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どうでもいい  作者: 中村ゆき


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4/7

本作はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。

 デスクトップの画面に警告を示す赤文字の並んだポップアップが増殖している。あれ、いつの間にこんなことになっていたんだ。心臓がバクバクと音を立て、全身が冷たくなっていく。震える手でマウスを操作する。とにかくこいつらを消さなければ。右肩についたバツ印を何度も何度もクリックするが、それ以上のスピードでポップアップが増えていく。オフィスの蛍光灯の鈍い光がチカチカと瞬き、余計に私を焦らした。やがてそこに書かれた言葉も文字化けし読めなくなっていった。何について警告しているのか、そもそも警告であるのかすら識別できなくなったそれを、無駄な抵抗だと分かりつつ必死に消していく。頭は真っ白だ。「何してんの」誰かが叫んでいる。誰の声かは分からないけれど、私に向けられたものだというのは確実だ。どうしよう、どうしよう、何とかしなくては。立ち上がろうと椅子をひいたが、うまく足に力が入らず無様に床に投げ出された。ぐわんぐわんと視界が大きく揺れている。床が私を飲み込んでいく。


 朝だ。最近はこんな夢ばかりみていた。寝ても覚めても会社にいて、何かに怯えていた。スマートフォンのディスプレイで時間を確認した。アラームを設定した時間よりは数十分早いが、眠りなおすには短すぎる時間だった。仕方なく起き上がり、鉛のような体をのろのろと動かして出勤の準備をした。

 数ヶ月から任されるようになった技術部門の業務には、24時間365日有人体制をうたった保守サービスの休日担当も含まれていたようで、私は毎週土曜日も出勤するようになっていた。


 休日出勤の唯一の良いところは、出勤時の電車が空いていることくらいだった。反対側のホームでは、温泉地に向かう特急列車を待つ人が、ホットのペットボトルを手で包み込みながら、「寒いなあ」と嬉しそうな顔を見合わせていた。私はそれを一瞥すると、こちら側のホームにやってきた快速電車に乗り込んだ。土曜日の朝八時の電車は、平日とは違い、座席がいくつも空いていた。茶色いシートに腰掛けると、そのままずぶずぶと沈んでいくようだった。ぼーっと窓の外を眺めながら、駅前のコンビニで買った菓子パンを齧った。窓の外には薄暗い雲がどんよりと広がっていて、今に雨でも降りだすんじゃないかという様子だった。


「おはようございます」

「あ、ざます。特に今のとこ問題なしです」

「了解です」

サーバールームに籠っていた夜勤の社員と手短に引継ぎを済ませ、パソコンに向かった。アラートが出ないうちに、金曜に回った顧客の見積書を仕上げてしまいたかった。そこは付き合いの長い顧客で、今回の訪問の内容はずっと継続している機器の更新の相談だけだった。ほとんど確定した決定事項を、改めて確認するような内容だったし、そこの担当者と仲の良い宮治さんが同行してくれたおかげで、話はすんなりまとまった。悩ましい案件ではないはずだったが、金曜日に聞いた宮治さんの話が頭をよぎり、仕事はなかなか前に進まなかった。


「僕、会社辞めるんですよ」

訪問帰りの社用車の中で、宮治さんは唐突に言った。

「お母ちゃんがボケてもうてね。実家帰るんですわ」

ちらりと目線だけ動かして宮治さんの横顔を盗み見た。その顔はいつも通り飄々と、何を考えているか分からない顔だったの。すぐに目線を前に戻し、道の脇に生い茂っている緑が流れ去っていくのを、ただぼんやりと眺めた。

「実家って、どこでしたっけ」

「新潟よ。知ってる?新潟。米の。日本酒の」

「知ってますよ新潟くらい」

「さすが大卒」

「大卒関係ないでしょ。都道府県は小学生で覚えますよ」

「小学生のころは僕も賢かったんやけどね。社会のテスト満点やったもん」

そういって宮治さんは都道府県の覚え歌を歌い始めた。宮治さんが四十七都道府県を歌い終わり、徳川の歴代将軍を初代から十五代まで順番に唱えている間、私は雪の積もった田んぼの真ん中で、ぼーっと立ちすくんでいる宮治さん姿と、その上にしんしんと降り注ぐ雪たちを思い浮かべていた。心が冷えるようだった。

「お母さん、一人暮らしなんですか?」

「そう。親父、僕が中学の頃蒸発しておらんし、弟は千葉に住んでるから」

「弟さん、」

弟さんも実家帰るんですか、と聞くのはあまりにも立ち入りすぎだろうか。言葉を躊躇した私を察したのか、それとも場の空気をあまり読まずしゃべる性格なのか、宮治さんは

「弟は十一年前に結婚して今小三の子どもおるからね。それに比べて僕は子供もおらんし離婚してるから身軽でね」

と言った。いつも通りの飄々とした声色だった。


 翌週の月曜日、朝一番に出勤すると、宮治さんの机の上には見慣れない黒のノートパソコンとケーブルが雑に束ねられたマウスだけがぽつんと置かれていた。カラフルなLEDケーブルがうるさかった自作パソコンも、長寿ロボットアニメのフィギュアたちも、熱心に応援していた球団のマスコットのぬいぐるみも、メーカーがばらばらなコーヒースティックの束も、何もかもがなくなっていた。引き出しを上から順番に引いてみるが、からからと軽く小さな音を立てるだけだった。

 執務室の扉の向こうから、出勤してきた社員の喋り声がかすかに聞こえ、慌てて引出しを閉めて足早に自席についた。席に着いたと同時に扉が開いた。入ってきた社員二人は天気の話をしながら、いつも通りそれぞれの席へ着こうとして、宮治さんの席の異変に気付いたようだった。

「あれ、ここ、宮治さんの席、でしたよね?」

「俺も思った。なんもないやん」

「え、あの、」

「いや、まさか、」

「ですよね。え、何も聞いてないですよね?」

「聞いてへん、聞いてへん」

「普通そうやったら、ちょっとくらい話来てるはずですよね」

「と、思うけどな。普通そうやったら、なんかしら挨拶とか、あるよな。知らんけど」

二人はまるで退職という言葉を使用禁止用語として示し合わせてきたかのようだった。

「なんですかね。席替え?」

「か、季節外れの大掃除?」

「いや片づけすぎでしょ」

何も知らない二人は顔を見合わせて笑った。

 そうして二人が話し込んでいるうちに、一人、また一人と社員が出社してきた。ある人は二人の会話に交じり、ある人は自席に直行した。私は早々にパソコンをたたき出した社員に混じるかのように、静かに朝の準備を始めた。机の上に置かれていたリボンのかかった小さな箱と、ファンシーなキャラクターがプリントされたハガキサイズの封筒は、真っ先にサイドデスクの引き出しにしまった。

 会議室の掃除を済ます頃には、もうほとんどの社員が出社してきていた。私はそっと自分の席に戻り、他の社員がまだ宮治さんの席の周りでわいわいとおしゃべりに興じているか、あるいは自席で熱心にパソコンを叩いているのを目線だけで確認し、ゆっくりと引き出しを開けた。まずはリボンのかかった小さな箱だけを手元に置いた。煙草の箱ほどの大きさの白い箱には、赤くて細いリボンがまかれ、蝶々結びで留められていた。リボンをほどき、中を確認すると、それはペンダント型の練り香水で、アニメに登場するキャラクターがつけている装飾品を模したものだった。そのアニメは昔よく見ていたと、喫煙所で宮治さんに一度話した気がする。ペンダントの下には、『一番くじB賞』と書かれた紙が挟まれていた。解いたリボンを折りたたんで箱の中に入れ、ふたを閉じてまた引き出しの中に戻し入れ、今度は封筒を手元に置いた。封筒はテープでも糊でも閉じられておらず、中には半分に谷折りにされた便箋が一枚入っているだけだった。便箋を開くと、内側には封筒とおそろいのキャラクターがプリントされており、お世辞にもきれいとは言い難い宮治さんの文字が並んでいた。鉛筆で書かれていたことも相まって、それは小学生の手紙を彷彿とさせた。

『魚住莉香様

突然いなくなることをお許しください。昨日申し上げた通り、急を要することですので、退職の手続きは先に部長と進めさせていただいてました。細々した雑用はまた頼まれるかもしれませんが、その際はよろしくお願いします。また、手続きに不備があれば部長通じてお知らせください。

あなたとは短い間でしたが、お世話になりました。

あなたにとってこの会社は、部長は、大変な相手かもしれませんが、がんばってください。遠くから、応援しています。

・・・・・・・・・・・。

あなたの一番の味方 宮治より』

手紙の最後の一行は、一度書いた後に消されたようだったが、わずかに残った跡で読み取れた。多分わざと読めるように跡を残して消したのだろう。宮治さんはそういう人だった。

 便箋は入っていた時と同じように半分に折って封筒に戻した。引き出しを開け、元々中を占領していたお菓子の袋の下にその封筒を押し込んで、引き出しを閉めた。そして、いつも通りチャットアプリを立ち上げ、グループウェアにログインし、メールを開き、身に覚えのない営業メールは未開封のまま削除し、顧客や社員からのメールを古い方から順に開けて文面を確認した。土曜日の帰宅前に一度確認していたので、ほとんど件数はなかったし、たいていが「了解」を意図する内容か、日程調整の返答のような内容だった。未開封のメールを全件確認し、必要なものには簡単に返信を打って送った。それが終わると、承認をもらうだけにしていた見積書のデータを立ち上げた。金曜日に宮治さんと一緒に訪問した顧客のものだった。和やかに談笑していたが、あの様子だと、彼らも宮治さんが辞めることは知らなかったのだろう。宮治さんの退職を伝えるのは、私の役目になるのだろうか。担当者名の横に並んだ「宮治」の二文字を消すと、私の名前だけがぽつんと残った。

「まじであのおじさん、いなくなっちゃったの?」

声がした左隣に顔を向けると、藤井が開いた席から引っ張ってきた椅子に座ろうとしているところだった。

「え、てか、知ってる?」

「何がですか」

「あのおじさん、辞めたらしいよ」

いつの間にか 退職は確定の話として広まっていた。

「あー、そうなんですか。雰囲気的に、何かあったんだろうなあ、とは思ってましたけど」

宮治さんから直接聞いた話は、何となく話さないでおいた。

「さっき部長からチャットとんでたっしょ」

藤井はパソコンの画面を指さした。チャットアプリの画面を開くと、全社員が参加しているチャンネルに新着マークがついていた。自分を直接指定したメッセージ以外は、通知がこない設定にしていたから気づかなかった。チャンネルを開くと、確かに部長からメッセージが一件届いていた。

『金曜日付で宮治が退職しました。しばらくは私が宮治の業務を引き継いで兼任します。宮治に連絡はとれるので、宮治本人に直接確認したいものがある場合は、私に言ってください。』

「ね、やばくない?」

藤井は椅子に逆向きで座り、背もたれを両腕で抱え込みながら、ゆらゆらと体を左右に揺らした。視線は右手に持ったスマートフォンに注がれていた。藤井は右手の親指を素早く動かし、何やら一生懸命に打ち込んでいた。それが仕事の連絡なのか、他の社員との戯れのチャットなのかは分からなかった。

「やばいやつだとは思ってたけど、ここまでやばいとか終わってんな、まじで。ろくに引継ぎもせずとんずらするのは人としてどうなの。後に残る人のこと考えてなさすぎっしょ」

就職を機に関西へ引っ越してきたという藤井は、標準語でしゃべる。そのせいで、藤井の言葉はなお一層軽薄に聞こえた。

「え、てかなんで辞めたか知ってる?」

藤井は一瞬、私の顔の方に目線を上げたが、「いや、知らないですね」と答えると、また熱心に指を動かし始めた。

「えー莉香ちゃんでも知らないのかあ。まあどうせセクハラとかじゃない?昔はセクハラで女の子辞めさせたけど、今後は自分が辞めさせられたとか?ウケるんだけど」

藤井は下卑た笑みを隠す素振りも見せなかった。私も、何も言わなかった。

「ま、お互い頑張ろー」

と間延びした声を上げ、藤井はまた別の社員の席へと移っていった。その横顔は水を得た魚のように生き生きと輝いていた。


 終業時間を告げる蛍の光の音楽が鳴った瞬間、社内チャットの通知が画面右下に上がってきた。藤井からだった。

『おつかれ!飲み行かない?』

『今日ですか?』

『もち!』

少し躊躇って、返事を打った。

『いいですよ。ちょっと残るので、七時半以降で良ければ』

『全然おっけ!俺も今日中に片さないといけない案件あるから!』

いつもならうまいこと理由をつけて断っていただろうが、断る理由を考える気力も残っていなかった。

 七時半を少し過ぎたところで、席まで呼びに来た藤井と連れ立って会社を出た。外はもう真っ暗で、空気は冷たさを増していた。痛いような風が容赦なく吹き付け、顔や耳の表面だけでなく、コートの薄っぺらい生地を突き抜けて、体を芯から凍えさすようだった。反射的に体を縮込めた。ポケットに突っ込んだ指先は冷えていくばかりで、このまま動かなくなってしまうのではないかと思うほどだった。この時期、クマやリスが冬眠するのは至極真っ当なことで、冬眠もせずあくせくと活動している人間は自然の摂理に反しているように思えた。

「何気に初じゃない?莉香ちゃんと飲みにいくの」

「そうですね」

「俺結構誘ってなかった?」

「でしたっけ。なんかタイミング合わなかったんですかね」

他人事のように話す私に、藤井はなぜか納得したような顔で「あーね」と返した。冬の風から逃げるかのように、私たちは自然と歩く速度を速めた。路肩の木々はやせ細った茶色い枝々がむき出しになっていて、二か月ほど前には巻き付けられていた電飾も、いつの間にか取り払われていた。

 藤井が選んだ居酒屋は、全席個室になっていたが、人々の賑わう声で混んでいることはすぐに分かった。入口でしばらく待っていると、無表情な店員が大股で歩いてきた。

「っせ。ご予約は」

胸元の手書きの名札のポップさとはかけ離れた不愛想な態度だった。

「してないんですけど、いけます?」

「何名様ですか」

「二人っす」

店員は、藤井が掲げたピースサインには一瞥もくれず、受付にある端末を操作した。どうぞ、と呟くなり、早足で歩き出した店員に置いてかれまいと、同じように早足で入り組んだ店内を歩いた。通された席は二名用ぴったりの席で、少し窮屈な印象を受けた。鞄の上になるべく小さくコートを畳んで乗せながら、ちらりと藤井の様子を窺ったが、藤井は何も気に留めてない様子でタッチパネルを操作していた。

「飲み物何する?ビール?」

「ジンジャーエールで。飲めないんで」

「えー、そうなん?飲んでると慣れて飲めるようになってくるよ。シャンディガフとか女の子でも結構飲みやすいと思うけど」

「いや、まあ、明日もあるんで」

「えー真面目だねえ。なんか食べたいもんある?」

私がパネルを覗き込むと、画面の右側には既に藤井が選んだ食べ物が並んでいた。ポテトサラダ、だし巻き卵、鶏の唐揚げ。普段は居酒屋で注文しない三大メニューだった。私は項目ごとに分けられたメニューを順番に眺めたが、結局どれもピンとこず、仕方なしに豆腐のサラダを選ぶと、藤井は「めっちゃ女子じゃん」と満足そうに笑った。


 一時間ほどの間に、藤井はビール、ハイボール、グラスワインと、様々な種類のアルコールを次々に頼んではぐびぐびと流し込むように飲んでいた。酒は強いと話していたが、目を充血させ、些細なことでゲラゲラと喉を鳴らして笑う姿は、それなりに酔っぱらっているように見えた。

「大丈夫ですか。そんなに飲んで」

「え?全然余裕。俺めっちゃ酒強いよ」

「すごいですね。私全然飲めないので。飲める人羨ましいです」

「いや飲んでたら絶対飲めるようになるって。なんか頼む?今」

「いや、今日はいいですよ。藤井さんも、もう烏龍茶とかにしときますか。明日もあるし」

「全然酔ってないから。俺のこと心配しすぎじゃない?」

藤井は一人楽しそうにケラケラと笑った。

「てかこれでも飲酒量減った方だから。すすきのいた頃はもっとやばかったから」

「すすきのにいたんですか」

「あれ、言ってなかったっけ?」

関西訛りでないしゃべり方から、恐らくどこか関東の方から出てきたのだろうとは思っていたが、まさかそんなにも遠いところからきているとは知りもしなかった。

「二十で就職してこっちきたけど、それまではずっとすすきのにいたんよ。これ、すすきの時代の俺」

そう言って藤井はスマートフォンの画面を差し出した。髪を明るく染め、ぴったりとした色の薄いジーンズを履いている男性は、今よりもかなり細身だが、顔をみれば確かに藤井で、顔つきにはまだ幼さが残っていた。

「痩せてますね」

「え、でしょ。この仕事始めてから激太りしたんよね。多分二十キロくらい。痩せてたら結構イケメンじゃない?」

「まあそうですね」

「リアクション薄くない?まじで女子高生にめっちゃモテてたんだから」

藤井はそこからすすきの時代から現在に至るまでの話を懇切丁寧に語った。すすきの時代は専門学生だったこと、学生の傍ら夜職のスカウトのアルバイトをしていたこと、スカウト中に仲良くなった女子高生と関係を持っていたこと、その子伝いに藤井のファンクラブができていたこと、そのファンクラブの子らとも関係を持っていたこと、就職を機に関西へ引っ越してきたこと、今は彼女と同棲していること、彼女は看護師をしていること、彼女が夜勤の日は難波にあるクラブで遊んでいること、犬を飼いたいが彼女に反対されていること。いつにもまして饒舌にしゃべる藤井は、話している間に酎ハイを三杯おかわりした。

「何飼いたいんですか?」

「何?」

「犬、何飼いたいんですか?柴犬?」

「えー、なんだろ。実家ではチワワ飼ってたんだよね」

そういえば莉香ちゃんってチワワっぽいよね、と藤井は得意げに笑った。目ばかりぐりぐりと大きくて、踏んだら簡単に潰れて死んでしまいそうな小さな犬だ。よりにもよってチワワか、と思ったが、引きつった顔を悟られないように、無理矢理口角を上げて、初めて言われました、とへらへら笑う私は、なるほど、確かにチワワなんだろう。

 すすきの時代の話が始まった時からずっと、藤井の膝が私の膝に当たり続けているのが気になっているのを、結局言い出せないまま会はお開きになった。


 酒は一滴も飲んでいないのに、胸やけがひどく、気持ちが悪かった。家に着くとすぐにトイレに駆け込んで、便器を抱え込んだ。喉でゴボボと不快な音が鳴った。口の中に酸っぱい味が広がり、目の前に黄色い吐しゃ物が流れ出した。その臭いと光景が余計に気持ち悪さを掻き立て、さらに嘔吐した。ぐえっ、ぐえっ、と鳴るばかりで、透明な液体しか出てこなくなって、やっと私は便器を手放した。這うように洗面所に移動し、うがいをして、何度も口をゆすいだ。口元をタオルで拭って顔を上げると、洗面所の鏡に映った見知らぬ女と目が合った。その女は虚な顔をして、こちらを睨んでいた。あれは私か。小さく萎縮した黒目が深く滲んでいた。いい加減にしようや、と言うと、その女もいい加減にしようや、と返した。

 膝を抱えこみ、頭を床につけて小さく丸まると、涙がこぼれた。自分は、惨めで、愚かで、情けない人間だと思った。もっとうまく生きていければよかった。いや、うまく生きれなくても、背筋を伸ばして、毅然とした人として、生きていたかった。それが無理なら、何もかも消してしまいたかった。苦しい思いをしなくてすむなら、楽しい思い出もいらないし、惨めな思いをしなくていいなら、優越感になんか浸れなくてよかった。私は一生幸せになれないのだと思った。そういう呪いを自分で自分にかけて、だから私の心の底には穴が開いているのだと思った。明日が来なければいいと思った。

 カッターの刃を出し、腕に強くあてて横に引くと、幾重にも重なった白い筋の上に、ゆっくりと赤い筋が浮かび上がり、赤い血が玉になって表れた。

「ほんまに死にたいんやったら縦に切らんと。そんなんじゃ死ねへんで」

記憶の中の母の声だけが頭に響いた。

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