくなる。だが糾弾でもするようにこちらを見詰める灯のその表情に、急かされるように一馬は言葉を吐き出した。
「陽と、輝……って名前だよな? 会ったのは昨日で、ちゃんと話したのは、ついさっき」
「何か吹き込まれなかった?」
灯は鋭く目を剥いてこちらを覗き込んだ。尋常ならざるその様子に、一馬は今度こそ何も言えない。
灯は明らかに焦っていた。怯えて、震えて、完全に理性を欠いている。だがそうしてみると不思議なもので、ついさっきまではただのお子様のように見えていた灯が、自分と同じステージに上がってきたような感じがした。
彼女も自分と同じく、決して理解されることのない悩みや葛藤を抱え、時に理屈に合わない、奇矯で見苦しい振る舞いに準じてしまう一人の中学生だったのだ。その事実に、一馬は驚きと、一抹の安心感を覚える。そして少しだけ癪だった。
「なんのことだかな」
一馬は答える。ぶっきらぼうなもの言いは、裸の一馬に程近いものだった。
「あいつらの言うこと、全部でたらめだから」
灯は言い聞かせるようにそう口にする。
「信じちゃダメ。禄でもない人達よ」
「……知るか」
一馬は嘆息する。
「どうでも良いことだ。俺は今以上におまえの兄弟に付き合うつもりもない。何かを吹き込まれた感じもしない」
「あいつら、何て言ってた?」
「どうだったかな」
一馬は思い返そうと努力する。ついさっきのこととは言え、一回分の会話で得られる情報を全て思い出すのは、なかなか至難なことだった。
「例えばどんなことを言ってたらまずいんだ?」
「……あたしのこと」
灯は少しだけ俯いた。
「……なんて?」
「勉強の成績がどうのこうの」
「そんなこと。……なら良いわ」
灯は安心したように溜息を吐く。全身の力が抜けていくかのようだった。
一馬は間髪入れずに
「どうしたの? 何か弱みでも握られてんの?」
反撃にでも出るつもりでそんなことを言った。一馬はどうしても知りたくなったのだ。灯が抱えているものを、彼女がこれほど動揺したその理由を。
「当たらずとも、遠からずね」
灯は少し笑って
「ねぇ。君はあの二人と会って、どう感じた?」
一馬は少し考えて
「変な姉弟だなって」
「それを忘れないことね」
灯は肩を竦める。
「君はあたしのことを変な奴だって思うかもしれないけれど……でも世の中にはもっとすごいのがいるものよ? 周囲の世界ことなんて何一つ興味もなくて本当にどうでも良い、自分と自分の認めたものだけで完結しちゃってる人達が」
保健室を出てからも、一馬は考えていた。
灯のあの姉弟についての言いようは、自らの血縁者に対するものとしてはあんまりだったように思う。一般的な不仲な兄弟であれば、もう少し直接的な否定の言葉を吐き出すのではなかろうか。あの言い方ではまるで、陽や輝について話すことが、それすらも不愉快に感じているようではないか。
いや、不愉快というより、彼女は恐れているのだ。
自分の姉と、双子の兄のことを。
それが一馬には分からない。あの良く分からない姉弟のどこが恐ろしいというのだろう。いじめられでもしているのだろうか? あり得ることだが、だとしてもあの反応は尋常じゃない。
それに灯の探偵ごっこだ。ただ探偵遊びがしたいだけなら、陽と輝と桐家の悪戯三人組に加わって、好きなだけ事件を起こせば良いではないか。それを、犯人役の三人に対抗するかのような探偵役で、断固として保健室から出ようとせず自分を使って掻き回す。
「……あの時の桐家の行方、聞いておかなくて良かったのかな?」
一馬は昨日の出来事を思い出して、そう呟いた。実際にあった人物の消失トリックについて、灯に話してやれば喜んだのではなかろうか。
考えて、一馬は自嘲する。彼女を喜ばせて、何の得があるんだろう。
自分は一方的に呼び出され、探偵ごっこに付き合わされているのに過ぎない。所詮は他人だし、そうでなかったとしても関係のないことだ。人を殺してしまう夢にうなされるようになってからというもの、一馬には全ての世界と全ての人間が、どこかでは自分の敵になるように感じている。灰村灯とて例外ではない。
何にせよ、深入りはせぬことだ。
これ以上調子に乗らないほうが良い。もう三回も灯に呼び出されているのは、どこかで自分が気を抜いてしまったからに他ならない。もとより自分は頭が良い訳でもなければ、特別な能力を有している訳でもない。心がけ一つ間違えれば、一人きりの自分はこの化け物染みた世界に飲まれてしまう。今まで真っ当な中学生をやって来られたのは、ただ運が良かっただけだ。
「気をつけないとな」
一馬はそう一人ごちた。
だがしかし、その時にはもう既に手遅れだったのだ。
職員室に辿り着き、鍵を管理している職員中村を発見してから一馬は早速忘れ物をした旨を伝えた。明日まで待てと返って来た。
「どうしてですか?」
大人なら先に理由を説明するべきであるが、そんなことを思う前に一馬は尋ねた。中村は少し困ったような顔をして、あろうことかこんなことを口にする。
「一年一組の鍵がないんだ」
「はあ」
一馬は学校中の鍵が引っ掛けられたボードに視線をやる。中村の言うとおり、一年一組の鍵だけが消失していた。
「あれって合鍵でしょう?」
「そうなんだ。だからもう、すまないが一組の扉を開けることはできない。明日までに注文しておくから」
ナマクラ先生の汚名はそのとおりではないかな、と一馬は一瞬だけそう思った。
桐家はちゃんと鍵を返しに行っていたはずである。自分が見たのだから間違いない。つまり鍵はくすねられたのだ。盗難も二度目となると、生徒のことを信頼していたからでは中村の責任は免れない。
これ以上深入りすることもなく、一馬は納得した素振りを見せてから職員室を出た。その内教室で盗難事件の類でも起こるのではあるまいな、と一馬は考える。教室には貴重品を置かないようにしようと、一馬は戒めを新たにした。
しかし困ったものだ。一馬の忘れ物というのはとどのつまり一馬の鞄だった。いったいどうやったらそんなものを忘れられるのかという話ではあるが、幼い頃から一馬には間抜けたところがあり、こんなことはしょっちゅうだと言っても過言では無いほどなのである。
一馬は嘆息した。こんなことだから自分は付け入られるのだろう、と昔の経験と今の自分の状態を反芻しながら思う。こんな自分でこれからやっていけるのか? 等と自問することはしょっちゅうだ。
一馬は弱かった。
ほんの些細な逆境でも降り注げば、簡単に崩れてしまうほどに。
「やあやあ。木曽川君じゃないか」
背後から声をかけられた。振り返れば、西条がいた。
「げ」
はばかることもなく一馬は嫌悪感を露に声を出した。西条はそれに動じずにこりと笑う。この男の心が広いのではない、気を悪くするだけの感情がないのだ。
「灯ちゃんに付き合わされた感じだね。楽しかったかい?」
「いえ……」
嫌な気持ちの時に『楽しかったかい』は一番言われたくない台詞だ。一馬の表情を読んで、一馬が気を悪くするのを分かっていてそう言ったところがある。とことんまでに嫌な男だ。
「ところで一馬君、ぼくは今の今まで君のことを探していたんだが、その理由というのを聞いてはくれないものかい?」
妙な言い回しが鼻に付く。一馬は苛々しながらも、用があるならと
「……いいですよ」
と非常に嫌そうな顔をして言った。
「そうかい。それは嬉しいね。君からそんな風に肯定的な言葉を聞けるとは思わなかったよ。いやいや君のその連れない態度自体は嫌いじゃないのだけれどね。でもだからこそ嬉しいものさ。ところで一馬君聞いてくれるかな?」
妙に話がとんだものだな、と一馬は思う。さっさとその理由とやらを聞かせてはもらえないものだろうか。とは言え、この男の独自のペースに口を出すのは得策ではない。
「ぼくらって、生徒手帳を持っているじゃないか」
と、西条は自分の生徒手帳をぴらぴらとさせる。
「学校でもたびたび必要になるし、常に身に着けることが義務とされている。君だって当然持ち歩いていることだよね?」
「……そうですが」
「ところでこいつってさ。サイズ的にはちょうど胸ポケットに収まる程度なんだよね。本当にもう合わせたんじゃないかってぐらい。だから胸ポケットにこの生徒手帳を入れて置き、他のポケットには携帯電話やらメモ帳やら突っ込むのが一般的だね。君もその口かい?」
「……そうですが」
「そうかい。まあどうでも良いことだ、多分ね」
西条は表情を変えなかった。ただ肩を竦めて、目を瞑って首を振り
「どうでも良いこと、で済むことを願うよ」
そう口にした。
「今のはね。ぼくの友人でミステリ研究会でもっとも推理力のある根本という男が、君に訊いて来いって言ったことなんだ。まあ気にしないで」
言って、西条は自分の胸ポケットから何かを取り出して見せた。
「はいこれ。廊下で内の部員が拾ったものだ。君の生徒手帳だよ」
示されたそれは、確かに一馬の生徒手帳だった。
「……どうも」
訝しくそれを受け取る。落としてしまっていたのか……一馬は自嘲する。今日は随分と、散々失敗をやらかす日だ。それも、この西条に尻拭いの一端を担がせたのだから、屈辱的なものである。
生徒手帳を胸ポケットに入れる。
その時、一馬の指先に冷たい鉄の感触があった。
なんだこれは。知らぬ間にポケットに入っていたその物質を、一馬は指先で確かめる。そしてすぐにその正体が分かった。
これは鍵だ。
「木曽川君」
西条が名前を呼ぶ。
「……はい」
「それじゃあ」
西条は研究会の部室の方へと、一馬に背を向けた。その後姿が完全に見えなくなるのを待って、一馬は自分のポケットに入っていたその鍵を取り出す。
……これは、何の鍵だ?
いつからこんなものがポケットにあったのだろう。教室から出たタイミングでは持っていなかったはずだ。そして自分のポケットに何かを放り込めるタイミングがあるなら、放課後に生徒達が下駄箱に向かうタイミングしかない。それ以降、自分は誰ともぶつかっていないのだから。
一馬はふと思いついた。
そして走った。
一組の教室はここからそう遠くない。すぐにたどり着く。そして扉に鍵を差し込むと、気持ち良くそれは奥へと入って行った。
……なんてことだ。
一馬はゆっくりと扉を開ける。
鉄臭くそして苦く、どこか安心する匂いがそこにはあった。
一瞬、一馬は教室の中で起こっていることが分からなかった。窓ガラスが一つ割れており、割れ目の傍には赤い跡があった。あまり派手な割れ方ではない。猫がくぐれるかどうかといった程度であり、人間が出入りするにはあまりに不足だ。
いいや。そんなことはあまり重要ではない。一馬は教室内で最大の異常を放つその肉体に駆け寄った、ぴちゃぴちゃと、水溜りを進むような感触がある。生温い、一馬が足元を見ると、そこら中に飛び散った真っ赤な液体を踏み付けていた。
「……嘘だろ?」
思わず床に手を着く。赤い液体に触れる。それがどこから飛び散っているのか、考えるまでもない。
何故なら一馬の目の前には、四肢を切り落とされた工藤直治が横たわっているのだから。
上半身を裸にされ、背中は真っ赤に濡れていた。幾重にも刃物の傷が迸り、何らかの文字のように見えた。その両肩からは腕が欠損しており、腰からは足が欠損している。見れば、それらの全ては血溜まりの中に浮かんでいた。
一馬はふと、工藤の腕らしきものを血溜まりから拾い上げた。大きな腕だ。水泳の授業で溺れた時、自分はこの手に抱き上げられたのだった。等と場違いなことを思う。
そして気付いた。工藤のその手の中に、何やら銀色の物質が握られていることを。
……鍵?
まさかこれが教室の鍵ではあるまい。もしそうだとすれば、誰がこの教室の鍵を閉めたというのだ。この工藤の持っている鍵ともう一つ合鍵があるが、それは自分がずっと持っている。このポケットに鍵が放り込まれただろうタイミングから言って、工藤の持つ鍵は教室の鍵ではありえない。
死後硬直という奴だろうか。五本の指はしっかりと握られていて、簡単には引き抜けそうもない。
その時の一馬の頭は、完全に働いていなかったといって良い。許容範囲を超えた衝撃を受けた一馬の頭は、自分が工藤の死体に直面しているのだということにさえ繋がらす、幼子のように思いついた疑問を確かめるだけだった。
一馬は窓を見やる。全て鍵が閉まっている。割れた窓ガラスもそうだ。割れた隙間から腕を通して鍵を閉めるというのも、割れた位置が位置なので不可能だ。赤い跡が付いているのは血液だろうか。一馬は何とも無しに、工藤の生首を持ち上げた。頭にガラスの粉がついていて、誰かに殴られたように割れて、血が出た跡がある。となると、この割れた窓ガラスは工藤が頭をぶつけた跡だろう。
……?
そこで、一馬は随分と間抜けな気付き方をしたものだ。
……自分は工藤の頭部を持ち上げている。
……工藤の胴体は自分の足元にある。つまり、工藤の頭は工藤の体と離れていて。
それはつまり、工藤は既に死んでいるのではなかろうか。
一馬ははっとした。当たり前だ。こんな風にされて生きている人間はいない。いっこない。一馬は工藤の頭を取り落とす。赤い水溜りの中に落下した工藤の頭は、ぴちゃりと転がって上を向き、そこで一馬と目があった。
寒気がした。
この工藤のことは嫌いじゃなかった。だがしかし、頭と体が離れてしまうだけで、こんなに気持ち悪くなるなんて……。
一馬は鞄を引っ手繰って教室の外に出た。これは残しておくと、誰かが自分にそのことを問う。何故そうしたのかは分からないが、教室の鍵も閉めた。できる限り、現場を元の状態におかなければならないような気がした。
教室の外で、一馬はポケットの鍵を取り出した。
これが自分のポケットから見付かった理由。明らかだ。
「……ふざけんなよ」
一馬は何に対してというでもなくそう呟いた。そしてそれを誰が聞きとめる訳もない。
「……助けてくれよ」
誰も助けてくれやしない。
それは一馬が一番分かっていたことだ。
「ふざけんな!」
叫び、一馬は廊下を駆けた。ここにいてはまずい。今の自分の体のどこに血液が付着しているか、分かったものではない。それが見咎められればアウトだ。
鍵をポケットの中に入れられた理由。
明らかだ。
誰かが一馬を犯人に仕立てようとしている。
一馬にできることは、その何者かが潜んでいるかもしれぬ、この学校から一刻も早く逃げることだけだった。
何に助けを求めても無駄だ。その何かがおまえを疑う。
全てを話しても無駄だ。教室におまえはいくつも証拠を残して来た。鍵を持っているのがおまえ、現場に残った証拠がおまえでは、いくら釈明しても意味などない。
誰もおまえのことを疑わない義理などないのだから。
だから誰もかも、おまえの敵に回るだろう。
違いない。違いない。違いない。
誰かが、一馬にそう話しかけていた。
読了ありがとうございます。
しかし一馬君、疑心暗鬼もほどほどにね。まあ無理だろうけど。
細かい条件やヒントなどは次回に。この時点でも、一応推理はできるかもしれません(どうなんだろう)。前回の回答も次回以降となりますが、どうかご容赦ください。物語上、どうしてもそうならざるをえませんでした。申し訳ありません。
それでは。これからもお付き合いください、