四
本作はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
駅前に着いたのは一時半を少し過ぎた頃だった。本来なら午後の業務が始まり、週次ミーティングで投げられた部長からの課題に対峙しているはずの時間だった。スマートフォンの電源は昨日の夜から切ったままだが、会社からの着信やメッセージの通知が何件もきているはずだった。今日会社に行かないことは、誰にも告げていなかった。背中のリュックサックの中には、催涙スプレーと油とライターと包丁が入っていた。ふと思い立っただけで、何か強い決意があったわけではなかった。ただ、何となく、もうどうでもいいと思った。
私は駅前をあてもなくふらついた。大通りを横に逸れ、並んでいる民家の表札を眺めながら、気の赴くままに右に左に道を曲がり、また大通りに戻ってきては、今度は反対側の路地に入り、同じようにぐるぐると似たような道を彷徨った。前日は例年まれに見る大寒波だったそうだ。道の端や車のフロントガラスには、まだ雪が残っていた。向かいから吹いてくる冷たい風に対抗するため、ポケットに突っ込んだ両手をぎゅっと握りしめ、身を固めてみるが、それは全く意味をなさず、足の指先から、徐々に冷気が身を侵食し、そのまま冷気に丸吞みにされてしまうようだった。
特に何か買う訳でもなかったが、半ば寒さから逃れるように、道すがらにある店に入ってみたりした。コンビニエンスストアでは、普段は買わない生活雑貨や文具のコーナーをじっくり見てみたり、ドラッグストアでは、マニキュアの色見本のチップ一つ一つに人差し指をあてて回ったりした。大通り沿いの大型書店では、特に長い時間をつぶした。本屋に来るなんて何年ぶりのことだろうか。新品のハードカバーの本はいつの間にか歯医者への通院と並ぶ贅沢品になってしまった。入口すぐのところに設置してある話題書コーナーから見て回った。本には帯が巻かれていて、大抵の帯には真面目な顔をしたおじさんが張り付いていた。そこかしこにおじさん、おじさん、おじさん。表紙には様々な文字が躍っていた。『社会人の教科書』『人を動かす会話術』『七つの習慣』『思考力』『アウトプット』『伝える力』『ライフハック』文字がぐるぐるぐるぐる。目が回りかけて、慌てて児童書のコーナーに移動した。小学生の頃によく読んでいたヤングアダルトのシリーズものの最新刊が出ていた。表紙にはあの頃と変わらない一四歳の少年が、躍動感のあるポーズを決めながら、歯を見せながら笑っていた。あの頃年上だった彼は、今も変わらず、非日常の世界を生きているのだろうと思ったが、手に取って確かめる気にはなれなかった。私はもう二十七になった。
駅の階段を過ぎて、そのすぐ横にあるファストフード店へ入った。踏ん切りがつかないと言うのか、いまいち気持ちが固まらないと言うのか。どうしたいのか、自分でも分からなくなってきていた。一番小さいサイズのホットティーを頼み、席についた。店内は落ち着いていた。大人数でたむろする中学生も、奇声をあげて走り回る小さな子供も、それを無視する親も、今日はいなかった。紅茶の蓋を外し、冷ましながら一口すすった。まだ熱い紅茶が喉元を通って、胃に注がれていくのが分かった。お腹の真ん中あたりがじんわりと温かく、次第にその温かさが体に広がっていくようだった。
やっぱり今日は帰ろうか、とも思った。電源を切ったスマートフォンの黒い画面を見つめた。きっと今電源をつけたら会社からの着信と通知で埋め尽くされているはずだ。明日出社したら、朝一番に部長に叱られ、渡辺さんから嫌味を言われ、藤井から根掘り葉掘り詳細を聞かれ、それから、何だろう。でも、スマートフォンが壊れたとか、高熱にうなされてたとか、兎に角何とでも言い訳はできるような気もしていた。
ゆっくりと時間をかけて紅茶を飲み干し、駅に戻った。夕方の構内は人があふれかえっていた。ちょうどやってきた特急列車に乗り込んだ。車内も構内同様人でいっぱいで、当然座席には座れるはずもなかった。仕方なく入口近くに立ち、扉のガラスに映る社内の様子を見るともなく眺めた。電車が発車し、一駅、また一駅と通り過ぎ、地下から地上へと出てくると、黒く重たい雲がすぐそこまでやってきているのが見えた。
四番目の駅を出発してすぐ、下半身に違和感があった。嫌な予感がした。いやいや、と自分に言い聞かせるように心の中で首を振った。お尻のあたりでもぞもぞと動いている感触がした。なにか得体の知れない幼虫のような生き物が這っているようだった。あと十分は止まらない。自分で調べたのだ。密室になる時間が長いから、だからこの特急にしようと思ったのだ。頭の芯から冷えていくような感覚に襲われた。だけど、手にはじっとりと汗をかいていた。
次の駅に着くとすぐにホームへ駆け下りた。駅のホームのベンチに座りこみ、電車が出発して、その音が聞こえなくなるまで、じっと削れた靴先を見つめていた。今から人を殺そうっていうのに、やめてくださいの一言も言えなかった。
私は新卒で入った飲食会社で、初めて配属された店舗のことを思い出していた。最初は無口な人だと思っていた。学生時代はドラムを叩いていて、よくライブハウスに出入りしていたと言っていた。実は絶叫マシーンが好きで、休日はよく家族でテーマパークに行くと言っていた。いつも学生アルバイトの急な欠勤の尻拭いをさせられてた。でも大半の学生アルバイトにタメ口をきかれてた。いつも、しょうがないなあ、と半笑いで流していた。パーソナルスペースが極端に狭い人なのだと思った。当たっていることに気づいてないのだと思った。わざとじゃないのだと思った。距離感を縮めるのが早い人なのだとおもった。こういう人なのだと思った。あの時も、私はやめてくださいと言えなかった。
私を急き立てるように、心臓がバクバクと鳴っていた。
―『やっぱり今日は帰ろうか』?そんなんだからいつまで経っても舐められっぱなしなんだよ。
鏡の中の虚な顔をした女。あの女が私を叱咤していた。
―おい、お前、お前だよ、何してんだよ、やれ、やれ、やれ、
口の中が粘ついて気持ち悪かった。奥歯の軋む音が聞こえた。
反対側のホームに移動し、各駅停車に乗り込んだ。仕切り直しだ、と思った。最初の駅からやり直しだ。何とでも言い訳ができる?そんなはずがない。怖気付いて楽な方へと思考が流れてしまった。電車が一駅止まっては動き出し、一駅止まっては動き出している間、私は今まで受けた一つ一つの言動を思い出していた。どんな風に笑われたか。どんな風に軽視されたか。どんな風に罵倒されたか。
終点の駅につくと、ちょうど向かいに反対方向の特急が止まっていた。ばくばくとうるさい心臓の音が私を奮い立たせているようだった。ちょうど帰宅ラッシュの時間なのか、車内は先ほどよりもさらに混み合っていた。四十代半ばのスーツを着た男の前に立った。男は大きく脚を広げながら腰掛け、耳にはワイヤレスのイヤホンをはめ、横向きにしたスマートフォンの画面を熱心に見ていた。こいつにしようと思った。頭の中でやるべきことを反芻した。胸の前に持ったリュックから催涙スプレーを出し、こいつに噴射し、反対の手で持った包丁で胸を刺す。催涙スプレーを出し、噴射し、包丁で刺す。催涙スプレー、噴射、包丁、刺す。他のことを考える余地がないように、何度も、何度も繰り返した。
駅に止まる度に人は増えた。四番目の駅からの発車を告げるアナウンスが流れた。ゆっくりと車体はスピードを上げた。電車が左右に少し揺れ、そして、私は胸の前に持ったリュックから催涙スプレーを取り出して噴射した。男は何が起こったのか分からないといった風にもがいていた。もう片方の手に持った包丁が男の腹に刺さった。
柔らかな感触。男の真っ白なシャツに赤いシミが広がる。微かな鉄の匂い。誰かの叫び声。
鉄と油の臭い。ポタポタと手を伝って落ちる油の雫。また、柔らかい感触。赤いシミ。
橙色の光。炎の光。広がっていく。また、柔らかい感触。赤いシミ。
誰かの悲鳴。連動していく。だんだん大きくなって。
誰かの足音。近づいている。いや、遠のいている。
目の前がチカチカしている。白く光って。
あーあ。




