もんだい2
二話目のアクセスありがとうございます。
いきなりものすごく妙なキャラが登場します。失笑と共に楽しんでくださればなと考えています。
それから今回から追加することにした要素が文章の冒頭にある(★)なのですが、これは作中の謎を解き明かす難易度を表しております。論理パズルとかなぞなぞとかに付いてくるこの難易度表示、自分も良く参考にするので、ちょっと真似したくなったのです。
白星☆は黒星★半個分ということで。(★★★☆)とか(★★★★★)とかは、作者的にもかなり自信のある問題だということです。なるだけフェアーなトリックを書きたいと思っておりますので、是非挑戦なさってみてください。
それでは。今回もおつきあいください。
(★☆)
工藤の車が紛失した日の翌日。もう遅刻はすまいと朝早めに登校した一馬を迎えたのは、すらりとした三年生が自分に向かって土下座をする姿であった。
あまり尋常な精神の持ち主ではないと判断し、一馬は最初は無視をして通り過ぎようと思った。しかし一度振り切ったところで、その変人は二度三度と一馬の元を訪れるだろうし、それも一馬の望むところではない。なので一馬が声をかけたのはしぶしぶだった。
「何の用ですか? とりあえず顔を上げてください」
変態土下座男は意外な程しゃきしゃきとした動きでその場を立ち上がり、一馬に向かって右手を開いて差し出した。握り替えせとでも言うのだろうか。この変態に対してそれを行えというのは、それは随分と残酷な要求であるように一馬には思われた。
「おはよう。君が木曽川君だね。ぼくは西条未明。未明は夜明け前の未明。肩書きはたくさんあるけれど、まずはそんなことをぼくが言う前にこの握手に応じてほしいんだ。それはぼくという個人の人格を無条件に認め、建設的な親交を約束するという印に他ならないのだからね」
西条と名乗った変態は端正な笑顔を浮かべて、そこまで一気に口にする。十センチ見上げる形に仰ぎ見たその表情は、貼り付けたようなという印象がふさわしい類の笑顔だった。
「……はぁ」
「それがお気に召さないというのであれば、差し出されたこの手を払い落とせば済むだけの話だよ。だけれどそれだとぼくは悲しい気持ちになるし、君は狭量ということになってしまうだろうね。それはお互いにとって建設的ではないだろうとぼくは思うよ。であれば、君にとって最善の選択はぼくのこの手を握り返すことだ。それをおすすめするよ」
流暢な発音は原稿を読み上げるかのごときものだった。一馬は困惑する。まるで、青春小説仕立てのホラーやミステリを、そうとは知らされずに読んでいるような気分であった。
「ふむ?」
一馬は少年の手を握らなかった。当たり前だ。こんな正体不明の男との間に、建設的な親交など約束できるものか。
「握り返してくれないのか。仕方がない。このように不躾に握手など求められ、それに応じるというのは警戒心の足りていない証拠でしかない。感心したよ。どうやら君は賢明な人間であるようだね。ぼくはそんな賢明な君に出会えて喜ばしく思う」
少年は表情を僅かも変えずに
「なら改めて自己紹介をするよ。ある程度ぼくという人間を知ってもらわなくちゃ、君だってぼくと仲良くしようと決められないはずだからね。ぼくは西条未明。未明は夜明け前の未明。三年六組の室長で出席番号は14番。生徒会の庶務でミステリ研究会の今年の部長で、好きな小説のジャンルはユーモアミステリで好きな作家は如月創介と木島利明。趣味は読書と部員との交友で好きなものはす素敵な女の子。将来の夢は……」
「それでそのミステリ研の代表が、俺に何の用ですか? 土下座までして」
このまま放っておけばどれだけ自己紹介を続けるのかも分からないので、一馬はそうして西条の台詞を切って捨てた。西条は相変わらず表情を変えていない。だがしかし、一馬には西条が自分をおもしろがっているように思えた。このように奇天烈な振る舞いはこちらの出方をうかがう為ではなかろうか。まあ、素でこうだという可能性もあるにはあるが。
「ああそれだね。いいやすまないね。君にだって、時間が無限にある訳じゃないんだ。ぼくのように矮小な中学生の自己紹介など、真剣に聞いてくれる道理はない訳だ。いいや気を悪くしないでおくれよ。ぼくは謝っているんだ」
……ぼくは謝っているんだ……こんな台詞が良くもこう流暢に飛び出すものである。一馬はむしろ感心したくなった。
「それじゃあ用件を言うよ。本日ぼくが土下座をするほどの誠意を持って君に頼みたかったことは、これから保健室に来てくれないかというものだ」
一馬は少しだけ目を大きくした。
西条はどこに向けているやも知れぬ微笑を浮かべる。
「建設的な関係を結べないのは残念だ。しかし、お願いくらい聞いてくれないかな? それができないのであれば、それも仕方がない。まずは仲良くなってということだ」
童話の一説を諳んじてみせるように演技がかったその言い方に、一馬は西条という人間を少しだけ理解した。
こいつ、とんでもなく嫌な奴だ。
それから一馬は西条に連れられて保健室に向かっていた。決して自分から行きたかった訳ではないが、室長で庶務で研究会の長の西条に土下座までされたのだから、仕方がない。だがしかしそれ以上に、これを断りでもすればこれから西条に付きまとわれそうな気がしたのが大きな理由だ。
「着いたね」
西条がわざわざ口に出してそんなことを言った。
「それじゃあぼくはこれで帰らせていただくよ。中の女の子なんだがね、ぼくのことがお気に召さないらしくって、ぼくが中にいるだけで一言も喋らなくなるんだ。何日も何週間も粘り続けて、ようやく聞けた一言が『人呼んで来い五分以内』なんだから、我ながら哀れを誘う話だと思わないかい?」
ざまあみろとしか思えない。
とにかくこれで西条はいなくなった。機械のように正確な足取りで、しゃかしゃかと廊下を引き返していったのだ。だが油断はできない。あの男のことだから、どこかの物陰からでもこちらを覗き込んでいないとでも限らないだろう。なので一馬はおとなしく保健室にお邪魔することにした。ミステリ好きの人間はおかしい、できれば名探偵よりも優先して回避していきたい。
「あらおはよう」
保健室では名探偵……灰村灯がベッドで本を読んでいた。シャーロックホームズの単行本をベッドの上に散らかしているのを見て、そこで一馬は尋ねた。
「いつからそれに影響されているんだ?」
「おとといよ」
灯は言った。
「とにかく。あの西条はしばらく出てこないと思うわ。出てきたとしても、そこまで干渉をしてこないでしょうね。そこは安心してほしいの」
「そうであってほしいよ」
一馬は苦笑いした。
「変な人がいるんだな」
「これでもあたしにホームズを教えてくれたのよ。でもなきゃ杖でしたたか殴ってるところ」
「そうしちゃえばよいんだよ」
「あなた。よっぽど西条を嫌っているようね」
灯はくすくすと笑った。一馬はベットの傍のパイプ椅子に腰掛けて、灯の言葉を待つ。適当に相手をして適当に帰ってしまうつもりだ。
「見て来てくれた?」
「ああ」
一馬は言った。
「中庭には行ったさ。工藤の車がなくなったことだろう、大方どういうことなのかは俺も分かったよ」
「あら君ってすごいんだ」
灯は感心したように言った。
「それで? 中庭には何があったの?」
「当ててみろよ」
一馬は挑発するように言った。
灯はすぐに答える。
「先生の車」
つい一馬は感心した様子を表情に表してしまう。それに気づいて、灯は誇らしげに笑った。満点を見せびらかす子供のようなあどけない笑みで、謎を解き明かす名探偵のものとは程遠い。
「もし何か悪戯とかされてたら、十全だね。あたしの思ったとおりってことになる」
「痛いアニメキャラのペイントが施されていたよ。ペイントと言っても、ただのシールなんだけれどね。そこら中に張り巡らされていて、しかもナンバープレートまで変わってた。だから車をその目で見てもそれが工藤の車だとは思えない」
「ユニークじゃない。そんなすごい悪戯をしたのは誰?」
「さあ分からない。でも知っているんじゃないか?」
その言葉が口をついて出て来た時、一馬は自分に対して意外な気分になった。
「あらあなた。興味あるの?」
興味などない。ただ単に口をついて出ただけだ。そう、探偵ごっこなど子供の遊びでしかないのだ。もう灯に付き合ってやることもない。
「ああ」
一馬はそう答えていた。
「はたして、おまえには分かるのか?」
試すような口調になる。自分は灯のことを挑発しているのだ。何故? そんなことをする意味は? これ以上面倒くさいことはごめんなはずだ。
きっと自分はあの事件には区切りをつけた。真相に納得もしていたし、その先の犯人までたどり着きたいとも思わない。だがしかし、自分には興味があるのは事件のことではなく、灰村灯という人物についてだったのだ。
探偵だって?
正気で言っているのなら、相応しい推理をみせて見やがれよ。
「分かるわよ」
灯は言った。それが少しだけ一馬の自尊心を刺激する。
「へぇ」
「氏名は言えないわ。ただ、必要な情報さえあれば、どんな人物かはすぐに分かる」
「聞かせてもらおうか」
灯は一馬に向かって不適に微笑んだ。その人懐っこい表情は、幼い娘が自分の両親に向けるそれに程近いものだった。
「考えてみて? あなたは一年一組の男子、必要な情報は全部持っているはずよ」
「なんのことだ?」
「その受け答えは、随分と魯鈍だよワトスン君」
飄々として余裕綽々の、やんちゃな少年のような声を灯は発した。
「は?」
「ホームズ先生の物真似。多分こんな感じ」
もうちょっと渋いと一馬は言った。灯はそんな一馬にかまわずに
「いいかね? 君達の先生は今年からこの学校に勤めることになった人だ。もちろん、これが始めての担任となるね。そして、先生はいつも職員会議の始まるぎりぎりの時間に出勤するする。痛車となった先生の車が見付かったのは?」
「一時間目の授業中。サボってたクラスメイトが見付けた」
桐家から聞いた話だ。つまり、犯行時刻は朝の時間から一時間目の授業時間までに限定される。
「ふうん。そのクラスメイトは男? 女?」
「男」
「ふうん。女子の体育顧問は目敏かったね」
ふんふんと少し思考するように顎に手を載せる。そして次の瞬間
「分かったじゃない!」
花の咲くような笑顔でそう言った。一馬はそのあまり無邪気な様子に面食らう。灯は唇を両側に持ち上げて笑み、虚空に向かって鼻など伸ばしていた。そのなんとも得意そうな様子に一馬は眉をしかめ、僅かにとがった調子で問うた。
「どういうことだ?」
灯は物怖じしない。
「少しは自分で考えなさい。まず、そんな悪戯をやりたがるほど工藤に悪意を持てるのは、どんな奴?」
「……工藤の家族か、知り合いか生徒」
「大人はふつうそんなことはしないわね? だったら生徒に限られる。だとすれば犯人は一年一組の男女か、二組の男子ってことで間違いない?」
一馬は少し考えて、そして納得する。体育の授業は二クラス混合で行われる。一組と、二組だ。受け持ったその二クラスの男子をプールの隅から隅まで泳がせるのが、工藤という体育教師で、そこから恨みを勝うのも仕方がないことだ。連中は工藤のお陰で授業中プールで遊ぶことができないのだから。だとすれば随分幼い動機である。
そして一組の女子、これは言わずもがな、自分の担任教師を気に食わない生徒等、中学校にはいくらでもいる。
「もっとも、悪戯の内容から犯人はきっと男子だろうと思うのけれどね。それで、犯行時刻として使えそうなのはいつ?」
「……朝の時間と、一時間目の直前の休み時間と、一時間目の授業中」
「はずれ。車を痛車に改造する作業には結構な時間がかかるわ。工藤は朝はぎりぎりの時間に来るのよ。朝の時間に犯行を行うのはきっと無理。そして一時間目の前の休み時間も十分しかないし、しかも男子はプールに女子は運動場に移動する時間が差し引かれる。つまり不可能よ」
「じゃあ。犯行時刻は一時間目の最中に限られるということか?」
「そういうこと。そして、一組か二組の男子で、一時間目の最中に自由に動いていたのは誰?」
灯は不適に笑って
「君がさっき言った、一時間目の最中にサボってた生徒が犯人よ。……ワトスン君?」
唇を釣り上げながら、そして灯は興味ありげに
「それで。そのサボってた人って、誰? あたしの知ってる人だと思う?」
「桐家」
教室に戻ってはじめての休み時間。席で本を読んでいた桐家に一馬は声をかけた。弁当箱みたいな大きさのノベルス本を器用にポケットに仕舞い込むと、桐家は若干煩わしそうな声色でそれに答える。
「何かな?」
面倒くさいなと言いたげな表情だった。それでもきちんと本を閉じるあたりが、桐家なりの礼儀だろう。これに好意しか抱かない一馬である。
「おまえの先輩に声をかけられたよ」
「誰?」
桐家は僅かに興味を示したようだった。
「西条未明」
「部長か。良かったな」
桐家は言った。一馬は一瞬、これを皮肉か何かだと勘違いしたものだが、表情や声調などから判断してそれはないとも思う。
「どういうことだ?」
「あんまり言いたいことじゃないけれど」
桐家は少し沈んだ声で
「根本先輩だったりしてみろ。君は今頃、トイレでゲロを吐いているか、保健室で寝込んでいるか、救急車で運ばれているかの、その内のどれかだぜ」
ここまで、桐家は真顔で言った。
「なんだよ、それ」
「醜いんだ。顔が」
顔が?
一馬は大口を開けてしまった。桐家はそれで満足したのか、一馬の方から視線をそらす。
「用はそれだけかい?」
「あ。いや」
違う。その根本先輩とやらの所為ですっかり出鼻をくじかれてしまったが、桐家にはまだまだ用がある。
「昨日の事件のことなんだけどさ」
一馬は淡々として尋ねる。
「昨日の朝、中庭で大きな植木鉢を抱えた君を見たって人がいるんだけど」
大嘘であった。
「……」
桐家は一馬の表情を覗き込む。何かを探るような眼をだった。一馬の真意を伺っているのだろう。一馬は表情を変えずに、むしろこちらを観察して来る桐家を見て楽しむくらいのつもりで、それに応じた。
「唐突だな。でもそんなこと、昨日の事件とは関係ないじゃないか」
桐家は少しだけうろたえた表情で言った。一馬が言ったことを、信じたのだ。
焦っているな。一馬は思った。一馬の言ったことが仮に真実だったとしても、ここは本来、否定しておくべきところなのだ。こんな誘導尋問に引っかかるなんて、桐家らしくもない。
この手のカマかけなら、一馬は少しだけ得意だったりする。一馬はどんなとんでもない嘘でも平気でつくことができるし、その際に表情も変わらない。ただ、嘘の内容自体がそれほど洗練されていないのは、彼の愚直な性格ゆえである。
「君がどうして中庭でそんなことをしていたのか、聞かせてもらいたいな」
「室長は色々大変なんだよ」
うまい言い訳だ。一馬は思った。こんな風にきっぱりとした口調で、しかし内容は曖昧に言っておけば、その曖昧な部分を聞いた側が想像で補ってしまう。室長だから庭の手入れを任された、室長だから探し物を手伝った、といった具合に。彼が犯人だと知っていなければ、危うくだまされていたところだろう。
「とぼけるなよ」
一馬は言った。
「だからなんのことだ」
「昨日おまえ、言ってたじゃないか。先生の車を見たことがないって」
桐家は黙っている。軽口は叩くものではない。一馬は言った。
「先生の車って、いつも中庭に停めてあるじゃないか。だったら昨日の朝、室長の仕事で中庭に行った時に、先生の車を見ているはずなんだよ。そうじゃなくちゃ、おかしいんだ。でもおまえは先生の車を見たことがないと言った」
「そんなことが矛盾になるのか?」
「矛盾じゃないか」
一馬は言った。
「少なくとも、俺がおまえが犯人だと確信するには上等な矛盾だぜ? 朝中庭で植木鉢運んでたことも、認めちゃったしな」
そこまで説明すると、桐家は肩を竦める。
「どうやら。僕が犯人だと確信しているようだね」
「犯人じゃないか」
「だったら車を消失されたトリックを聞かせてよ。ねぇ」
桐家はこちらに向き直ってそう言った。
試すようなその瞳は少年のように爛漫と光り輝いている。それはそう、テレビゲームで強力な対戦相手と戦う直前の子供のような、愉快さと真剣さの混ざり合った表情だった。
一馬は思った。こいつは楽しんでいるのだ。自分の構築したトリックが、他者によって解き明かされることへの悦楽を。
そのはずだ。仕掛けた悪戯は発覚しなければおもしろくない。問題は解かれなければ、出題者が楽しむことはできないのだ。
一馬は溜息を吐きたくなった。
この桐家も、灯と同じ、探偵ごっこに取り付かれたただの子供なのだ。ただ役割が違っている。灯が探偵役なら、桐家は犯人役だ。
しかしだとすれば。
このように犯人を糾弾するのは、しょせんいやいやに語り部をしているだけの自分ではなく、探偵役の灯であるべきなのだ。それなのに、『何とか桐家から自白を引き出して来い』と自分に命じるだけで、自分は保健室から出ようともしない。本当に、自分じゃ何もできないのだろうか。
一馬は桐家に語ってみせた。一馬が事件のトリックに辿り着いた経緯とそのトリック。西条に強引に連れて行かれた保健室の中で、灯が犯人を推理したこと。
桐家は感心したように、無邪気に微笑みながら一馬の話を聞いていた。何がおもしろいのだろうと一馬は思う。そして話し終わった時、桐家は呟くように
「君さ。ミステリ研究会に入らないかい?」
と言った。
「なんでまた?」
「才能がある気がするんだ。いや、絶対にあるね。古今東西のミステリを読み漁った僕が言うんだから間違いない」
「……今の推理したの、全部灰村なんだぜ。俺は昨日おまえが仄めかしたヒントがなければ、トリックにすら気付かなかったんだ」
「そういうことじゃないんだ」
桐家は笑った。
「絶対、君は部長にも気に入られるよ」
絶対にごめんである。
「ミステリ研究会なんて、そんなことはどうでも良い。ところで、おまえは自分が犯人であることをもう認めているのか?」
桐家は肩を竦めながら言った。
「ああ。訊くまでもないだろう?」
そして、子供そのもののような人懐こい笑みを浮かべた。
特に上機嫌になることもなく一日の授業を終えた一馬は、これと言っていつもと変わらない足取りで下駄箱に向かって歩いていた。
人込みを形成する三々五々に分かれたグループの、そのいずれにも加わることなく一馬は廊下の真ん中を進む。このように不可解な行動は一馬の自意識の成せる技だった。一馬にも友達と呼べる存在くらいはいたが、登下校の最中まで群れるのは、どこか自らの脆弱性を晒すようで耐えられなかったのである。
このような考え方に何一つ意味がないことくらい、一馬は自分で分かっていた。だがしかし、一馬の自意識と自尊心はその理性とは遠く離れたところで暴走していたし、それを沈める方法を彼は一つとして所有していなかった。人込みの中で感じる若干の不安や寂しさを振り払うように、一馬はこれから始まる自分一人だけの戦いをイメージする。そこに登場するのは、決まって人を殺してしまった自分だった。
……どうして、毎晩あんな夢を見るんだろう。
気が付けば、一馬はそんなことを考えていた。
下駄箱にたどり着いて一馬が気付いたのは、何者かの手によって自分の靴が紛失していることだった。一馬は血の気が引いた。付き合いの悪い自分の学校生活が招いた、軋轢がついにこのような事態をひきおこしたのかもしれない。
こういうのはたいていが自業自得だ。こんなことをされてしまう程侮られた自分がいけないのだと、自尊心の高い一馬は考える。ならばその侮った連中を後悔させてやるのが、自分に取れる正しい対応だろう。そんなことを考えていると、下駄箱の隅っこに配置された一枚の紙切れに気が付いた。
『桐家宗一より』
そう書かれた手紙を、その場で裏返して見やる。
『こんなことはしたくないんだけれどね。靴を返してほしかったら、ミステリ研究会まで来てくれないか?』
ふざけんな。
ほとほと桐家はこの手の低俗な悪戯が大好きらしい。所詮はガキか、と一馬は考える。
きっと、工藤の車に関する事件の謎を解いたことで、自分はあの桐家に気に入られてしまったのだろう。冗談ではない。どうしてあんな奴に付き合わなくてはならないのだろう。だいたいどうして、あんなガキそのもののような男が室長なんぞやっているんだ? 灰村と言い桐家と言い、どいつもこいつも頭が腐っていやがって!
などと毒づいたところで、上履きで家に帰る訳にはいかない。一馬は覚悟を決めることになる。これから自分はミステリ研究会とやらの部室に向かい、桐家のバカから靴を回収しなければならないようだ。
観念して、一馬はミステリ研究会の部室へと向かった。研究会の部室、というのも随分とおかしな響きであるが、かのミステリ研究会はその本名をミステリ研究部という。研究会というのは、語呂が良いから部員がそう定着させているだけのことらしい。これも子供染みた話だと桐家は思う。
さて、そのミステリ研究会は最近できた校舎に部室を構えていた。つい以前までは、最も古い校舎のもっとも不便な教室を使用していたという話だが、部員が増えてそうもいかなくなったということらしい。なので一馬も研究会への行き道をしっかり把握していた。
「失礼します」
一馬はできる限り堂々とした声とそぶりで研究会の扉を開けた。
そこには本棚と床に積まれている本と本の積まれている長机と、それらに埋もれるようにして一馬の姿をうかがういくつかの視線があった。その視線の少なさと、あまりの本の多さに一馬は愕然とする。これでは図書室と変わらないではないか、というのはいささか大げさだろう。しかしきっちりと整理整頓されても尚、本棚から溢れ出しそこら中に積み上げられた書物とした数々には、雑然とした印象と形容しがたい迫力が備わっていた。
「あんた誰ぇ?」
そう言ったのは、三つのパイプ椅子を使ってだらしなく寝そべりながら、天井に掲げるようにして本を読んでいた少女だった。背もたれに引っ掛かった髪の毛を腕に巻きつけながら、だらだらと起き上がったその姿は誰かに似ているような感じがした。二つ結びにしてあるのは流れるように黒長い髪、白い顔、少女らしさを強調したその表情。
「俺は木曽川一馬といいます。桐家君いますか?」
「いないわね」
少女はかったるそうに言った。少しひねたようにつり上がって、それでいて何かを請うような瞳、その少女特有のものだった。
「いやいや珍しいねミナミちゃん。いつも仲良しの君ら三人が一緒にいないっていうのはさ。作為的なものを感じる程だけれど、君らのことだから適当に流しておくのが皆の幸せに繋がるのかな」
「部長さんは相変わらず意味もなく饒舌ね。言いたいことを一言にまとめなさいよ」
「おいおい」
部長と呼ばれたその声の主……西条は微笑みかけるように肩を竦めると
「纏められるほど言いたいことがあると思うのかい?」
などとほざいた。
「やあやあ君は確か木曽川君だったかな? そこの彼女は灰村陽さん。二年生の先輩で、君の尋ね人の桐家君と一緒に入部して来たんだ」
「……灰村」
あの灰村灯の姉ということになるのだろうか。陽と呼ばれた彼女は寝そべった体制で今度は携帯電話などいじり始めている。
「灯のワトスン君って、あんたのこと?」
陽は顔だけ上げて、一馬の顔を凝視したあとで
「さえない顔ね」
と、妹とまったく同じことを言った。
「そこの陽ちゃんと、君が知っている桐家君。それから陽ちゃんの弟の輝が今年の新入部員でも活動らしい活動をしてくれてね。部長としては助かるやら困るやら。妙な悪戯考えては三人で協力して実行、こないだなんかは先生の痛車にしちゃったんだって?」
と、明らかに一馬に聞かせる為に西条は陽に語る。陽は少し誇らしげな顔でそれに付き合い
「あんなの序の口よ。もっとおもしろい事件を起こしてみせるんだって、輝君も意気込んでいるわ」
「弟君のこと好きだねー。そして今度は皆で校長先生のカツラを集会の途中に奪うんだったかな? その計画は流石に気の毒だとぼくなんかは思うんだけれどね」
「停める気ないのにそんなこというんじゃないわ」
「ただの感想さ。悪戯を起こす者にもっとも必要な、ただの感想」
ただのバカ三人組の話だと一馬は思った。そんなことより自分は靴を探さなければならない。一馬は苛立つ気持ちを抑えて二人に向かって問うた。
「俺、桐家に靴を盗まれたみたいなんですが。彼、それに関して何か言ってませんでしたか?」
「言ってたと思うよ?」
西条は貼り付けたような笑みを浮かべたまま答えた。
「彼、悪戯をする前はいっつもこの部屋で輝君と相談してるからねぇ」
「何て?」
「さあ」
西条は飄々として
「多分言ってたとは思うんだけどね。ぼくは聞いてないんだ」
ふざけたことをのたまわった。そしておもしろがるようにこちらを見る。
こいつ嫌いだ。一馬はそう思った。なんでこんなのが部長やってるんだろう。と聊か本気で疑問だ。
陽はパイプ椅子から零れ落ちそうな体制で今度は本を読んでいる。こっちに話しかけても、碌な回答は得られないに違いない。
「失礼します」
そう判断した一馬は、ミステリ研究会を後にすることにした。
桐家宗一がいた。
研究会の教室へと続く廊下を、どうしてか部室とは逆方向へ向かって歩いている。廊下の端と端ほどもある距離を、一馬は追い掛けた。
二階の渡り廊下を進み、一馬達の教室がある校舎へと桐家は進む。声をかけた。届かない。近付いて肩でも殴ってやろうじゃないかと一馬は考える。しかしどうしてここで桐家が姿を現したのだろう。まったくもって理解できない。靴を盗んで自分を部室に呼び出してみたと思ったら、そこに姿はなく、部室から出たと思ったら突如として出現して自分から離れるように歩き始める。意味不明としか言いようがない。
校舎の一階に降りた時、桐家の姿はどこにもなかった。かなり距離を詰めたはずなのに。一馬は面食らう。
階段の下の、右手側には下駄箱、左手側にはこちらにも廊下があった。廊下に行ったというのは考えずらい。そうだとすれば。この長い廊下のどこかには、自分から離れていく桐家の姿が見えるはずだ。一本道の廊下だけに隠れるところなどどこにもない。だとすれば外に出た? いいや、それならば靴を履き替えるのにかかる時間で、すでに追い付いているはずだ。
……ならば、上履きのまま外にでたということか? そう思って桐家の下駄箱を覗く。そこには運動靴が納められていた。靴は履き替えていない。
そこで、一馬は途方にくれることになった。どうしてあんなバカの遊びに付き合わされて、自分がこんなに歩き回らなければならないのだろうか。だがしかし考えたところで仕方がない。人生とは理不尽なものだし、桐家がしたことに対して何かを言ったところで、意味などないのだ。あいつは自分の意思で一馬から運動靴を奪ったのだし、自分は自分の意思でそれを取り戻す。それだけのこと。
一馬は少し考えて、より可能性の高い方、左手廊下側を選択して桐家を探した。もしかしたら、どこかの教室の鍵が開いていて、桐家はそれを見付けて中に入って言ったのでは、とそのように考えたのだった。
そして案の定、開いている教室の扉が一つだけあった。
それは一馬の教室の扉だった。
間違いない。桐家はこの中にいる。そう思いながら、一馬は教室の扉を開けた。
ドラキュラ伯爵がいて、一馬に向かって飛び掛って来た。
「……!」
それは確かにドラキュラ伯爵だった。顔はなんだか青い顔、黒尽くめの格好、赤い唇から飛び出した真っ白い牙。なんだかもう、偽者くさいほどドラキュラ伯爵らしいドラキュラ伯爵だった。
もう何がなんだか分からない。どうして教室の扉を開けたらドラキュラがいて、見境ないことこの上なく自分に襲い掛かってくるのだろう。
一馬は自分食べてもうまくないですを唱えたくなりながらも、咄嗟に後ろへと逃れた。容赦なく牙を剥き出し、飛び掛ってくるその迫力に、一馬はつい面食らって廊下の壁に背をぶつけてしまう。絶体絶命だ。
だがしかし。壁に張り付き、何もできないでいる一馬の首下に噛み付く寸前で、ドラキュラ伯爵はその動きを止めた。
「すいません。でもおもしろかったでしょ?」
ドラキュラ伯爵が言った。少年の声だった。
「自分、文化祭の準備です。気が早いかもしれませんが、今年演劇部凝った芝居することになってるんで」
一馬は胸をなでおろした。まあ、そんなところだろう。驚いた自分がバカみたいだ。
どうやら外れだったらしい。ここに桐家はいない。もっとも、血を吸われるよりいくらかマシだというものだろう。
「良くできているね」
一馬は何とかそれだけ言った。そうでも言わなくては、壁に追い詰められた自分の姿が間抜けだったからだ。少年は嬉しそうに
「どうもどうも。いやぁ、驚いてくれなかったらどうしようと思っていたんですよ」
「それはそれは」
一馬は引きつった顔で言った。この少年、もともと顔色が白い。それがドラキュラ伯爵のコスプレには良くあっているのだろう。その白さにこれまた灰村灯を連想してしまうが、彼女は赤みを帯びた白で、この少年はどちらかと言えば青白い色合いと言ったところだった。さらに背が高く迫力があり、この演技力、本番での度胸、相手を驚かせることへの情熱と、なんだかもう演劇でドラキュラ伯爵をやるために生まれてきたような男である。
「ところで、このクラスの人ですか? 教室使わせてもらっててすいません」
「いやいや。俺にはどうでも良いことだよ」
と一馬はなんだか無責任なことを言って
「ところで。ここに人が来たりしてなかった? 男子なんだけど、君より少し低いくらいの」
「人を探しているのですか?」
教室の奥から聞こえてきたのは、なんだかしわがれた声だった。
教室の中央の席に腰掛けた、黒いフードをかぶったその少女らしい人影は、ビー玉くらいの大きさのビー玉みたいな水晶を覗き込みながらそう言っている。そのしわがれた声というのは、老婆をイメージして作った声だろうか。だがしかし、スカートから生えた足の健康的な若さが、フードの中身がおそらくは中学生の少女であることを想像させる。
「彼女。占い師なんです」
ドラキュラ伯爵が言った。
「霧は晴れておる」
説明を貰った占い師がここぞとばかりに一馬にそう言った。随分と抽象的な占いである。何とでもとれることしか言わない胡散臭さが、妙に本物の占い師っぽい。その意味では、クオリティが高すぎて逆に胡散臭さを漂わせるドラキュラ伯爵とは間逆といったところか。
「らしいです。良かったですね」
ドラキュラ伯爵は化け物らしくもなく一馬に祝福する。
「あと。ここには人は来てないです。ええと、何て人を探してるんですか? 見付けたら、あなたのこと言っておきますけど」
「それはそれは」
ドラキュラ伯爵は妙に親切だ。さすが伯爵といったところだろうか。
「でも良いよ。そいつ、俺が探してるの知ってるから」
「そうですか」
「ああ。ありがとな」
愉快な人達だったなと思いながら、一馬は教室を出る。なんだか靴を取られた苛立ちも半減したようである。演劇で人を楽しませようという高尚な志しを持ち、そのために努力しているような人達なのだ。自分のようにうじうじ悩んでいる人間より、ずっと器の大きいことだろう。
一馬は廊下の方面から桐家を捜索するのを諦めて、外に出ようと下駄箱に向かった。ふと思いついて、自分の下駄箱の中を覗いてみると、そこにあったのは一馬の運動靴だった。
「霧は晴れておる、ね」
まったく、胡散臭いことである。結局、桐家はどこにいったのか。
読了ありがとうございます。
最後の最後で謎が提示され、次回に引き継ぐ……連載だからなせる技ですね。そんなに難しい問題ではないと思いますので、是非とも挑戦してみてください。
それから今回、少し新しい登場人物が多すぎましたね。覚えがたいかもしれませんが、頭に残らなかったキャラはどんどん切り捨てていただくと助かります。必要なキャラは、また説明いたしますので。
それでは。これからもお付き合いください。