第3話 海を見に行こう
重い鉄扉を蹴り開けると、ひんやりとした風が頬を打った。施設の屋上だった。煙に包まれた灰色の空からは、汚れた雨がパラパラと降り始めている。フェンスの向こうは数十メートル下のコンクリート。完全に逃げ場を失った。
「そこまでだ」
背後から声が響いた。振り返ると、一人の追手が、こちらに銃口を向けて立っていた。
「聖女がいなくなったら、この世界は終わってしまう。幸福が与えられないと人々は生きていけないんだ。君にその責任が負えるのか」
追手がそう問いかけてくる。その言葉に、僕は鼻で笑って返す。
「世界なんてどうでもいい。僕たち二人が幸せになれれば、それでいい」
後輩を見殺しにし、ここまで来たのだ。他人が何人死んだところで、知ったことか。
「それが君の選択か……。やれやれ」
追手が呆れたようにため息を吐き、引き金を引いた。銃声が、屋上に響き渡る。
だが、僕の体に衝撃は走らなかった。代わりに、繋いでいた彼女の手がふっと軽くなり、僕の隣で、アリスが力なく崩れ落ちた。彼女の胸元から、赤い血が流れている。
「な……んで……っ」
僕を殺すのではなく、なぜ彼女を。理解が追いつかず呆然とする僕に、追手は告げた。
「その様子だと、もう幸福の抽出は限界だ。力のない聖女なんてこの世のなんの役にも立たない。代わりの聖女なら、また探せばいい」
彼は倒れたアリスを一瞥すらせず、銃口をゆっくりと僕に向け直した。
「この国はずっとそうやって回ってきたんだ。道具みたいに、また誰かを使い潰すことでより多くの人が幸せになれるのだ。すべては世界のためだ」
「貴様ァッ!!」
喉が裂けるほどの咆哮と共に、僕は手元の銃の引き金を引いた。鈍い発砲音。追手の眉間を正確に撃ち抜いた。男が仰向けに倒れ込むのと同時、僕の胸にも衝撃が走った。相撃ちだった。
「……っ、が……」
足から力が抜け、僕は彼女の血だまりの隣へと倒れ込んだ。肺が焼けるように痛い。息をするたびに口から血が溢れる。もう助からないことは明らかだった。すぐ横で、胸を撃たれたアリスが微弱な息を繰り返している。
「ごめん……。幸せに、してあげられなくて……ごめん」
血まみれの手を伸ばし、冷たくなっていくアリスの頬に触れた。すべてが遅すぎた。僕のせいでルナを死なせた上、結局はアリスを救うこともできず、こんな冷たいコンクリートの上で無惨に死んでいく。その時だった。
「……うみ、行くんでしょ……?」
空っぽだったはずのアリスの瞳に、微かな光が灯った。死の淵で、搾り取られて消えてしまったはずの僕との記憶が、奇跡のように戻ってきたのだ。僕は泣き笑いのような表情を浮かべ、ポケットに手を入れた。
「……実は、僕も持ってたんだ」
血に染まった指先で取り出したのは、二粒の『幸福薬』。
「あいつが……ルナが傍にいてくれても、僕はやっぱり現実を生きるのが辛くて……何度も、これに縋ってた。君から作られた薬だと、知っていながら」
眠れない夜に、どうしてもアリスを忘れられない日に、何度もこれに縋っていた。大人たちを軽蔑し、この狂ったシステムを憎みながらも、僕自身が誰よりも弱く、身勝手だったのだ。
「でも、これでようやく終わらせられる」
僕は、アリスの口に一つカプセルを含ませ、もう一つを自分の口へと放り込んだ。血液と一緒に、それを強引に飲み下す。数秒後。胸を焼くような激痛も、血の匂いも、すべてが真っ白な光に溶けていった。
気がつくと、僕たちは果てしなく広がる青い空の下にいた。足元には真っ白な砂浜。鼓膜を揺らすのは、優しく穏やかな波の音。隣には、アリスが立っていた。
「約束、守ってくれてありがとう」
アリスは振り返り、世界で一番幸せそうな笑顔でそう言った。僕たちは二人で並んで、打ち寄せる青い波を見つめる。
「僕は、君に何もしてあげられなかった。あのとき、僕が助けられていれば」
「ううん。でも、こうして助けに来てくれた。それだけで、私は幸せだよ」
アリスがそっと、僕の手に自分の指を絡めてくる。これが、ただの幻覚なのだと、僕は知っている。現実は今この瞬間も、冷たいコンクリートの上で二つの命が消えようとしているだけだ。
けれど、そんなことはもう、どうでもよかった。彼女の体温が、確かにここにある。青い海が、果てしなく広がっている。僕たちは永遠に終わらない幻の海辺で、幸せな笑い声を上げながら、そっと目を閉じた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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