第1話 聖女
「いつか一緒に海を見に行きたいね」
彼女、アリスはそう言った。
この街に海なんて存在しない。空は煙で曇り、路地には腐った水が溢れ出ている。僕たちが本物の海を見ることができるのは、大昔の記録映像か『幸福薬』で見る幻覚の中だけだ。
それなのに、海を語る彼女は、その瞬間、世界で一番幸せそうな顔をしていた。
絶望にまみれ、汚れたこの世界では、大人たちは薬に頼らなければ笑うことすらできない。そんな世界で、彼女の笑顔はあまりにも眩しかった。
そんなアリスのことが、僕はずっと好きだった。
「いつか、行けたらいいね」
僕は照れ隠しに視線を逸らしながら、小さく呟いた。
「約束だよ!」
彼女が無邪気に小指を差し出した。少しだけ迷ってから、僕もその指に自分の指を絡める。
このときの僕たちは確かに幸せだった。
絶望しかないこの世界では、二人で一緒にいられることだけが唯一の救いだった。薬に頼らなくても、僕たちは十分生きていける。そう信じていた。
しかし、僕とアリスが共有したその「幸せ」こそが全ての間違いだった。
その日、アリスは『聖女』に選ばれた。
自らの幸せな記憶を代償として、人々に安らぎを与える『幸福薬』の原料となる聖女。一人の少女の人生を削り、燃料とすることでこの街は回っている。
「みんなのためになるんでしょ?光栄なことじゃん!」
白い防護服を着た役人たちに囲まれ、アリスは晴れやかに、誇らしげに微笑んでみせた。
明日の自分の幸福さえ保証されればそれでいいという身勝手な大人たちは、嘘くさい涙を流して喝采を送っている。
聖女は最も幸せな人間から選ばれる。その方がより純度の高い『幸福薬』を作ることができるからだ。そして、聖女に選ばれた彼女たちの末路はいつだって同じ。幸福を搾り尽くされ、その記憶も感情も失い、最後には壊れた人形みたいに笑うことしかできなくなる。
誰もがそのことを知っているのに、この狂った世界では聖女に選ばれることは名誉なことだという共通認識が何百年もかけて醸成されてきた。
「やめろっ!行くな!」
次の聖女として役人に連行される寸前、アリスが僕から視線を逸らした拍子だった。その頬を、一粒の涙が伝い落ちたのを僕は見逃さなかった。
「待って……こっちに来い!」
伸ばした指先が、無機質な役人たちの防護服を掠める。
「アリスを返せよ!!」
そのとき、アリスが振り返った。そして、いつもの顔で笑って言った。
「……ごめんね」
その声は、群衆の歓声に掻き消された。
もう僕の声は届かない。伸ばした指先が、空を切る。遠ざかっていく彼女を追いながら僕は叫び続けた。喉が裂けるほどに。
……
「…先輩!」
微かな声が僕を呼んでいる。
「先輩。大丈夫?」
僕は眠りから目を覚ました。そこに防護服姿の役人はない。シーツの擦れる音と、汗の匂いが混じり合う薄暗いアパートの一室。
隣から、後輩のルナが僕のことを覗き込んでいた。シーツを胸元まで引き寄せながら、不安そうにこちらを見ている。乱れた髪、火照った肌、まだ残る体温。ついさっきまで、二人が肌を重ねていたことを示していた。
ルナの細い指がそっと額に触れる。
「すごいうなされてましたよ」
またあの時の夢だ。あれからどれだけ時間が経ったって、アリスの記憶は僕の心から消えることはない。
僕は額に添えられたルナの細い手をそっと掴むと、静かに布団の上へ下ろした。振り払ったわけではない。ただ、その優しい体温をこれ以上受け入れる資格が僕にはなかった。
「ごめん」
泣きそうなほど細い声が、薄暗い部屋に落ちる。
「いいんですよ、別に謝らなくても」
ルナは気丈に微笑んでみせた。その痛々しいほどの健気さが、僕の心をさらに重くする。
ルナはアリスが連れていかれて以降、絶望の底で生きていた僕を常に気にかけ、今日まで体温を分け与えてくれた。けれど、何度こうして肌を重ねても、僕の心が彼女に向くことはない。僕の時間は、あの日を境に、完全に凍りついたままだからだ。
僕はルナから目を逸らし、天井の一点を見つめながら呟いた。
「……子供、作ってやれなくてごめん」
ルナはかつてから僕との子どもを望んでいた。しかし、僕の心は、あの人以外の誰かと幸せになることを強く拒絶していた。だから、僕の種がルナの中に根付くことはなかった。
ルナの肩が、びくりと震えた。彼女は俺の胸に顔を埋め、深く息をつく。
「……いいんです。先輩が私を抱いてくれる。それだけで、私は十分幸せですから」
嘘だ。そう思いながらも、僕はそれを口に出すことができなかった。ルナにだって幸せに生きる権利はある。僕なんかとずっと一緒にいたせいで、手に入るはずだった普通の家庭や未来を奪い取っている。でも、そんなルナの優しさに縋らなければ、僕は今日まで生きることすらできなかっただろう。
「でも、先輩」
ルナが顔を上げ、僕の目を見つめる。その瞳には、すべてを諦めたような、それでいて僕のことをただまっすぐに思う愛が宿っていた。
「私を抱いてくれている時、先輩が見ているのは私じゃない。……あの人のこと、ですよね。」
ついに、ルナがそのことを口にした。今まではお互いに分かっていても、決して触れようとはしなかった。このぬるま湯のような日々が壊れてしまうとわかっていたからだ。
でも、ルナは口にした。それは、僕たちの歪な関係が終わる合図でもあった。
僕は何も答えられなかった。ルナの手を払い除けることも、抱きしめ直すこともできない。彼女は悲しげに、けれど優しく微笑んだ。
「助けたいんでしょ?アリスさんのこと。私がそばにいたから今まで先輩は何もできなかった。……だけど、先輩を本当に幸せにすることができるのは私じゃない。あの人だけだから。先輩には、幸せになってほしいんです」
彼女が紡いだその言葉が、僕の喉元まで出ながらも抑え込んでいた考えを、頭の中に再び呼び戻した。
その日、僕はルナの優しさをただ受け入れるのではなく、自分自身が幸せに生きるために、もう二度と戻れないと思っていた場所へと足を踏み出すことを決めた。
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